第八話 大野旅館 side:七瀬華

「いったん荷物はフロントに預けてください」

 私は、生徒たちに呼びかける。

 大野旅館での昼食、そしてチェックインまでの間の空き時間を利用して、大山先生が旅館の周辺を案内してくれるという。

 荷物を預けた私たちは大山先生に連れられて、旅館の前の舗装された坂道を上る。

「ここら辺は、昔から温泉宿があって、この山に登る人の休憩所となっていました。昭和の登山ブームで一時は登山客で賑わっていたこともありますが、沢が多くて、岩場が滑りやすいため、事故や遭難者が多くなって対応が大変だったと聞きます。また、このあたりの野生動物の中には固有種がいくつかあったため、環境保全の観点から、観光地として開発が難しかったようで、登山道もあまり整備されていません」

 大山先生は丁寧に説明してくれる。

「だから、不用意に山に登らないこと。山に登るには、それ相応の土地勘が必要になるから、自分たちだけで決して登らないこと。いいな」

 大山先生は生徒たちにしっかりと注意を促す。

「先生。先生は、この山によく登っていたんですか」

 佐藤さんが手を挙げて、大山先生に質問する。

「ガキの頃はこの山で遊んでいたから、色々穴場スポットとか知っているぞ。滝が真上から見下ろせるとっておきの場所があるんだが、希望があれば連れて行ってやってもいいぞ。ただし、殺虫剤を持参してくれればの話だが」

「先生、今は冬で虫なんてほとんどいないのに。殺虫剤、本当に要りますか」

 大山先生の言葉に卜井さんがツッコミを入れる。

「いや、念の為だ。もしかすると冬眠中の虫を起こしてしまうかもしれないだろう」

 大山先生は必死で弁明する。

 その様子が滑稽だったのか、生徒たち全員が笑っていた。それにしても、山に入るのに殺虫剤だなんて、焼け石に水にも程がある。

 大山先生の話を聞いて、私は、ふと疑問に思う。日本の山は自然豊かで三万種以上の昆虫が生息していると言われている。昆虫が沢山いる場所で、虫嫌いの大山先生が遊んでいたというのはどういうことなのだろう。

 私たちは、旅館沿いを歩き、正門のちょうど裏手に出た。

「それで、これが大野旅館の菜園です。今は休耕していて何も植えていませんが、普段は旅館の食材の一部をここで栽培しています。うちの親父が畑で収穫した野菜を調理して宿泊客に振る舞っています」

「大山先生のお父さんって、料理人なんですか」

 今度は遠藤さんが質問する。

「そう。昔気質の料理人で、小学生の時から色々と料理のことを教わったんだ。ただ、旅館の経営そっちのけで、料理に夢中なもんだから、お袋が旅館を切り盛りしている有様で。まぁ、今日のお昼ご飯は親父が作るカレーだから期待しておいてくれ」

 大山先生が、そう言っているのを耳にしながら、菜園の端のほうを見ると漁で使う巻き網らしき太い縄が見えた。

「先生、あの太い縄は、何かに使われるのですか」

 私は思わず質問した。

「あぁ、あれですか。使われなくなった巻き網をイノシシ除けに使っているんです。資源の有効活用ってやつですね。海と山が近い、この土地の特色かも知れませんね」


 旅館の裏庭の菜園から徒歩一分くらいの場所に舗装されていないが、手入れされた小路があった。脇には灯籠が佇んでいる。

「この先を行くと竜宮淵、そして竜神の大滝と呼ばれる場所に出ます。人気ひとけはあまりありませんが、人魚の伝承のある観光スポットです。灯籠の中はLEDライトで暗くなると自動で点灯します。暗がりが多いので、安全対策ですね」

 大山先生は、そう言うと腕時計を見た。

「そろそろ、昼食の時間なので、旅館に戻りましょう」


 私たちが、大山先生に引き連れられて旅館に戻ると入り口の横に花屋のワゴン車が停まっていた。そこでは、金髪碧眼の美丈夫が園芸用の手袋をしたまま、鉢植えをワゴン車に積んでいた。

「あっ、ミハエルさん。こんにちは。お花の配達ですか」

 卜井さんが可愛らしく尋ねる。

「そうです。お客さんがチェックインする前に届けているんですよ。毎度御贔屓まいどごひいきありがとうございます」

 ミハエルさんは卜井さんの質問に答えながら、目の合った大山先生にあいさつした。

「いつもありがとう。お袋が喜んでいるよ」

 大山先生の表情には困惑の二文字が浮かんでいた。きっと、ミハエルさんは大山先生のお母さんのお気に入りなのだろう。

 鉢植えの片付けを終えたミハエルさんが車に乗り込もうとした、その時だった。

「あの、ミハエルさん。今夜でも明日でもいいんですが、もし、お時間があるのなら、一度、ロシアの人魚についての伝承をお聞かせ願えませんか」

 鈴木君が真っすぐ、ミハエルさんの目を見て懇願している。

 ミハエルさんは優しく微笑み、

「お安い御用です。今夜、私よりもその話に詳しい人を呼びましょう。夕食の後にでも。あと、その人は、日本語が話せないので、私でよければ、通訳しますね」

 と快諾した。

「いや、しかし」

 大山先生は困惑している。

「あら。いいじゃないの」

 玄関の方から、貫禄のある和服の婦人が出てきた。

「折角、ミハエルさんと異文化の交流ができるんだし、学生さん達にとってもいい機会じゃない。談話室を開けておきますよ」

 婦人は場を仕切る。

「でも、お袋」

 大山先生は婦人に意見しようとするが

「夕食後、談話室『若紫』にて、民話の集いをするということで、そして、私もネタを持っていくわ」

 と勝手に決めてしまった。

「皆様、申し遅れましたが、私は大野旅館の大女将の大山滝子です」

 先程とは違い上品な仕草で私たちに挨拶した。

 そのやり取りが終わるのを待っていたミハエルさんは、「またね」と爽やかに言って、ワゴン車で去っていった。

 私たちは大女将に連れられて、旅館の玄関に入る。

 そこには二人の男女がいた。

「遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます。私は女将の大山静江です。いつも弟の豪がお世話になっております」

 和服を着た女性が深々と頭をさげる。やはり姉弟なのだろう。その可愛らしい顔立ちは、大山先生とよく似ていた。

 続いて、隣に立つ大野旅館のハッピを着た男性は

「私は番頭の大山真一郎です。もし、宿泊中に何か困ったことがありましたら何なりとお申し付け下さい」

 と言って、深々と頭を下げた。

 そうして、一連の挨拶が終わり、食堂に通された私たちは、大山先生のお父さんの作ったこだわりのカレーを堪能したのだった。

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