第21話 母の死



 悠々自適の人生を歩んでいた母久子だったが、社長博が娘紀子を手篭め(てごめ)にしている姿を目の当たりにして、精神的に追い詰められてしまった。


 社長のお気に入りになり可愛がってもらおうと懸命に、実力以上に努力を重ねて今の地位を手に出来たのも、心のどこかにこんな自分でも社長の愛人から格上げしてもらい、いつか妻になれる日を夢見てのことだったと最近やっと気づいて、社長との結婚に前向きだったのに、努々この様な残酷な末路が待っていようなど考えた事もなかった。


 傷ついた娘のことを思うと、社長とは絶対に縁を切ろうと強く誓った久子だった。


「社長話があります。家にお邪魔すれば薫お嬢様がいらっしゃるので……」


「じゃあ夜食事でもしながらでいいか?」


 仕事が終わり社長がよく利用する「料亭花神」で待ち合わせをして話し合った。


「この前は申し訳なかった」


「社長とは仕事だけの関係にして欲しいのです」


「もう随分長い事続いた関係じゃで、そんなこと言わんといてくれっちゃあ!常務取締役に君を任命するから……」


「それでは…娘紀子には一切手を出さないでください。それでしたらまだ未遂だったので紀子の傷も浅かったので許しますが、娘にもしもの事があった場合は今度こそは絶対に縁を切ります」


 社長は今まで散々尽くしてくれた久子にマンションの頭金を出してくれた。申し訳ないので月々の支払いは久子がすると言ったが、月々の支払いも社長が出してくれていた。でも、これからは久子が持つという事で丸く収まった。そしてキーは久子に渡すという事で、マンションに勝手に入ることは出来なくなった。


 社長もついつい美しく成長した紀子に我慢できなくなり、あのような暴挙に出たが、小娘など相手にしてもつまらない。長年連れ添った久子に捨てられたら生きていけない。


 やがて久子は42歳で常務取締役に昇進した。紀子が20歳の時だ。


 この時期になると同族経営なので優秀な人材久子を妻にしておくメリットこそあれ

デメリットはない。例えば意思決定の迅速さ、長期的な経営の安定性、経営者一族が株式の支配権を握っているこで、株主総会での承認プロセスが簡素化されるため、意思決定を迅速に行うことができるなど……。


 そこで博は久子に結婚を申し込んだが、ここで悲劇が起こる。頑張り過ぎた久子に病魔が襲い掛かった。乳がんが見つかった。仕事人間だった久子は仕事にかまけて見逃してしまった。


 まだ若い久子は発見された時にはすでに乳がんのステージ4で、他の離れた臓器(骨、肺、肝臓、脳など)への遠隔転移が見つかり手の施しようがない。こうして…入院して半年後に亡くなってしまった。


 2人の気持ちは1つで結婚に向けて話は進んでいたが、思いもよらぬ悲劇に博は妻八重子が亡くなった時もショックだったが、今度は到底立ち直れそうにない。


 だが、可愛い娘薫を一人前に育てなくてはならない。それともう1人久子の娘紀子も自分の娘同然だ。


 🌷🌹🌷🌹🌷


 紀子は大学4年で母久子を失った。この頃には博を毛嫌いしていたのが噓のように、すっかりあの忌まわしい思いは消えて、博は頼もしい父のような存在となっていた。ましてや、紀子は戦争で父を失い父が欲しいと、ずっと心のどこかにその気持ちはあった。


 大学生活に慣れた頃に、急に博が訪ねて来てお茶を出そうと台所に立った隙に、後ろから襲われ何事が起ったのか、抵抗するので精いっぱいだった。


 確かに最初の内は、母1人子1人の一卵性親子に割り込んで来た博を受け入れ難かったが、その内に違う感情が芽生えて来た。それは自分が願っても叶えられなかった父を得るという儚い夢だ。


 博と初めて会ったのは確か……10歳の時。博の娘の薫がおばあちゃん子で飛騨高山で暮らしていたが、小学校入学と同時に砺波市に帰って来た。紀子より2歳年下の薫は、可愛いワンピースを着た、いかにもお嬢様と言った感じの女の子だった。


 最初の内は社長のお嬢様で近づき難かったが、母久子が仕事の都合で社長と一緒の事が多かったので、年齢も近かった2人はすぐに仲良くなった。


 気が合う紀子と薫はその内姉妹のように仲良くなった。


 休みには社長博の高級車でよく出掛けたものだ。あの時代はまだ自家用車は一般的ではなかったが、車で富山市や高岡市に買い物に連れて行ってもらったり、石川県の「金沢ヘルスセンター」にも連れて行ってもらった。この「金沢ヘルスセンター」は、動物園・演劇場・映画館・小遊園地、さらには大浴場や宿泊施設が併設されていた。


 そんな時に母久子も一緒に4人で出掛けて、美味しい海の幸山の幸を食べさせてもらい宿泊施設で止まり、次の日には動物園・演劇場・映画館・小遊園地などを薫と手をつなぎ遊び回った。


 紀子の心の中にはいつの頃からか、(こんなお父さんがいたらいいな……)と思うようになっていた。


 紀子は父親の温もりを知らない。博おじちゃんと会える日は自分の夢が叶う日となっていた。疑似体験でも今までは全く姿形がなかったが、やっと形となって目の前に現れた。夢にまで見た父を薫から奪いたいとまで思うようになっていた。


 お父さんが欲しくて博の事を父とオーバーラップしつつ月日が流れたのに、父ではなく只の獣だったショックは計り知れないが、そんな時に母が病に倒れた事で感情に変化が訪れた。


 母久子の癌を治そうとお金を湯水の如く使い、名医を探し当て治療法を模索して尽力し続けてくれた。この一連の出来事は筆舌に尽くしがたい。


 🌷🌹🌷🌹🌷


 2人の関係は依然のようには行かないまでも、一定の距離を保ちつつ親代わりとして、何不自由のない生活環境に身を置かせてくれたのは博だった。


 博が紀子に力を注ぐのには訳があった。博は妻八重子が亡くなり久子で救われ結婚を決意した。これでやっと穏やかな生活が送れると思い結婚を誓ったが、またしても久子に旅立たれた。


 その苦しみを癒してくれたのは紀子だった。久子に生き写しの紀子と接点を持つことで紀子に久子を投影する事で、何とか苦しみを乗り越えることが出来た。


「パパ紀子がね。彼氏が出来たのよ。お医者様」


 博は紀子を久子の生まれ変わりくらいに思い、生きながらえることが出来ていたのに、その紀子に彼氏がいると聞かされた博は、自暴自棄になりクラブで思い切り酒を飲み忘れようとしたが忘れられず、その足で紀子のマンションに向かった。


 絶対に哲也に紀子を渡したくなかった博は、とんでもない行動に出る。


 ”ピンポンピンポン“ ”ピンポンピンポン“ ”ピンポンピンポン“


「こんな夜にどうしたのですか?お酒臭い!」


「チョッと話がある。良いかい?」


「まあ頭金も出してもらって、母が亡くなったのでキャッシュでこのマンションを買ってもらったので文句は言えませんから……」

 

 マンションに入った博は紀子に聞いた。


「紀子ちゃん薫が言っていたけど結婚したい男が出来たがあか?」


「そうなのよ。おじさんに話さなくてはと思っていたの」


「俺は……俺は……反対だな。その男は中国山東省に帰って診療所を継ぐというがえろう。中国内陸部の農村地域の貧困層を相手に……そんなところで何不自由なく育った紀子が生活できる訳ないじゃないか。日本は高度成長期の真っ只中で、世界から一目置かれる経済大国に躍進する豊かな国じゃ。中国の山村の生活は酷いものだと聞く。本当にそれでいいのか?」


 経済大国に躍進を遂げたGDP世界2位の中国だが、それでも…現在でも中国の農村部は豊かではない。ましてや1970年代直前は酷い環境だったと言わざるを得ない。お嬢様として育った紀子がそんな環境で生活できるとは思えない。


「だって……哲也さんの事を愛しているもの……」


「紀子ちゃん俺は久子を愛していた。だが久子は亡くなった。でも……でも……久子と同じくらい紀子ちゃんの事も愛している。それは娘としても、女としても……俺と結婚してくれ!」そう言うと紀子を抱きしめた。


 紀子はあの時は不意打ちを襲われたので獣に感じたが、今は違うたとえ28歳差であろうと50代前半の博は高身長に加え「北砺あられ」の婿養子になったほどの男だ。八重子お嬢様が夢中になっただけあって、たとえ50代前半と言っても魅力的なイケメンだ。


 紀子は考えた。あれだけ夢にまで見た父を手中に収めることが出来て、社長夫人にも収まることが出来る。一方哲也はハンサムな中国人医師だが、その生活はこの豊かな日本とは比べ物にならない貧しい生活を覚悟しなければいけない。


 こうして…恐ろしい事件は起きる






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る