第3話 光の細道

 午後2時11分。

 窓に当たる雨粒は、さっきまで細い点だったのに、気づけば線になっていた。〈雨路センター〉の空気がすこし重くなる。早瀬綾芽は画面を見つめ、同じ場所に色が何度も乗り直すのを眺めた。呼吸をひとつ置いて、机上の地図に短い赤い矢を足す。誰かが迷子にならないように、人の歩幅で。


「偽物の図、見ます?」

 霧島蓮がタブレットを傾ける。矢印は派手で、言葉は命令口調だ。

「きれいすぎて、嘘くさい」綾芽は苦笑した。「でも信じる人はいる」

 窓が鳴って、風の向きが変わる。遠い雷が、まだ冗談みたいに笑った。


 午後2時23分。

 天心地下街では、御堂夏海がプリンターから新しい紙を引き抜いていた。

 《一段上がって、周りを見る》

 角に細い蓄光テープを貼る。明るい今は目立たず、暗くなれば必要なぶんだけ光る。

「命令じゃない。お願いで」御堂は自分に言い聞かせるように呟いて、掲示を抱えた。


 機械室では、リンが片耳のヘッドホンを外してポンプに顔を寄せる。

「唸りが、重くなった」

 宇多川仁がレンチを握り直す。「持つか」

「今は。……でも、長くはないと思う」

 リンの声は小さいが、確かだった。


 午後2時35分。

 名香川の堤防で、松永茂が立ち止まる。右の耳には重い水、左の耳には軽い風。その差は紙一枚ほどだが、彼の内側では大河の分かれ道に思えた。

 ポケットの古い携帯に短い文を打つ。《半刻は持つ。地下は、今のうち》

 送信してから、指先で耳の奥をそっと押さえる。雨の匂いが強くなった。


 午後2時48分。

 〈雨路センター〉のチャットに、樋口透から新しい通知が落ちる。

《ドライバーから路面実況、入ってます。浅い冠水の抜け道、共有できます》

 霧島が地図に小さなピンを立てるたび、街のどこかで車のワイパーが一段速くなる気がした。

「細い道が、街の体温を下げる」綾芽は独り言のように言った。


 午後3時04分。

 地下街の階段で、人の列が短く息をつく。掲示の言葉が視線をひとつに集め、半歩の間ができる。

 御堂は先頭の肩にそっと手を置く。「そのまま、ゆっくり」

 ベビーカーのタイヤが段差を越える瞬間、後ろの若者が自然に前輪を持ち上げた。誰も教えていないのに、列は止まらない。

 踊り場の壁に貼られた蓄光テープは、まだ光らない。けれど、目はそこへ吸い寄せられる。


 午後3時19分。

 FMから神代砂羽の声が流れる。

「地下街をご利用の方へ。いま、矢印を貼り足しています。慌てず、見えるところへ。困ったときは、遠慮なく声をかけてください」

 軽い声なのに、言葉は重心が低い。スマホ画面には矢羽の写真が増えていく。誰かが見つけ、誰かが運び、誰かが貼る。見えない手の連なりが、薄く街を縫う。


 午後3時31分。

 雨の白へ飛び込むように、配達ライダーの吉永駿が地下街へ駆け込んだ。

「蓄光、追加あります?」

「ここ」御堂が束を渡す。

「外にも貼っとく。雨樋、直撃してる角、三つ」

 吉永は振り向きざま、親指を立てて走っていった。濡れた背中が軽い。

 地上の軒先には、心細いほど細い、けれど確かな光の矢が増えていく。


 午後3時44分。

 機械室で、整備員が顔をしかめた。

「噛んでます。逆止弁の蝶番に、糸みたいなのが」

 宇多川が懐中電灯を差し込み、眉を寄せる。

「マスクの耳ひもだ」リンが囁いた。

 小さな白い輪が、黒い金具に食い込んでいる。

 宇多川は息を吐いて、短く言う。「よく聴いた」

 弁が軽く動く音は、雨音よりも小さく、しかしはっきりしていた。


 午後4時02分。

 綾芽の端末が震える。

 《港の夜警:第4図》

 手描きの矢羽は、前よりも短い。踊り場から横に移る矢印、地上では三歩と六歩が指で測ったみたいに刻まれている。

 鉛筆線の間隔が、ところどころ揺れていた。同じ手ではない。

 綾芽は図を眺め、目の奥が熱くなる。

 「——誰かが、引き継いでる」

 独り言は、霧島に聞かれていたが、彼は何も言わなかった。


 午後4時16分。

 神代の声がまた流れる。

「地下街の一部を閉めています。矢印が示す場所に、静かに集まってください。ベビーカーや荷物は、近くの人と声を掛け合って」

 言葉はやわらかく、背骨はまっすぐだった。

 列の中ほどで、年配の夫婦が立ち止まる。御堂は片手で手すりを掴み、もう片方で二人の肩を押すでも引くでもなく支えた。

「大丈夫。いっしょに」

 二人は頷き、段を一枚登る。後ろの青年が、息を合わせて動いた。


 午後4時28分。

 堤の上で、松永が右耳を押さえた。

「重さが変わった」

 言葉は風に紛れたが、彼の身体は知っている。遠くの上流で積み木がひとつ崩れたような、微かな遅れ。次の重さが来る。

 同じ頃、〈雨路センター〉の画面で、帯が補給される。色が濃くなり、舌のように市街へ伸びる。

 綾芽は電話を取り、御堂へ短く告げた。

「B2、閉めて。通れる高さは残して」

 宇多川の合図でシャッターが降り、半分で止まる。向こう側の光が、細い帯になって揺れた。


 午後4時43分。

 樋口から再び通知が落ちる。

《タクシー隊、臨時乗り場を拡張。NICU搬送ルートの段差、ドライバーから逆報入ってます》

 綾芽は「助かる」とだけ返し、鶴田へ電話を回す。

『最後の階段、先に人を集める』

 短い声の向こうで、誰かの足音が重なっていく。


 午後4時59分。

 雨は居座る。

 〈雨路センター〉の引き出しの奥に、古い蛍光テープの小さな巻きが残っていた。色は規格から外れているけれど、目はそれを頼りにする。

 誰かが、私費で買って、貼った。

 “港の夜警”。名前はひとつなのに、線は複数の手を知っている。

 綾芽はテープの芯に指を通し、回してみた。細い光が指の間で揺れて、雨の匂いと混ざる。


 午後5時12分。

 河口の監視室で、花井進が潮位表と水門盤を見比べていた。電話が鳴る。

『花井さん、閉めますか』

 秒針の音が、やけに大きく聞こえる。開けていれば内水があふれ、閉めれば上流が詰まる。

 花井は窓の外の白を見つめ、受話器に顔を寄せた。

「——分の勝負になる。こちらは、こちらで持たせる」

 通話を切ると、肩が一度だけ上下した。

 その瞬間、地下街の踊り場で、蓄光テープがわずかに息を吹く。

 光の細道が、街の中でしぶとく延びていた。



用語解説

•矢羽(やばね)

手描きの矢印サイン。人の歩幅で短く刻み、迷わず進ませる“目の合図”。

•蓄光テープ

光を溜め、暗くなると淡く光るテープ。停電や視界不良時に“少しだけ”頼りになる。

•逆止弁(ぎゃくしべん)

水の逆流を防ぐ弁。小さな異物でも動きが鈍ると、地下へ水が入りやすくなる。

•光の細道

危険を前に完全には止めず、人が通れる細い流れを残す導線。街のなかに生まれる“細い安全地帯”。

•港の夜警

差出人不明の手描き避難図メールの署名。ひとりか、複数か——矢羽の線からは複数の手の気配がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る