第29話 逃亡
(セイラ視点)
「本当に行くのかよ」
事情を知ってる、バンドメンバーの子が私を心配する。
「うん。行くよ」
「何か、あったら頼っていいんだからな」
オドオドしながら彼女はそう答える。
まただ。また、私の心を揺さぶるような発言が飛んでくる。
私は、もう決断したのに。
◇
「よろしくお願いします」
お見合いは、高級料亭で執り行われた。
「よろしく頼むよ。がはは」
黒田社長は、下品な笑みを浮かべ私をジロジロ見つめる。
「お、お手柔らかに」
「もちろんさ。」
運ばれてくる料理は、見たこともないような一級品のものばかりだった。
私は、緊張で殆ど味を感じなかった。勿体無い。
「……美しいな、君は」
黒田社長の濁った声が、料亭の静寂にいやに響いた。
その目が、料理ではなく私の身体を舐め回すように見つめているのを感じ、背筋に冷たいものが走った。
「は、はぁ……ありがとうございます」
声が震える。盃を持つ手の指先まで力が入らない。
「緊張することはない。オレは君を気に入った。『直感』的にね。……だから、安心して身を預ければいい」
黒田は下卑た笑みを浮かべ、盃を干す。酒の匂いとともに吐き出される息がやけに生臭く感じられた。
「そ、そんな急に……」
私が言葉を探す間もなく、黒田は唐突に立ち上がった。
「セイラさん。ここじゃ落ち着かないだろう。もっと君と語れる場所があるんだ。……行こう」
「い、いえ……でも、私はまだ――」
言葉を挟む隙を与えず、黒田は当然のように私の腕を取った。
「遠慮はいらん。君は夢を追い、、そう。歌に生きてきたのだろう? これからは、オレのもとで思う存分生きればいい」
私は抗議の声を飲み込み、ただ曖昧に頷くしかなかった。
料亭の廊下を歩く間、仲居たちの小さな驚きの視線が刺さる。
その視線に助けを求めたい衝動が喉までこみ上げたが、声に出すことはできなかった。
玄関の外には黒塗りの車が待っていた。
運転手が無言でドアを開ける。
私は流されるように、その後部座席へ押し込まれた。
――先ほどの料亭が遠ざかっていく。
胸の奥にざわめきが広がる。
どこに連れて行かれるのか分からない。けれど、本能が告げていた。
「ここから先は戻れない」と。
「ねえ、黒田さん……これって、お見合いの後にしては……」
勇気を振り絞って声を出した。
「ははは、細かいことを気にするな」
黒田は笑った。その笑顔には、心からの温かさなど一欠けらもない。
「君は今日から特別なんだ。オレが選んだ。それだけで十分だろう?」
十分なんだろう。『彼が私を選んだ。』そしてウチの会社は救われる。私が選んだ道でもある。
◇
たどり着いたのは、郊外にある黒田の別邸だった。
無機質に広い玄関、重く閉ざされる扉。
空気が淀んでいて、ただ居るだけで呼吸が浅くなる。
「安心しろ、セイラさん」
黒田の声が背後から迫る。
「ここがお前の新しい居場所だ。君の歌も、夢も、全ては昇華され、新たに。ここから始まるんだ」
『ここから、始まる』黒田社長は私にそう嘯く。
そして、私の肩に触れる。社長の鼻息が荒くなる。その時、私はこれから何が行われるかを理解した。
『私は、初めてを彼に捧げることになる』と言うことを。
「いやだ」自分の感情を痛嘆する。
『そうですね。もし、夢咲先輩が困っていることがあったら言ってくださいね。僕も出来るだけ力になります。』佐伯くんの声が蘇る。私の初恋の人。
『何か、あったら頼っていいんだからな』そう発言した子は、私の初めてできたバンド仲間の子だった。
そして、
『勇気持てました?』と言ったときの少年が想起される。
いま、彼の言葉をちゃんと理解した。私が選んだ選択は、勇気を持った選択ではなかった。親から言われたことに対して反抗出来なかった、臆病な選択だったんだ。
親から言われた婚約相手と結婚し、体を好き勝手される。
「……そんなの、私、望んでない」
思わず絞り出した声はかすれていた。
「望む必要はない。オレが決めたことが、君の運命になるんだ」
その言葉で、私の中の糸がぷつりと切れた。
――逃げなければ。
踵を返して走り出す。
夜気が冷たい。庭の塀を越え、舗装の悪い道を駆け抜ける。
必死で走り抜けた先、ふと開けた路地で足が止まった。
そこに二つの影が待ち構えていた。
一人は、病的な迄に肌の色が白かった。髪の毛も蒼白色の人物。
対して、もう一人の男は褐色の肌に漆黒の髪を持つ巨漢だった。
「貴方は、逃げられませんよ。おそらく。運命は社長を支持してますから。ね!烈火さん?」
白い男が目を閉じそう発言する。彼の首元のペンダントが揺れる。
「天命よぉ。おれぁ、運命だかなんだか知らねぇ。仕事をこなす。それだけだ。悪く思うな嬢ちゃん」
烈火と呼ばれる男は、そう発言した後、地面を蹴りあり得ない速度で私に近づく。
先ほど、烈火がいた場所のコンクリートはひび割れ、窪んでいる。
ここまでか。
そう、私が観念しようとした時だった。
――チャリンチャリン
ベルを鳴る。
自転車は、私に近づいてきた男を跳ね飛ばす。
その自転車の運転手は、、
「少、年?」
私のよく知る人物だった。
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