第4話 ラベンダー・ウェンズデー〜止まった時計の針が、そっと動き出した日〜

午前九時半、坂の上に静かな音が降りた。

重厚なシャッターがゆっくりと上がり、曇り空に、時を止めた時計が再び息を吹き返した。


黒漆喰の壁に、古いランプを模した街灯。華やかさの残る商店街の中で、その建物だけが時の流れを違う速度で生きているようだった。


長谷部シンヤは、今日も同じ手順で店を開け、ガラスケースに並んだ預かり物に一礼する。先代である父がそうしていた姿を、子どもの頃からずっと見ていた。


元は国立の理系大学院を修了し、大学の研究室に籍を置いていた。だが、父の急な病で、この店を継ぐことになったのは、六年前の春だった。


そして──町では「名士」と呼ばれていた家業の重さ。


研究職の道を断ち切るには、十分すぎるほどの現実だった。


「慣れました?」


声の主は、向かいの和菓子店·千草屋の奥さんだった。朝の挨拶がわりの会話も、すっかり日課になった。


「まあ、多少は。」


そう笑って返すと、奥さんは頷き、次の客に向き直る。


静かな水曜日。

空はどんより曇っていた。

店内の時計は十時を少し回っていた。


そのとき扉が開き、背の高い、日に焼けた男が一人入ってくる。風雨に晒されたようなキャップを脱ぎながら、手元にはしっかりとした革の箱を手にしていた。


「これ、預けたいんだけど。」


低く抑えた声で言い、箱を差し出す。中には、金色の腕時計。


針は止まっていたが、手入れの行き届いた外装から、それが大切にされてきたことがわかる。


「新人賞もらったとき、自分への祝いで買ったやつで……」


そう言って、男は、ほんの少し目を伏せた。


「今は、坂の下の方で小さな喫茶店をやってます。肩も壊しちまってね。」


「……あの、もしかして──」


「昔、ちょっとプロで球を投げてました。安藤っていいます、安藤シュウ。」


「──やはり、プロ野球の安藤さん。」


長谷部は時計を手に取り、しばし黙する。


「……竜頭、巻いてみてもいいですか?」


安藤は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに頷いた。


「ええ、お願いします。」


長谷部が静かに竜頭を巻くと、内部のギアが小さく噛み合い、音もなく連動し始める。わずかな音とともに、針がゆっくりと動き出す。


「すごい……とても精巧な造りですね。」


その動きを見つめる長谷部の目に、素直な賞賛の色が浮かぶ。


その音を聞いた安藤の顔に、微かな安堵が滲んだ。


「時計は、止まってても“終わった”わけじゃありませんから。」


その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。


安藤は静かに笑い、帽子をかぶり直し、深く一礼して店をあとにする。


誰もいなくなった質屋に、ふたたび静寂が戻る。 長谷部は帳簿に手をかけて、それからふと、棚の奥に目をやった。


──そのとき、どこからか微かな旋律が聞こえてくる。


ドビュッシーの《夢》。


先代が仕舞い忘れた古いオルゴールか、誰かが預けた品のひとつか。誰の記憶だったかは、もう定かではない。


けれどその旋律は、止まったままの何かを、そっと揺らすようだった。



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