化学反応
「え、なんだよ。別にあれだぜ? やましいルートの息子じゃないぜ?」
「やましいルートって……」
元木が復唱する。
「おい俺の事、今、疑ったろ」
「疑ってなんか……まあ、ないとも言いきれないけど」
「親戚の子を面倒見ることになったってだけだっつうの」
「ああ、そういう。うん、なるほど」
元木が苦笑いで誤魔化しているが、どこか安心している風でもあった。不貞じゃないなら良かった、と桑重には間違っても伝えられないが、皆が各々そういう顔をしている。
僕達は思わぬ告白で緊張したせいか、みんな飲み物が空っぽになっていて、揃ってドリンクバーコーナーへと向かうことにした。
桑重はコーラとメロンソーダを混ぜて「ほら見ろ、美味そうだろ?」と掲げている。
中学生が中学生のうちに卒業するような娯楽をいまだに嗜んでいる彼は、たぶん老人ホームに入っても現役だろうということが容易く想像出来る。
しかも「そっちは、またコーヒーかあ。それじゃ何混ぜても美味くねえよな」と勝手に落胆される始末で、つまりは大きなお世話だった。
そんな学生に戻ったような会話に、恥ずかしさと懐かしさが入り交じってなんとも言えない気持ちになる。
潤沢な水分を持って席に戻ろうとすると、僕たちの席のそばに青年が立っているのが見えた。
「どうしたんだろうね?」と三好が僕に囁く。
「誰だろう。何か用事かな」
「でも、誰に?」
「桑重とか……」
何かしらの迷惑を振りまいた桑重に、その青年が腹を立てている状況なら想像がつく。もはやそれ以外のパターンは想像もつかなかったのだけれど、今日に限っては、ひとつ思いついたことがあった。
僕は小さく声を上げた。そんなタイムリーなことがあるだろうか、いやでも。と逡巡している僕の隣を桑重が禍々しい色の飲み物を手に通り過ぎた。
そしてその青年を視界にとらえた彼は
「あ、お前、ついてきちゃったのか?」
と息子にばったり会ったような親密さで、その青年の肩をたたいた。ああ、そうかやっぱりこの子がさっき桑重が言っていた『息子』だったのか。
青年はむすっと口をすぼめて桑重を振り返っただけだったが、それだけで桑重とその青年との仲が思った以上に親子っぽくて、ちょっと泣きそうになる。
おおよそ、『ついてきちゃった』なんていう可愛らしい年頃は、とっくに過ぎているだろうその青年は
「先生、声おっきいって。……ほら、これ。鍵持って出ていくの忘れてっから届けに来たんだよ」
と不貞腐れていた。
その青年は桑重のことを先生と呼んだ。僕の勘は外れていたのだろうか。てっきり、この子が例の、桑重が引き取った子供だと思っていたのだけれど。
そうか。先生というのならば、絵画教室でも開いたか?
大学時代、耳から魂が抜けそうなほど退屈な授業中、僕がうとうと船を漕いでいる横で、桑重が一生懸命ノートに落書きをしていたことを思い出す。
「何してんの?」と小声で訊けば、
「ルソーの『夢』を描いてんだ。この授業、夢の中みたいに、ぼんやりしたことしか言ってねぇから。つまんないんだよな」と。
僕はその『夢』というのが何なのか分からなくて、後でこっそり調べてみたら桑重の落書きは、まるでその絵画を写したようにそっくりだった。
だから、彼が先生と呼ばれるならば、絵画教室の先生しかない。
「ねぇ! この子が桑重の息子!?」
思案している間に、興奮気味に元木が2人の元へ駆け寄っていった。悶々と考えていたのが馬鹿らしく思えるくらいに元木はなんの躊躇もなく訊ねた。
桑重は弾んだ声で「ああ、そうだよ。航太って言うんだ」と青年の肩に手を回す。
「鍵、ありがとうな」
航太くんは不貞腐れたまま「だから、息子じゃねえのに」と顔を背けるだけで、桑重の手を払い除けるようなことはしなかった。
それを見て、僕は優しい子だと思った。
自然と目を惹かれる、整った容姿をしている航太くんは、近寄りがたい雰囲気も持っているが、同時にどこか桑重に似ている気がして親近感がわいた。
「大丈夫? 桑重に振り回されてない?」
元木は軽く笑った。
「まあ、そうっすね。……えっと、先生の友達ですか?」航太くんは首をかしげる。
元木は目を丸くさせながらも、
「うん、そうだけど。ていうか、何で桑重のこと先生って呼んでるの?」と誰もが思っていた質問をしてくれた。
「いや、なんかお父さんって呼べとか言ってくるから、それが嫌で」
「それで先生か」
「それでもだいぶ妥協しましたよ、俺。お母さんでもいいよ、とか言うんですもん。マジで変なんですよこの人」
そうは言うものの、航太くんの表情は柔らかい。
「俺達もつくづくそう思ってるよ」
たぶん桑重の言った『お母さんでもいい』は半ば本心だったのだろうと推測する。建前や方弁が苦手な彼は、思ってもないことは口にできない太刀なのだ。
会っていなかった3年間の間に桑重が変わっていないとするなら、そこは信頼出来る。
「先生っていう響きも悪くないかなって思ったんだよなあ」と桑重は噛み締めた。たぶんこれも本心だ。
結局、桑重は絵画教室の先生でもなければ、医者でもないし、政治家でもなかった。なんの先生でもない先生だったのだが、彼の言い回しは大学生の頃からどこか政治家っぽい。
こんな人が子供を引き取ることに親戚たちは不安を覚えなかったのだろうか。賛成するのはいささか勇気のいることだとは思うが、悲しいことに、そういうことでは無いのだろう。
こう言っては航太くんに失礼だが、あえて言葉を選ばずに言うなら、桑重は引き取らざるをえなかったんじゃないだろうか。
でも、その選択は正解だったと僕は思う。
桑重が先生と呼ばせているせいか、師弟関係にも見えなくはないし。視線や肩の緊張具合から見ても、航太くんは桑重に気を許しているのが伝わってくる。
駆け出しのカウンセラーには、それくらいしか分からないけれど、僕は二人が出会えたことを嬉しく思っていた。
ドリンクバーで、いつも色々な飲み物を混ぜて楽しむ桑重。
これは大学時代からずっと、いや、高校生もしくは中学生の時からのルーティーンだったのかもしれないが、大学4年間のうち、僕は何度か味見を勧められて飲んだことがあった。
今回は傑作だと唆されて飲んだ味は、それほど悪くなかった。
それでも時々、不味いものができるらしく、そういう時は僕に飲ませようとはしてこない。口を尖らせて、不満そうにはするけれど、ちゃんと自分で飲んでいる。
桑重は迷惑を振りまいて生きているけれど、僕は嫌な思いをしたことは一度もない。それは本当に不思議で、多分、航太くんもそう思っているんじゃないだろうか。
そうだといいなと思う。
「俺、塾で遅くなるから。ちゃんと飯食えよ」
航太くんが桑重に言った。これじゃあどっちが親か分からない。
「もう行くのか?」
名残惜しそうに桑重が彼を引き止めた。こんな寂しそうな桑重は初めてだ。
「行くに決まってんじゃん」と航太くん。
「じゃあ、気ぃつけてな」
「はいはい」
航太くんは僕達にぺこりと会釈して、クールにファミレスから去っていった。
そんな彼を桑重はちょっぴりしょんぼりしながら見送っていて、「いい子そうだね」という三好の言葉に桑重はぱっと顔を上げ、誇らしそうに頷いた。
「さすが俺の子だろ?」
後々聞くと、桑重が航太くんを引き取ってからもう1年が経っていたらしい。
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