第8章 【海】
第27話 荒ぶる神々
ノジカがその轟音を聞いたのは、山裾、もうすぐ浜の東側に出るという時のことだった。
すさまじい音がこちらへ向かってくる。聞いたことのない音だ。
驚いて立ち止まった。
視界の端に黒い波が見えた。
大量の丸太や土砂、なんらかの建物だったと思われる木片などを含んで、山の方から波が押し寄せてきた。
その波はノジカに見たことのない荒ぶる神を連想させた。
黒い荒ぶる神が河をなぞるように山を駆け下りてくる。木々を薙ぎ倒し、畑を呑み込み、浜へ向かって押し寄せてくる。
ノジカはその場で立ち尽くした。
怖いと思った。本能が近づくなと警鐘を鳴らしていた。
見ていることしかできなかった。
浜の西奥、河口にカンダチ族の村がある。荒ぶる神はその村の家々を海に押し流した。村の西半分が荒ぶる神に呑み込まれた。
恐怖のあまり一度その場に座り込んだ。
何が起こったのか分からなかった。この世の終わりが来たのかと思った。
カンダチの村が半分になってしまった。
声が聞こえた。こどもの泣き声だ。
こどもたちがこちらに向かって走って逃げてくる。
慰めてやらねば、受け止めてやらねばと、そう思ってノジカは立ち上がった。
こどもたちがすがりついてきた。ノジカは両腕で一度に三人のこどもを抱き締めた。
こどもたちの後ろから、女たちが駆け寄ってくる。皆蒼白な顔をしている。両目を見開き、唇を引き結んでいる。
「山の連中は何をしたの」
ノジカには答えられなかった。分からなかったからだ。ただ山の民が何か恐ろしい手段をもってカンダチ族を滅ぼそうとしていることだけは理解していた。自分の実家がそんなことを先導しているとは思いたくなかった。考えたくない。
ナホは間に合わなかったのだ。
ノジカは後悔した。
自分はナホの情に負けて肝心のことに失敗してしまった。
「すまない」
女たちは「あんたのせいじゃないよ」と言った。だが自分がもう少ししっかりしていたらと思うと悔しい。奥歯とともに感情を噛み締めて呑み込む。
自分がカンダチ族の村をめちゃくちゃにしてしまったのではないか。
荒ぶる神はあっと言う間に静かになった。消えてしまった西半分だけでなく、東半分にも倒木を押しつけて家屋を凹ませ、地面という地面を水浸しにして、海に去っていった。
ノジカは唾を飲み込んで、「お母さんたちと一緒に行きなさい」と言いながらこどもたちを離した。
「村を見てくる。みんなは岬に逃げてくれ」
女たちが「やめときなよ」と叫ぶ。
「次が来るかもしれない」
「そうであればなおのこと、だ。村に残っている人たちを連れてくる」
「ノジカ」
「カンダチ族のみんなを救いたい。一人でも多くの人を」
そんなノジカの言葉を聞いて、ある女が「ありがとう」と苦笑した。
「ほとんどの女は戦士たちの無事を祈って洞窟にこもってる」
「洞窟にいる女たちはきっと無事だ」
「動けない女たちも族長の館に集まってた、族長の館が残っていてくれればなんとかなっているはずだよ」
ノジカは頷いて「分かった」と答えた。
「族長の館に行く」
族長の館は村の中でも高台にあった。河からも少し距離がある。
屋根は濡れていた。壁には別の家屋の破片が衝突していた。
だが館そのものは倒壊していなかった。
ノジカは胸を撫で下ろした。
館から赤子の泣き声が聞こえてくる。中に生きている人間がいるということだ。
駆け寄り、戸を押し開けようとした。今の衝撃で傾いたのか戸はなかなか開かなかったが、外から誰かが開けようとしていることに気づいたらしい中の人間が内に引いてくれた。
中には十数人の女とこどもが詰めていた。こどもはほとんどが泣いていたが、ノジカは泣く元気がまだ残っていてよかったと思った。
戸を開けたのはククイだった。
「おかえりなさい」
彼女は赤子を負ぶった状態で戸のすぐ傍に立っていた。いつもと変わらぬ笑顔だ。
ノジカは彼女を抱き締め、「無事でよかった」と囁いた。ククイが「あらあら」と笑った。細く長い指がノジカの背中を撫でる。
「大丈夫、大丈夫」
ククイの声が甘く優しく館の中に伸びる。
「すぐに男たちが帰ってきますよ。あの子たちは誰一人私たちを見捨てやしません」
どちらからともなく、ノジカとククイが離れる。二人とも部屋の中央の方を向く。
こどもたちが、泣いている。
「何が起こったんですか」
言ったのは部屋の隅で膝を抱えていたテフだ。彼女は蒼ざめた頬で、血走った目で、かさついた唇を震わせていた。
「山の民が何かしたんですか」
「おそらく。川の流れを変えたんだ、そんなことが可能なのか、具体的にどうやったのかは、分からないが」
「テフのせいですか」
涙はとうに涸れたらしい。大きく見開かれた目はよどみ濁っている。
「テフが余計なことをしたからですか」
何と声を掛けようか悩んだノジカの脇を、ククイがすり抜けた。
ククイの手が、テフに伸びた。
テフのもつれた黒髪を、ククイの指がほぐしていく。
「つらいですね」
優しい声がまろく響く。
「でも、大丈夫。お姉様が帰ってきてくださいましたからね」
ククイは悠然と微笑んでいた。
「みんなみんな戻ってくるといいですね。それで、たくさん、たくさん、褒めてもらいましょう。私たちは、こんなに恐ろしいことを、乗り切ったのですから」
テフの目が潤んだ。あっと言う間に涙でいっぱいになった。
ククイにすがりついて、テフが声を上げて泣き出した。
テフにつられてか、部屋のそこかしこからすすり泣く声が聞こえてきた。それまで耐えていた母親たちも泣き出したのだ。
「ククイ」
ひとりの女が言う。
「ごめんね、ごめんね。あんたをのけ者にして」
それを皮切りに、女たちは次々と声を上げ出した。
「ほんとは二人を独占できるあんたがうらやましかった」
「あんたは丸く収めようとしてたのに」
「あんたが極力争わないよう調整してるってこと、みんな気がついてたのに」
ククイは「いいえ」と、それでもなお穏やかな笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「私は大丈夫です。私は、みんなの言うとおり、強くて賢くて恐ろしい女ですから」
誰かが小さく笑った。
「ですが、こういうことを一族の他の人間にするなら、私は怒ります。私だから許されるのだということを、決して忘れないでください」
誰かが「ごめんなさい」と叫んだ。
「あんたこそ族長の妻にふさわしい女だ、ククイ」
ククイはそれ以上何も言わなかった。ただ黙ってテフの頭を撫でていた。そのうち歌を歌い始めた。カンダチ族に伝わる子守歌だろうか。こどもたちが泣くのをやめ、ククイの顔を見上げた。
ノジカは大きく息を吐いた。そして、こんなことになってもククイの背で呑気に眠っている彼女の赤子の頬を撫でた。
「とにかく、みんな岬に逃げよう。万が一次が来た時のためだ、今のうちに避難しよう」
ノジカの言葉に、ククイが「そうですね」と頷く。
「さあ、お立ちなさい。女たちがお荷物になる存在ではないことを、男たちに分からせなければなりません」
その場にいた全員が一斉に立ち上がった。
ノジカが戸を開けた。まずは腹の大きな妊婦から、それから小さな赤子を抱えた母親が、そしてまだ幼いこどもたちが順番に館を出ていった。
最後に、ククイがテフの手を引いて外に出た。
全員が館を出た。
その時だ。
異様な地鳴りが聞こえてきた。
地面が震えた。
すぐに地震だと気づいた。
だが、このあたりの地域では地震くらいよくあることだ。少し耐えていればすぐに収まる――そう思ってノジカは「早く」と皆を急かした。
直後だった。
地面が今までになく大きく震動し始めた。
女もこどもも悲鳴を上げた。
「みんな伏せろ! 体を低くしろ!」
収まらない。長い。続く。
すぐ近くで変な音がした。何か複数のものが割れる大きな音だった。
まずいと思った。
ククイとテフの背後で、館が崩れていた。
とっさにククイとテフを抱き締めた。
ノジカの背中に館の木片が雨のように次々と降り注いだ。背中に吐いてしまうと思うほど強い衝撃を受け続けた。
「姉さま」
「ノジカ」
「大丈夫」
ノジカは笑った。
「大丈夫」
息が詰まる頃に揺れが収まった。
ノジカはククイとテフを抱く腕から力を抜いた。三人揃ってその場に座り込んだ。
助かった。
大きく息を吐いた。
辺りを見回す。
残っていた東半分も崩れてしまった。辺りに家屋の断片が飛び散っていた。村のすべてがめちゃくちゃだ。
でも、人はいない。
ノジカは、「よかった」と呟いた。
「みんな無事だな」
そこでテフが言った。
「たいへんです」
また別の、大きな音が、した。
「神の火の山が――」
女神の咆哮が聞こえた。
山の方を見た。
女神は煙を噴き上げていた。女神の周りに雲が湧き起こり雷光を見せていた。
「火の山の神様が、目覚めます」
それは、山の民すべてが幼い頃から語り聞かされてきた、この世の終わりだ。
山が炎の波と炎の岩に包まれる。
ノジカは立ち上がった。
女王の第一のお側付きとして育ったノジカは知っていた。
「ナホ様に会ってくる」
ククイが「ノジカ?」と首を傾げた。
「火の山の神が目覚めて大いなる怒りを撒き散らそうとする時は、女王が舞を舞って鎮めるんだ」
ノジカは「ナホ様をお探ししなければ」と声を張り上げた。
「ナホ様に女神の怒りを鎮めていただく。私は第一の従者としてナホ様を拝殿にお導きする」
女たちが「何が起こるの」と騒ぎ出した。テフが口を開きかけた。その口をノジカは手でふさいだ。
「お前は山の民の姫としてみんなを避難させなさい。落ち着いてからこのままだとどうなるのか説明するんだ」
テフが首を縦に振ったので手を離した。
「ノジカ」
ククイが笑みを消して言う。
「気をつけて」
ノジカは大きく頷いた。
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