第2話 嫌な予感(確信)

 大学生活が始まって、まだ一週間。


 桜はすでに半分ほど散り、歩道の端に吹き溜まりを作っている。

 初めてのキャンパスは広くてきれいだが、講義の半分は眠気との戦いだ。


 この日も俺は、巨大な教室の後方席で、机に頬杖をついていた。

 スクリーンには数式だか理論だかわからない図が映っているが、俺の脳には一切入ってこない。


 ――エンディング後の世界って、もっとキラキラしてるもんだと思ってたな。


 高校時代はイベントだらけだった。バレンタインだの文化祭だの、原作のシナリオ通りにドタバタして、気がつけば一年が終わっていた。

 それが今は、講義を受けて、昼飯を食って、家に帰るだけ。

 ……悪役の俺にとっては、平和すぎる毎日だ。




「なあ、篠宮って同じ高校だったよな?」


 不意に前の席の男子が振り返ってきた。名前は確か、田代。入学式の日に軽く挨拶しただけのやつだ。


「何?どうかした?」

「いや、この前駅前で見かけたんだけどさ……佐伯って覚えてる?」


 佐伯――悠真の苗字が出た瞬間、少しだけ背筋が伸びた。


「もちろん。どうした?」

「浪人してるらしいぞ、あいつ」


 田代は声をひそめ、面白そうに続けた。

「高校の頃モテてたじゃん。けど今年、大学受験で全部落ちたって。今は予備校通ってるらしい」


「へえ」


 俺はできるだけ興味なさそうに返した。

 でも内心では、昨日駅前で見た猫背の姿と、この話がぴたりと重なっていた。



 講義後、特に用事もなかったはずなのに、気づけば足は駅前へ向かっていた。

 夕暮れの通りを歩いていると、カフェの窓際に見覚えのある横顔があった。


 淡いベージュのコートを着こなす女性――水瀬 梨花。

 高校時代、正統派ヒロインとして誰もが憧れたお淑やかな少女だ。

 あの卒業式の日、夕暮れの校庭で佐伯の告白を受け、微笑んでうなずいた彼女の姿が、今も鮮明に蘇る。


 しかし、その表情はどこか曇っていた。


「……篠宮くん?」

 目が合うと、梨花は一瞬だけ硬直し、それから控えめな笑みを浮かべた。

 その笑顔には、わずかに警戒の色が混じっている。


「久しぶりだな」

「……ええ。ここで何を?」

「通りがかっただけだよ」

 俺の答えに、梨花は小さくうなずいたが、視線は探るように揺れている。


 テーブルには参考書と色ペンでびっしり書き込みのあるノート。


 ページの端には数学の公式や赤い丸印。

 俺は軽く肩をすくめ、かまをかけてみた。


「佐伯に教えてたんだろ?」

 梨花の指先がぴたりと止まる。


「……どうしてそれを」

 低い声。目がわずかに見開かれている。


 図星か。けれど俺は適当に笑ってみせた。


「勘だよ。お前、昔から面倒見いいしな」

「……別に、そんなこと」


 梨花は視線を逸らし、急に立ち上がった。

「もういいです。それじゃあ」


 すれ違いざま、ふいに「ガタン」と音が響いた。


 梨花の手から分厚い参考書が滑り落ち、床に付箋が散らばる。

 周囲の客は足早に避けて通るだけだ。


 俺は無言でしゃがみ、参考書と付箋を拾い集めた。

「ほら」

「……そ、そうですか」

 その声はさっきよりわずかに柔らかい。


「別に助けたわけじゃない。踏まれそうだったから拾っただけだ」

 軽く肩をすくめて背を向ける。

 後ろからの視線を感じたが、振り返らなかった。


 かすかに届いた声だけが耳に残る。

「……ありがとう」

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