第十五話 客室「浮舟」その二 side:七瀬華
ブルルッ、ブルルッ
女湯の脱衣所で、私の薄いピンク色のスマートフォンが振動する。何だろうと思って暗証番号を入れて画面をスワイプすると、献栄学園の用務員の佐々木さんからのメールだった。佐々木さんには、この合宿に来る前に、松井美弥の写っている写真を探していただいていた。メールには、卒業アルバムに一枚だけ写真が残っていたので、それを撮影したとあった。添付の写真を開くと、体育祭であろうか、両サイドを男子に挟まれた、ひときわ美人な女の子が体操服を着てピースサインをしていた。まさにクラスのマドンナという言葉が似合いそうな華やかさがあった。
簡潔かつ丁寧に佐々木さんにお礼のメールを送ると、私は髪をまとめて、浴場に向かった。温泉の分析表を見る。ここはナトリウムが多く、塩化物泉という分類になるそうだ。効能は、『筋・関節痛、打撲、ねんざ、冷え性、慢性婦人疾患、月経障害、不妊症、病後回復によい。』と書かれていた。少し冷え性の私にはありがたい。
時間が少し遅いので、湯船はほぼ貸切状態だ。湯船につかりながら、鈴木君が言っていたことを思い返す。なぜ、ルサールカに鰭ではなく、足がある事を隠したのか、私にはよく分からないが、あのYouTuber失踪事件に関わっていた、少女の霊とされるもの、あれには確かに足があった。少女の霊がルサールカとするならば、それに近づくのは危険だと思う。鈴木君の身の安全を考えて、念の為、忠告した。
お湯に浸って、そろそろ髪でも洗おうかと思って湯船から出ようとした時、
「あらっ、七瀬先生。こんばんは」
若女将の静江さんに声を掛けられた。華奢な私の身体に比べて、柔らかな包容力に満ちた魅力的な体つきだ。お腹には縦に傷跡があった。
私が身体を見ているのに気づいたのか、
「あぁ、この傷ね。これは帝王切開の跡よ。三人目を産んだ時、ちょっと危なかったから、ね」
静江さんが、そう言いながら、私の隣に入る。
「お子さん、三人いるんですか」
私は思わず、質問する。とても三人も産んだとは思えなかったからだ。
「そう。三人ともやんちゃな男の子なの。一番上は大学生で、一番下は中学生よ。ほんとは、女の子も欲しかったんだけどね」
「そうなんですね。でも、働きながら子育てって大変じゃないですか」
私は、母の姿を重ねながら質問した。私の母親は、ワーキングマザーという感じで、私は半分、祖母に育てられたと思っている。
「そうね。うちの場合は、旅館の近くに家があるし、母や父が子供達を見てくれるから、本当に助かっているの。今は、だいぶ手がかからなくなったから、こうやって、仕事に打ち込める状態になった感じよ」
静江さんは静かに語る。
「ところで、七瀬先生は生物の先生だったかしら」
「そうです。豪先生から何か聞かれましたか」
もしかすると、大山先生は、姉の静江さんに話しているかもしれない。私は念の為に尋ねた。
「ふふっ。まぁ、色々とね。ここから近い竜宮淵って、ご存じ?」
静江さんが、はぐらかしながら質問してくる。
「えぇ。竜神様の伝説があるんでしたっけ」
「そうなんだけど、実はそれだけではないの。あそこの淵は特殊な環境でね。川魚が一切生息していないの」
「それは、どういう環境なんですか」
私は少し身を乗り出して尋ねる。
「この近くの藤和大学の水産研究センターの先生によると、淵にあるのは、ここの源泉と渓流の水が混ざり合った塩気が多くて温かい水らしいの。だから、塩を嫌う川魚が寄り付かなくて、特有の環境が出来ていると言っていたわ。定期的に大学の先生が水質調査のために、水を採取しているから、七瀬先生も生物の観察にどうかと思って」
なるほど。シェイプシフターの謎とは関係ないかもしれないが、竜宮淵に行くのは悪くないかもしれない。スケジュールを考えると、私が単独で動けるのは、今夜から早朝にかけての僅かな時間。遭難のリスクやYouTuber失踪事件の事を考えると、早朝に行動する方が安全だろう。私はそういうことを、ぶつぶつ考えていた。
「七瀬先生」
「はいっ」
私は突然の呼びかけに素っ頓狂な声が出てしまった。
「うちの豪。昔はね。山でよく遊んでいて、虫も平気だったんだけどね。中学生に入った頃に、ひどいイジメに遭ってね。ゴキブリやらカメムシやらをカバンや靴に入れられたりして、大変だったの。私は仲居の修行で忙しくて、なかなか面倒を見てあげられなかった。それから、虫がダメになって、山で遊ぶことが無くなったの。高校は地元を離れて、全寮制の男子校に行って、ラグビーに打ち込むようになって、ようやく明るさを取り戻したんだけど、虫がダメなところだけ残ったの。だから、気にかけてくれれば嬉しいな、なんてね」
大山先生の謎が解けた。虫がダメなのは、心的外傷、トラウマだったのだ。大山先生にそんな素振りがないから、全然気にしていなかったが、私は無神経にトラウマをえぐっていたのかもしれない。
「そのっ。すみません」
私は罪悪感から謝った。
「いいのよ。きちんと言わないあの子も悪いんだから。男子校に進んで、体育会系だから、女性との関わりが少なくて、あの年になるまで彼女の一人もいない。豪のこと、姉なりに心配しているの」
「そうなんですね」
「それでね。久々に出た女性の話題があなただったってわけ。あなたには、あなたの好みがあるでしょうから、無理強いはしないけど、少しでも、豪のこと、気に入ってくれるなら、知っておいてほしいなと思って話したの」
静江さんは可愛らしく微笑む。
「色々とお話いただき、ありがとうございました。私は髪を洗って先に失礼しますね」
私はそう言って湯船から上がった。静江さんは、にこやかに手を振っていた。
私は髪を乾かし、浴衣を着、髪の毛を緩めのゴムで緩いポニーテールにまとめて、荷物を持って女湯を出た。
浴場から部屋に戻る廊下で、大山先生とすれ違った。
大山先生もこれから風呂なのだろうか。
「七瀬先生。うちの風呂はどうでした?温まるでしょう」
大山先生はにこやかに聞いてきた。
「えぇ。良いお湯でした」
私は、そう答えながら、静江さんに言われたことを反芻する。
大山先生は昔、酷いいじめにあって、虫が苦手になってしまった。
そして、そうとは知らずに大山先生を連れ出してしまった。
口の中が乾燥して、胃がきゅっと縮こまる。
「どうかしましたか。七瀬先生」
私の変な様子に大山先生は気づいたようだ。
「あ、あの。その」
私は喉元まで出かかった言葉を必死で紡ぎ出そうとする。
「この前、昆虫館に連れて行って申し訳ありませんでした」
勢いあまって、廊下に響くような少し大きな声で謝罪した。
静江さんの話を聞いた以上、謝らないとばつが悪い。
「あぁ、その事ですか。さては、姉貴から吹き込まれましたね。姉貴も余計なことをする」
そう言って大山先生は頭をかいた。
「それじゃ、いじめが原因で、虫が苦手になったというのは?」
私は静江さんに話を盛られたのではないかと思い、確認した。
「それは、本当です。あの頃は、本当に毎日が嫌でした。恥ずかしながら、いつも遊んでいた山にも踏み入れるのが怖くなった。でも、体を鍛えて、スポーツを通して仲間ができて。こう、何と言いましょうか、他の人に支えられているっていう実感が出来てからは、徐々にではありますが、あの頃の恐怖も和らいできています。だから、きっと、いつか虫が怖いというのも克服できるんじゃないかと、そう期待しているんです。まだまだですが」
大山先生はそう言ってニカッと笑い、男湯の方に向かって歩いて行った。
私は、その大きくたくましい背中を見送った。
私が部屋に戻ると既に布団が敷かれており、美月先生はノートパソコンに向かっていた。
「美月先生、ありがとうございます。お仕事ですか」
「いえ。ついでだったので。ちょっと冬期講習のプリントを作っていまして、期限が年明けなので、仕事をさせていただいています」
「忙しい中、同伴ありがとうございます」
「いいえ。こうやって、いつもと違う場所で仕事をすると捗るので、ありがたいです」
美月先生は、気を遣っているような、そんな様子を微塵も感じさせない笑顔で答えた。
「それで、明日なんですが、私は早朝に竜宮淵に行こうと思います。朝食までには旅館に戻る予定です。もし、戻れないときは連絡しますので、その時はよろしくお願いします」
「了解しました。ところで、竜宮淵には何があるんですか」
「何があるのかは、よく分かりません。特殊な水生環境らしく、一度調べておくのが良いかと思いまして」
「そうなんですね。私に構わず、先に寝ていてくださいね。明日朝、早いでしょうし」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
私は、そう言って、髪の毛を整えたあと、軽い肌の手入れと、歯磨きをして、床についた。しばらくノートパソコンを打つ音とモニターライトの光を感じながら、眠りに落ちた。
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