第7話 きつつき作戦

 永禄四年の夏――。

 信濃国川中島の地は、まるで執筆の神が筆を止めたかのように、長き沈黙に包まれていた。上杉政虎と武田信玄、両雄が数万の兵を率いて対峙していたが、未だに戦は始まらぬまま、ただ時間だけが巡っていた。

 政虎は妻女山に陣を敷いた。山上の風は涼しく、彼の心もまた冷えていた。彼にとってこの川中島は、通過点に過ぎない。目指すは上洛。眼前の武田軍と無益に刃を交えることは、政虎の戦略にはなかった。無駄な消耗は好ましくない。

 一方、海津城に籠もる信玄は、苛立ちを隠さなかった。彼の軍は、自国領内にありながら兵糧が尽きかけていた。政虎の軍は、関東出兵の折に略奪した兵糧を潤沢に持ち込み、山上にて悠然と構えている。信玄は、政虎の沈黙に焦れていた。戦を仕掛けるか、撤退するか――。その判断を迫るのは、兵糧という冷酷な現実であった。

 ちょうどこの頃、山本勘助が進言したのが、いわゆる「きつつき戦法」である。

 すなわち、政虎の本陣を背後から突き、敵を動揺させたところで、正面から主力をぶつけるという策である。献策を受け、陣幕の中で一人となった時、信玄は独り言を口にした。

「相手はマムシ。これに対してキツツキとは・・・これは如何に・・・」

 信玄はたった一人で不敵な笑みを浮かべた。それは、やがて勝利へ確信へと変化していった。

 彼の脳裏には、戦の構図が絵巻物のように広がる。川中島の膠着を打破するには、ただの力では足りぬ。必要なのは、敵の心を揺さぶる幻影であり、混乱であり、そして一瞬の隙である。

 信玄は、この策に修正を加えた。

 まず、三つの隊を用いる。まず一の隊。これは、夜陰に紛れて妻女山の背後に回り込み、上杉政虎の本陣を襲う。だが、夜半の山中での奇襲は、思うほど容易ではない。上杉軍は精兵であり、たとえ寝込みを襲われようとも、すぐには動じぬ。そもそも、山を下るには道が狭く、闇が深い。混乱の中での撤退は、むしろ自滅に近いだろう

 そこで、二の隊を用意する。これは、上杉軍に扮した者たちである。彼らは松明を掲げ、あたかも政虎の命により退却するかのように振る舞う。闇の中、火の列が動けば、兵はそれに従う。人間とは、光に引かれる生き物である。混乱の中で、誰が本物かなど判別できぬ。こうして、上杉軍は自ら山を下る。

 そして最後に、三の隊。これは、山の麓に潜み、すべてを見届けている。

 一の隊と二の隊が敵を山から引きずり下ろしたその瞬間、三の隊が牙を剥く。逃げ場のない谷間で、上杉軍を迎撃し、殲滅する。まるで、木を叩いて虫を驚かせ、飛び出したところを捕らえるきつつきのように。


 武田の「きつつき戦法」は、奇策であるがゆえに、その実行には周到な秘匿が求められた。とりわけ、二の隊――敵を欺くために上杉軍に扮する部隊――の統率者は、軍中でも秘中の秘とされた。驚くべきことに、その指揮を執るのは、他ならぬ武田信玄自身であった。

 己が姿を隠し、弟・信繁に本陣の指揮を任せる。信繁は、影武者としての役割を負うこととなった。信玄は、戦場においては将であると同時に、役者でもあったのだ。


 その日の昼、信繁と勘助は本陣の一隅で言葉を交わしていた。

 勘助は、なぜか焚火を炊いていた。煙は、風に乗って妻女山の方角へと流れてゆく。

「勘助よ。なぜ、朝から煙ばかりを焚いておるのじゃ?」

 信繁が訝しげに問うと、勘助は笑みを浮かべて答えた。

「この煙を見れば、敵は弁当の支度と勘違いします。兵が飯を炊いていると思えば、夜襲など思いもよらぬ。だが、我が軍は深夜に動く。妻女山の山上では、きっと激しい戦が起こりましょう。信玄公と政虎公が、同時に討ち死にすれば、これ以上のことはありませんな」

 信繁は、ふと遠くを見やりながら言った。

「なるほど、儂が大殿の影武者を仰せつかったのだが、大殿が討ち死にすれば、そのまま儂が当主になるじゃろう・・・」

 勘助は、焚火の煙の向こうに城持ちの幻を見たのか、声を弾ませた。

「はははは、その時はぜひ私に春日山城を一つお任せください!!」

 信繁もまた、笑った。

「ふははは、春日山城とは大きく出たな。まずは政虎と信玄のつぶし合いを見届けてからじゃ!!」

 川中島の空に、二人の奸臣の高笑いが響いた。

 川中島は、やがて血に染まる。武将」たちの胸中には、まだ言葉にならぬ思念が渦巻いていたのだった。

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