第3話 圧倒的な敗北感

 殺すしかない。


 夜、ナホはひとり鉄剣を握り締めて自分のやかたを出た。臣下の誰にも見つからないよう気を配った。戸にはわざと一度手を挟み、土は裸足で踏み締め、辺りを注意深く窺いながらアラクマの寝所として貸し出している家へ向かった。


 ナホも分かってはいた。

 族長がマオキの村で殺されたとなれば、カンダチ族はマオキ族に報復するだろう。終わるはずだった戦がふたたび始まる。その上、手にかけたのがホカゲの女王だと知れたら、ホカゲ族を神と仰いできた山の民のほうもどう思うだろうか。離反するのではなかろうか。援軍が来ないどころか戦が終わったあとの暮らしが危ぶまれる。


 カンダチ族との和平がならず、救いの手がどこからも来なかった場合は、自分やマオキの皆は、死ぬか、生きても奴隷におちるかもしれない。


 自分は何もするべきではない。黙って皆の美しく高貴な女神を演じるべきだ。マオキ族とカンダチ族の同盟を認め、見守り、はぐくむことを勧めるべきだ。


 でも嫌だ。


 このままではノジカがとられる。


 ノジカがマオキの村を――自分の傍を離れる。アラクマのものに――自分以外の男のものになる。


 絶対に嫌だ。


 あの男は、自分がまだ触れたことのないノジカのからだに触れた。しかも無遠慮に大勢の者たちの前で辱めた。


 もう殺すしかない。


 あの男は強い。歴戦の猛者であるマオキの族長と決闘をして無傷で勝利した。体格もナホよりひと回り大きい。蛮勇を誇るカンダチ族の長を務めているだけある。


 対するナホには実戦経験がない。運動能力にはそれなりの自信があったが、武術はイヌヒコやその息子であるノジカの兄に護身術として習った程度で、剣術も体術もノジカにすら太刀打ちできない。女王を装うため必要以上の筋肉をつけないよう気を配ってきたこともあってか、腕も足腰も同世代の少年たちより細かった。


 寝首を掻くほかに勝ち目はない。


 カンダチ族のほか二人は別棟で寝ている。アラクマは一人で寝ているはずだ。


 震える手で、すだれを、ゆっくり持ち上げた。


 窓から屋内に差し入る光が明るい。今宵は晴れていて、しかも月はそろそろ満ちる頃でとても大きい。


 真ん中で布団に横たわるアラクマが見えた。


 今だ。今なら殺せる。


 息を殺して歩み寄る。胸のすぐ横にしゃがみ込む。鉄剣の柄を両手で握り締める。


 鉄剣を振りかざす。


 あとはまっすぐ下へ突き刺すだけだ。


 殺せる。


 そう思ったのに、突如ナホの脇腹に重い衝撃が走った。一瞬息ができなくなった。あばら骨が軋んだ。


 ナホの体が横に吹っ飛んだ。鉄剣が地面に転がった。


 何が起こったのか、ナホにはまったく分からなかった。片方の肘をついて上半身を起こしたが、息をするだけでせいいっぱいだった。自分の置かれている状況を冷静に認識できない。


 ふたたび腹に衝撃を感じた。今度は真下から臍の辺りを持ち上げるように打たれた。


 体を引っくり返され、仰向けになってから、何が起こっているのか分かった。


 すぐそこに、アラクマが立っていた。


 アラクマは起きていたのだ。起きて、ナホが近づいてくるのを待って、至近距離になってからナホの腹を殴ったのだ。そして、ナホが崩れ落ちたところで起き上がり、今度は下から足を差し入れる形で蹴りを入れた。


 アラクマの瞳が月光で輝いていた。その鋭い光は獣の目のようだった。


 彼の左腕が伸びた。その手で、ナホの着物の胸をつかんで、強引に上へ引き上げた。ナホは引きずられるがまま上体を起こさざるをえなかった。


 ナホの体が起き上がると、アラクマは右の拳を振り上げた。


 抵抗どころか、声を上げる間すらナホには与えられなかった。


 アラクマの拳が、ナホの左頬にめり込んだ。


 殴られた。


 生まれて初めてのことだった。


 口の中に鉄の味が広がった。


 ナホはアラクマの勢いに勝てず、また床に転がった。床にうつ伏せてうめいた。呼吸もできない。


 徐々に痛みを感じ始めた。重い痛みだ。耐えられそうにない。だが混乱していて痛いと言うこともできない。声すら出せない。


 アラクマに髪をつかまれた。ひとつに束ねられた髪の根元を握られ、頭を上へ引っ張られた。痛いがやはり抵抗できない。少しでも痛みを避けるために顎を上げて顔を見せるしかない。


 月明かりに照らされて、アラクマの頬の刺青が見えた。


 アラクマの顔に表情はなかった。変わらず、獣のような目でナホを見つめていた。


「なんだ、ガキか」


 声音も落ち着いている。


「見たことのないツラだな。お前、戦場いくさばにも族長の館にもいなかっただろ。まだ戦慣れしてねえんだな、無理すんな」


 とても先ほどまで命を狙われていた人間の言葉とは思えない、冷静な状況分析だった。


 ナホが起き上がり、その場に正座をする形で座ったのを見てから、アラクマはナホの髪から手を離した。


 ナホは悔しいとすら思えなかった。圧倒的な敗北感だった。一人で忍び込んだ自分を愚かだと思うくらいに何もできなかった。座ったままうつむいてアラクマの反応を待つことしかできそうになかった。


 これがカンダチの戦士なのだ。


 殺せるわけがなかった。


 むしろ、殺されるかもしれない。


「誰の差し金で来た? 長老のばばあか? 族長のせがれか? それとも女王ナホか」


 ナホは口を開かなかった。自分が女王本人だと発覚するのを懸念したわけではない。ただただアラクマが恐ろしくて喉を含めた全身が固まっているだけである。


「答えろ。素直に答えたら命だけは取らないでやる」


 一度心の臓が凍りついた。答えなかったら命を取られる――そう思い慌てて口を開いた。


「誰かに命令されたわけじゃない」

「庇うのか? イイコだな」

「違う」


 この雰囲気で嘘をつけるほど器用ではなかった。わずかにどもりながら何とか声を吐き出した。


「ただ、俺は、あんたが死ねば」


 しかし、だ。


「ノジカを連れていかれずに済むと思って――」


 その名を口にした途端力が戻ってきた。


 攻撃的な強い感情が噴き出す。怒りだ。怒りが湧いてきたのだ。


 ナホは拳を握り締めた。


 やはりアラクマを殺したい。


 ナホは眼球を動かして剣を探した。アラクマの背後、布団の足元の方に転がっていた。手を伸ばしても届く距離ではない。何か他の方法を考えなければならない。


「ノジカ?」


 一拍間を置いてから「ああ、族長の娘か」と呟く。


「お前、あの男みたいな女に惚れてんのか」


 ナホの胸の奥底で怒りが爆ぜる。神の火の山から噴き上げる炎の岩のようにナホの体内を焼いて荒れ狂う。


「わざわざこんなことまでするくらいだ、よっぽどいい女なんだな。初夜が楽しみになってきたぞ」


 今度はナホの方から腕を伸ばした。アラクマをつかんで引きずり倒したいと思ったのだ。


 アラクマの手が持ち上がって、 ナホの両手首を横から叩き落とすように打った。ナホの手首を自らの腕で巻き込み、捻り上げた。


 不思議と痛みは感じなかった。


 ただ悔しい。


 この男を絶対にゆるさない。


 全身が熱くなった。


 途端、二人の目の前に火の粉が散った。


 部屋が瞬間的に明るくなった。アラクマが両目を見開いたのが分かった。彼は顔を庇うように両腕を交差させて、すぐに跳びすさった。


 空気に火花が散っている。


 ナホはもう一度手を伸ばした。

 その手に火がつく。手首から肩へ炎が蛇のように巻きつく。

 怒りが炎の揺らめきとなって立ち昇る。


「おい、待て」


 アラクマの顔に初めて表情が浮かんだ。きっと焦りだ。眉根を寄せ、目を見開いてナホのまとう炎を見つめている。ナホが近づくたびに一歩ずつ後ろへ下がっていく。


 獣は炎が怖いのだ。

 気分がいいと、そう思った直後だ。


「それが神の火の山の女神の力か」


 そう言われてから気がついた。


「お前、ホカゲ族なのか」


 ナホの頭が冷静になったのに反応してか、炎はすぐさま消えた。辺りが暗くなった。月だけが明るく輝いていて、屋内は目が利かなくなる。


「化け物か……!?」


 この力を異民族の前で使ってはならない。この力が使えるのはこの世で唯一ホカゲの女王である自分だけなのだ。自分が女王ナホであることが割れてしまう。


 ホカゲの女王の正体が少年であることを知られてはならない。ホカゲの女王が女神ではないことを知られたら、マオキ族だけではなく、神の火の山のふもとに住まうすべての民が混乱する。もっと大きな戦になる。


 逃げなければと思った。


 ナホは立ち上がり、出入り口の方へ向かって駆け出した。


「待――」


 簾に体当たりをしてぶち破り、星空の下へ飛び降りた。剣のことは振り返らないことにした。貴重な鉄だが自分の身元が特定されるものではない。そんなことよりも自分がこのままカンダチ族に捕まってしまうことの方が問題だ。


 走って、走って、森の中に逃げ込んだ。


 途中、木の根につまずいた。顔面から地面に倒れ込んだ。


 足が止まってから、アラクマは追ってきていないことに気づいた。どうやら逃げ切れたらしい。


 自分は逃げてきたのか。


 ナホはそのまま地面に突っ伏した。


 ノジカを取り戻すどころか、アラクマの身体に傷ひとつつけることもできずに、敗走したのだ。


 やっと、自分を無様だと認識した。敗北を噛み締めた。


 自分はアラクマにまったく太刀打ちできなかった。


 女王ナホが少年であると発覚する危険を冒してまで、いったい何をしに行ったのだろう。


 しばらくその場に伏せたまま泣いた。




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