第6話 川中島出陣

 上杉政虎が小田原城の包囲を解き、関東の地を離れようとしていた頃のことである。

 甲斐の館では、武田信玄が重臣を集め、静かに評定を開いていた。出陣の下知を下すためである。信玄は、戦を単なる武力の衝突とは見ていなかった。戦とは、国を動かす知の営みであり、時に人心を測る鏡でもあった。

「川中島へ向かう」

 信玄の言葉に、家臣たちは安堵の色を隠せなかった。行き先が小田原ではなかったからである。小田原には、上杉の大軍――数十万とも言われる兵が陣を張っていた。甲斐の武士たちとて、猛将の誉れ高き者ばかりではあるが、無謀を好む者はいない。


 信玄は、戦の前に一つの絵を求めた。快川紹喜かいせんじょうき和尚に水墨画を描かせたのである。政虎に取り憑いたものの正体を、絵に写し取らせようとしたのだ。

 だが、和尚が描いたものは、雪女ではなかった。墨の濃淡で浮かび上がったのは、巨大なムカデであった。

「これは……」

 信玄はしばし絵を見つめた。やがて、静かに笑った。

「政虎に取り憑いているのは怨念なのか。ならば、このムカデを狩るまでよ」

 その言葉とともに、信玄はその絵を旗に仕立てさせた。甲斐の軍旗に、異形のムカデが翻る。

 戦とは、ただ刃を交えることではない。時には、人の心に巣食うものを断ち切るため。信玄は、それを知っていた。武田家と上杉家、両家にまたがる過去の怨念を振り払うため、信玄は川中島へと向かった。


 出陣の下知が甲府の隅々まで行き渡る頃、武田家の重臣のうち、山本勘助と武田信繁のぶしげは、城下の一隅にて密かに顔を合わせていた。信繁は信玄の実弟である。だが、この兄弟の絆は、世に言うような篤いものではなかった。むしろ、信繁の胸中には、兄を凌ぎ、武田家の棟梁たらんとする野心が、燻る火のように潜んでいた。

「川中島か……」

 信繁は呟いた。唇の端に、笑みとも嘲りともつかぬものが浮かんでいた。勘助は、信繁の耳元に口を寄せた。

「川中島の合戦は、これまで幾度となく繰り返されておりますが、いずれも小競り合いに過ぎませぬ。されど、今回も長引きましょう。信玄殿が甲斐を留守にされる折、事を動かせばどうなることか・・・」

 信繁は目を細めた。

「待て。相手は越後のぞ。さすがの信玄とて、討死するやもしれぬ」

 信繁は、あえてと呼んだ。政虎の上杉家相続も関東管領継承も認めない。そんな意図が垣間見えた。

「念のため、城下町に兵を潜ませておきましょう。もし信玄が敗走なされば、その兵を繰り出せば、館を占拠することも、信玄を討ち取ることも叶いましょう」

 信繁は、しばし沈黙したのち、低く笑った。

「さすがは勘助よ……」

「ふふふ……」

「ふははは……」

 その笑いは、初夏の夜の静けさを裂くように、城下の闇に響いていた。まるで、運命の糸を手繰る者たちの予兆のように。

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