第5話 パープル・サーズディ〜咲かなかった紫陽花に、再び光が差す朝〜

紫陽花が雨をしずくとして吐き出していた。

坂の朝は濡れていて、一歩踏み出すたびに時が静かに溶けるようだった。


山根カズキはこの街で、花の仕事をしている。

父が閉めた花屋とは別に、自分で作業場を構えた。名前も必要の無い小さな場所だが、もう一度、花屋で咲く為に、『Soleil』と名付けた。


店というより、花を束ねるための場所。それでも、花は、坂のあちこちに届けている。LUNAにも、シャノワールにも、そして──KITANO GARDENにも。


その配達の途中、カズキは足を止めて、しゃがみ込む。


去年、この枝は咲かなかった。けれど、いまは他のどれよりも鮮やかに色づいている。


「咲かない年が、あってもいいんだな。」


つぶやいたそのとき、どこかで猫が鳴いた。昨日の雨の名残のような、か細い声だった。


カズキはゆっくりと立ち上がる。

白い作業車の荷台には、大きな籠に入った花束。

ラベンダー、ブルースター、デルフィニウム。


それらはこのあと、『KITANO GARDEN』へと届けられる。


坂の上にあるその式場は、街でも一際静かな場所にある。父の代から続く、古い取引先だった。


黒鉄の門を抜けると、石畳のアプローチの先に、白を基調とした洋館が静かに佇んでいた。壁面には蔦が絡み、アーチを描くアイアンゲートには、小さな真鍮のプレートで『KITANO GARDEN』と名が刻まれている。


この街で、もっとも“空気の違う”場所だ。


カズキは帽子のつばを指で押さえ、後部のドアを開ける。

ラベンダーの香りがふわりと空気に混じる。


荷を運び込む途中、スタッフの一人が小さく会釈する。


「今日の分も、ありがとうございます。すごく綺麗です。」


「どういたしまして。こちらこそ、いつもありがとうございます。」


互いに深くは踏み込まない。

それが、この場所の作法だ。


作業を終え、門の外に出たところで、カズキはふと庭先に目をやる。

色打掛を羽織った新婦と、付き添うように立つ年配の女性。


その手元に、先ほどの花束と同じブルースターが見えた。


──あれが、今日の主役か。


この街のどこかで、自分の花が誰かの記憶になる。それだけで十分だった。


カズキは帽子のつばを軽く押さえて、車に戻る。その足取りは、朝よりも少しだけ軽かった。


帰り道、空は淡く晴れ、雲が風に流れていた。


坂の途中で車を停め、助手席から小さな紙袋を取り出す。

中には、母に頼まれたハーブティーと、修理に出していた古いオルゴール。

それは、父が花屋を閉めたとき、最後に残していったものだった。


──音だけは、残しておきたかった。


小さな歯車がゆっくりと動き出し、音が流れる。


──ジムノペディ第1番。


カズキは目を閉じた。音楽は、時間を巻き戻す装置みたいだ。


咲かない花を思い出させたり、止まったままの記憶を静かに揺らしたりする。



家に戻ると、母が湯を沸かしていた。紫のスカーフを首に巻いて、「おかえり」と言う。


カズキは何も言わず、紙袋を差し出す。


母はそれを受け取り、ティーバッグの香りを確かめながら言った。


「紫陽花、今年はよく咲いたわね。あの坂の中ほど、ほら、昔あんたが転んだところ。」


カズキは小さく笑った。


「母さん、よく覚えてるよ。」


夜、ふたたびオルゴールを手にとって、窓辺に置く。


開け放たれた窓の向こう、坂の上にはまだ『KITANO GARDEN』の明かりが見えた。

その灯りの下、ルイ・アームストロングの歌が、スピーカーから小さく流れていた。


And I think to myself... What a wonderful world.


誰が流したのかは、わからない。

風がそっとカーテンを揺らすように、その歌声は胸にしみこんでくる。


──まるで一輪、夜の窓辺に咲いたように。


カズキは、静かに目を閉じた。

そして彼は、明日もまた、花を束ねる。

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