イヤサカ

日崎アユム(丹羽夏子)

第1章 【山】

第1話 俺の嫁になれ 1

 マオキの族長イヌヒコが負けた。カンダチの族長と決闘をした結果だ。その身に幾太刀もの刃を浴びて倒れた。


 族長同士、対等な立場での、正々堂々とした戦いであった。戦を長引かせぬために必要とみなされた儀式であった。


 そうと頭では分かっているのに、ナホは受け入れられない。


 イヌヒコの枕元に座っていたナホは、しばらくの間呆然と、布団の上に横たえたぼろぼろの身体、頬に血のかたまりをこびりつけたままのむくんだ顔を睨むように見つめていた。


「俺は負けていいなんて言っていない」


 口にした途端激しい感情が湧き起こってきた。山の民の命運を賭けておきながら敗北したイヌヒコへの怒り、ナホの愛するマオキの族長を斬ったカンダチの族長への怒り、そして何より、決闘することを提案されても黙って頷くことしかできなかった自分自身への怒りだ。


「ふざけるな! この先どうしてくれるんだ!」


 ナホが吠えた。


 その瞬間ナホの周囲に火花が散った。ナホを取り巻くように無数の炎の玉が浮かんだ。


 族長の傍に控えていたマオキの者たちが「ナホ様」「落ち着かれませ」と慌てふためく。ある者は逃げ出して戸に近づき、ある者はその場にひれ伏して許しを乞うた。


 怒りの炎が燃え上がる。空気が爆ぜ、布団が焦げる。


 激情を抑えることができない。このまま何もかも焼き尽くしたい。気に入らない現実をすべて焼き払ってしまいたい。落ち着かない。落ち着けない。


 何もかも燃やしてしまおう。焼き払い、不都合な現実を灰にしてやる。


 しかし、ナホが立ち上がろうとしたその時だ。


 横から腕が伸びた。


「おやめください」


 その腕は、ナホを横から強く抱き締めた。


 腕の主は戦士の装束をまとった若者だ。下ろしても肩辺りまでと短い髪を後頭部でひとつに結い上げている。肩の辺りは一見したところ華奢だが、その腕には強くしなやかな肉をつけていた。


「そのお力はこんな時に発揮するものではありません。父も悲しみます。お収めください」


 ともすれば男にも見えるが、ナホの頭を抱え込むその胸は柔らかく豊かに盛り上がっている。戦闘のあとで汗臭く土砂つちすなにまみれていても、鍛え上げられて筋張った手や腕をしていても、そのからだは本来まろくナホを惹きつけてやまない女のものだ。


「離れろノジカ。火傷をするぞ」

「少しくらい構いません。ノジカはナホ様の炎を恐ろしいとは思いません、ナホ様がノジカを焼き尽くしてしまうことはないと分かっておりますので」


 大きく息を吐きながら、少しずつ肩の力を抜いた。それに合わせて炎の玉がひとつずつ消えていった。焼ける臭いが収まり、こもった熱が冷めてゆく。


 ノジカの胸にこめかみを押しつけ、ナホはまぶたを下ろした。


 周囲から次々と安堵の息が聞こえた。


 ノジカの手が、ナホの豊かな黒髪を、丁寧に、丁寧に、撫でる。高く大きく結い上げてもなお垂らし髪が腰まで届くほど長い髪だ。ノジカはナホが癇癪を起こすたびにこうしてナホの髪を撫でた。


 気が休まってゆくのを覚える。現実が遠くなる。あまりの心地良さに怒りを忘れてしまう。


 ノジカには、敵わない。ノジカがだめと言うのならだめなのである。


 戸の向こう側から声がした。


「いつまでめそめそしてやがる!」


 若い男の荒々しい声だ。


「どうせ死ぬんだ! いまさらあれこれやったって無駄だぜ!」

「これからの話をしようや! これからの俺たちの未来の話をよ!」


 カンダチの戦士たちがきざはしの下から話し掛けてきている。


「あいつら」


 目を開け、拳を握り締めて起き上がろうとしたナホを、今度はマオキの長老会の一員である老婆が「おやめなされ」と制した。


「ナホ様はくれぐれも口を利いてはなりませぬぞ。今までどおりおとなしゅうしていてくだされ、このばばが何とか致しまする」

「でも――」

「なりませぬ」


 老婆の鋭い眼光がナホを射抜いた。


「けっして、けっして、ナホ様のお声を聞かせてはなりませぬぞ。ナホ様は、黙って、お座りになっていてくだされ」


 ナホは不満ながらも老婆に従うことにした。


 自分の立場を分かっていないわけではなかった。分かっているからこそ族長同士の決闘を黙って認めたのだ。自分がもっと聞き分けのないこどもだったら許可を出さなかっただろう。だがその場合、族長一族をもっと困らせることにはなっていたはずだ。


 これ以上ノジカを困らせたくない。


 ノジカがナホから体を離して、「じっとしていてください」と言いながらナホの装束の襟元をつかみ、整えた。帯もきつく締め直す。


 戦が長引けば戦士であるノジカが傷つくかもしれない。


 居住まいを正した。現状では、ノジカを守るためにはこれが一番いいのだ。そう自分に言い聞かせた。


「お入りくだされ」


 老婆が大きな声で言うと、階を上がってくる乱暴な足取りが聞こえてきた。


 戸が、破られたのかと思うほど勢いよく、開けられた。


 入ってきたのは、案の定、カンダチの若い戦士たちであった。二人連れで、いずれも筋骨隆々とした体躯をしている。顔や腕には刺青いれずみを施している。眼光は鋭いが口元は下品ににやついていた。


 こんな下卑た野蛮人どもに栄えあるマオキの戦士が敗れたのだ。


「おっ、死んだか?」


 男のうちの一人がイヌヒコの顔を覗き込んだ。


 あまりの屈辱にナホはふたたび拳を握り締めた。だが、この蛮族どもは強い。ナホが殴って押さえつけられる相手ではない。返り討ちにあうだろう。そして戦がふたたび始まる。


 さりげなく、何も言わず、ノジカへ手を伸ばした。ナホの隣で正座をしていたノジカは、ナホの手が自分の膝の上に来たことに気づくと、やはり無言で手を出し、軽く握ってくれた。


 もうひとつ、階を上がってくる音が聞こえてくる。


 出入り口の前で並んでいる二人を掻き分けるようにして、真ん中に三人目が現れた。


 体躯は三人の中で一番大きい。伸ばし放題の長い髪はところどころ小さく編み込まれている。右頬にはカンダチ族の紋章を彫り込んでいる。引き結んだ唇は厚い。切れ長の目の中の瞳はどこか冷たく、まだ若いはずだがすでに異様な威圧感を備えていた。


 彼がイヌヒコを倒したカンダチの族長、アラクマだ。


 マオキの一同は何も言えずにただアラクマを眺めていた。


 この男がイヌヒコを斬ったのだ。戦士の長である族長が敵わなかった男だというのに、残っている人間では敵うわけがない。


 逆らえない。


 アラクマが、イヌヒコの足元辺りに腰を下ろした。そうすると、アラクマとナホが向かい合う形になった。


 ナホは無意識のうちにアラクマを睨みつけていた。

 ノジカが手を離したことで我に返った。

 自分は、泰然と、悠然と、超然とした態度を見せていなければならない。自分の立場を忘れてはならない。誰にも見つからないよう細く息を吐いた。


 アラクマが口を開いた。


「あんたが、神の火の山の女神――山裾に住まう全部族の長、ホカゲの女王ナホか」


 特に大声というわけでもないのに、低い声は重く響く。


「思っていたより若いな」


 老婆が「ナホ様は御年十七でいらっしゃる」と言う。アラクマが「そうか」と言って一人腕組みをする。


「ちょうどいい。俺は今年で二十一だ」

「ほう、それはいかような?」

「決まってる。和平と言ったら婚姻だ」


 にこりともせず、彼は手を伸ばした。

 

「俺の嫁になれ、女王ナホ」

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