第3話
津田は、朝から、これまでのことを簡単にまとめた資料を読み返しながら、コンビニ弁当の昼食を食べ、インスタントのコーヒーを飲んでいるとチャイムが鳴る。モニターを見ると滝本さなえがいる。
「滝本です。ちょっとよろしいでしょうか」
「どうしました」
「思い出したことがあって。お話した方が良いかと」
慌てて、1階入口のドアを開け、急いて机の弁当や資料を片付ける。部屋のドアのチャイムが鳴り、部屋のドアを開けるとTシャツとジーンズ姿の滝本さなえが立っている。
「すみません。急に」
「いえ、よろしかったらどうぞ」と部屋に招き入れる。
「ああ、暑い。今日は本当に暑いですね。汗かいちゃった。シャワー借りますね」
そう言うと、いきなり、Tシャツとジーンズを脱ぎだす。止める間もなく下着姿で浴室へ歩き出す。
「ちょっと、滝本さん」
そう言って後を追うと浴室の前ですでに下着を脱ぎだしている。思わず目をそらし部屋に戻る。椅子の背にかかっているTシャツとジーンズを見ながら、何が起こっているのか理解できない。
浴室からシャワーの音が聞こえ、やがて音が止まる。浴室のドアが開く音からしばらくしてバスタオルを巻いただけの滝本さなえが出てくる。
「汗は流しました。抱いてもらってもいいです」
そう言って多田の前に立つ。
「ちょっと、どうしたの」
多田はそう言って後ずさりしながら滝本さなえを見ると目から涙がこぼれている。
「わたしって魅力ないですか。抱く気にもならない女ですか」と涙声で言う。
「そんなことなないです。あなたはすごくいい女です。でも急に言われても」
多田の言葉に滝本さなえは急に後ろを向いてしゃがみ込み「ごめんなさい」と言いながら肩を震わせながら泣き出す。
「ともかく、服を着ましょう」
多田の言葉に小さく「はい」と応え、しゃがみこんだまま椅子にかかっているTシャツに手を伸ばす。
「お願い見ないで」の言葉に思わず多田は背を向ける。
ごそごそとTシャツをジーンズを身に着ける音がして、「ごめんなさい」と声がして部屋のドアが閉まる音で静かになる。多田が振り返るとバスタオルが椅子に掛けられていた。
多田はそのまま立ち尽くしていた。
しばらくして4時過ぎにチャイムが鳴る、山岡さん、百合、和夫がモニターに映る。
多田は思わず我に返り、とりあえず1階のドアを開ける。
部屋を見渡し、椅子にかかったバスタオルを見つける。あわてて、滝本さなえの浴室からの濡れた足跡をバスタオルで拭き、そのバスタオルを滝本さなえの下着が入った洗濯籠の上にかぶせる。
百合の「鍵開いてる」の声と共に、山岡さん、百合、和夫が入ってくる。
「野川のおじさんが少し遅れるって。始めようよ先生」
部屋に入るなり百合が叫ぶ。
「お父さんが来てからの方がいいんじゃないか」
和夫がぼそっと言う。
「そうですよ。野川さんがいらっしゃるまで待ちなさい。当たり前でしょ」と山岡さん。
百合はプッとふくれ、和夫を睨みつける。
和夫は「先生、おしっこしたい。トイレ借りるね」と逃げ出す。
「早く行け、ガキ」と百合の憎まれ口。
トイレから出た和夫の「ハンカチ忘れちゃった。先生、このタオル使っていい」に「ああいいよ」と答える。
トイレの扉の前に洗濯籠があると気づき「ダメだ」と言うより早く「なんだこれ」の和夫の声。
和夫が、滝本さなえのショーツとブラジャーを手に持って部屋に入ってくる。
津田が慌て手を伸ばすより早く、山岡さんがショーツとブラジャーを和夫の手から取り上げ、津田に向けて投げつける。
「津田さん、あなたが誰と何をしよう勝手ですが、子供たちが来る前に片付けて置きなさい。ともかく失礼です。さあ、百合、和夫君、帰りましょう。こんな人に所に居ちゃダメ」
そう言って百合の手を引いて、玄関ホールに向かう。和夫も津田を振り返りながらついて行く。
「違うんです。誤解です」
山岡さんの後姿にに向かって津田が叫ぶ。
「あなた達、先に1階に降りていなさい」
山岡さんは百合と和夫にそう言ってドアを開け二人を廊下に出すとドアを閉めて振り返り津田を睨む。
「誤解、ええ、そうでしょうよ。わざわざ目に付くところに置いて、子供たちじゃなく、私へのあてつけですか。俺には若い女がいるんだよって」
「違います。そうじゃないんです。話せば長くなるのですが」
その時、ドアが開き、和夫が飛び込んでくる。
「大変だ。百合がさらわれた」
津田も、山岡さんも思わず和夫を見る。
「百合がさらわれたって、どうゆうこと」
「僕がマンションの下で待ってたら、百合が外に出てて、そこに黒いおっきい車が止まって、百合を車に押し込んで、あっという間に走って行って、俺、追いかけたんだけど、それで、マンション出てくる人がいたんで、戻って入って」と泣きながら言う。
「車、どんな車だ」津田が叫ぶ。
「外っていう字が」
和夫の言葉を聞く前に、山岡さんが廊下に飛び出し、エレベータに乗り込む。津田も駆けだそうとして部屋に戻り、スマホと鍵を掴み廊下へ飛び出す。エレベータが下に向かっているのを見て階段へ向かい、後ろについてきている和夫に叫ぶ。
「和夫、すぐにお父さん、野川さんに連絡しろ。今の話を伝えるんだ。それと、スマホ持ってるな。和夫のスマホに連絡するから」
そう言って階段を駆け下り、マンションのエントランスを出る。マンションの前の道路は一方通行だ。その方向に駆けている山岡さんの後姿を見つける。津田は、通りかかったタクシーに乗り込み駆ける山岡さんの前で止める。
「山岡さん、相手は車です。乗ってください」
タクシーから津田が叫ぶ。山岡さんはタクシーに乗り込むと同時に運転手に指示する。
「まっすぐです、まっすぐ行って下さい」
私たちのただならぬ様子に年配の運転手は黙って車を出す。
「分かるのですか」との津田の問いに「ええ、百合が呼んでいます」
その後も右、左と指示を続ける。
「海です。港です。大きな橋、そう、レインボーブリッジの手前、すぐ下です」山岡さんが叫ぶ。
山岡さんに何かが見えるのだ。ともかく、言葉を信じ、津田は、「芝浦埠頭へ」と運転手に言う。
津田のスマホが鳴る。和夫のスマホからだ。
「もしもし、津田さんですか」野川さんの声。
「津田です。今、芝浦埠頭に向ってます」
「和夫から話は聞きました。芝浦埠頭、何か分かったのですか」
「いえ、山岡さんの、何て言うか。ともかく、まずそこへ行きます」
「分かりました。私達、警察も急ぎ向かいます。ああ、このスマホを私が持って行きますので、何かあればこれに連絡ください。和夫、お前はここで待ってろ」電話が切れる。
埠頭に入ると「関係者以外進入禁止」の標識とチェーンの手前でタクシーが止まる。
「これ以上は入れませんね」運転手の言葉に、山岡さんが「ドアを開けて下さい」と叫ぶ。運転手がドアを開けると山岡さんが飛び出す。津田はスマホのクレジットカードで料金を支払い山岡さんを追いかける。
夕日の中、山岡さんは小型の貨物船らしき船に向かい駆けている。その船のタラップあたりに数人の男がいる。津田もその方向に駆ける。
近づく山岡さんに気付いた男達が山岡さんに向かって日本語でない何か叫ぶ。山岡さんは構わず近づく。山岡さんを捕まえようとした一人が後ろへ弾き飛ぶ。次の一人もそしてその次も山岡さんに近づくと弾き飛び全員が尻もちをついている。
山岡さんは、タラップから船内に走りこむ。津田もタラップに近づく。尻もちをついている連中はそのまま動こうとしない。動けないようだ。
山岡さんが百合の手を引いて船から駆けだしてくる。津田を見つけ津田の所に駆け寄る。船の中から数人の男たちが大声を上げながら山岡さんを追いかけて来る。
山岡さんは津田に「お願い」といって百合を渡し、踵を返し追いかけて来る男たちに向かう。一人一人と、男たちは弾き飛ばされ埠頭で尻もちをついて動けなくなる。
震えて泣きじゃくる百合を抱えながら、津田はその光景を呆気に取られて見ていた。
山岡さんがふらふらと津田と百合に近づき百合をしっかりと抱きしめ座り込んだ。
数台のパトカーのサイレンが近づき埠頭で停車し数人の警官と野川さんが駆け寄ってきた。津田が野川さんに状況を簡単に説明する。
野川さんが制服と私服の警官5人に指示を出す。何とか起き上がろうとしている男達を警官が抱き起しパトカーへと連れて行く。
野川さんが、津田、山岡さん、百合に警察車両へと促す。警察車両に向かう途中で、山岡さんが「すみません、少しここで休ませて下さい」と座り込む。百合も山岡さんに抱き付いて泣き続けている。
「それじゃ少し休みましょう」と野川さんが言い、警官達の所へ行く。
津田は、山岡さん、百合のそばで何気なく後ろを振り返ると、埠頭の倉庫の陰に沈む夕日の長い人の影が見える。
なんとなく、その人影が気になり倉庫に近づく。そこにはもう人影が消え、誰もいないが、X国の看板がある。半開きのシャッターの奥に人の気配がする。思い切って近づく。暗がりの中で目を凝らす。
東郷、東郷洋一か。
「これは津田さん、久しぶりですね」
「東郷君、生きていたのか」
「この通り生きてますよ」
「今回のことは、君が仕組んだのか」
「私も仕組んだ一人といえば一人かな。まあ、X国の計画ですよ。あちこちで行っているのですが、今回は日本橋あたりで目的の遺伝子を持つ子を探そうと思ってね。いつものように学校の歯科検診を使って探したのですよ。百合が狙いじゃなかったようですが、百合が引っ掛かった」
東郷は一息つくようにニヤッと笑う。
「X国を強大な国家にしようという、独裁国でよくある計画です。なにやら、数十年前から、様々な特別な能力を持った人間を集めていたようです。私がX国に出張で出かけたとき、協力を頼まれましてね。行方不明ってことにして集めるのを手伝っています。というのも、以前に津田さんから頂いた資料をもとに特殊能力の研究というか実験を続けてましてね。わかったのですよ。遺伝子だけじゃない、遺伝子とミトコンドリアDNAの組み合わせでしたよ。それを遺伝子操作で作ろうとしたのですが、そこがうまくいかなくて。それならと言う事で、私の役目は、それを持つ人達を探して連れてくることでしてね。まあ、その他の特別な人達も併せてですがね」
「百合が引っ掛かったのなら、父親である、君でいいじゃないか」
「私ですか。とんでもない、私は普通人ですよ。一般人よりは賢いかもしれませんが。百合の能力のもとは母親です、貴子です。言ったでしょ、ミトコンドリアDNAがセットだと。母親からしか受け継ぎませんよ。僕なんか彼女に比べれば単なる凡人です、彼女こそ本当の天才、いや特別な能力の持ち主です。僕の大学院時代からの研究成果もほとんどは彼女の力です。僕にヒントを与えるのです。僕の脳の中に入り込んでね。彼女が僕をじっと見つめる。急に僕の脳が動き出す。今まで分からなかったことが分かり出す。答えが見つかる。僕にはとても見つからないような答えがね。はじめのうちは、まさかと思っていましたが、確かです。まあ、信じられないでしょうが。いつしか怖くなりました。X国に誘われたのもあるのですが、彼女から逃げだしたのかもしれません。ただね、彼女は、自分の能力を自覚していない、したくないのか、抑えざるを得ない出来事があったのか、ともかく明確には自覚していない。御存知ですか。彼女の両親は本当の両親じゃない。育ての親です。能力ゆえに、そうならざるを得ない経緯があったのかもしれない。でも、今回のように娘を助けようとするといろんな能力が出るのでしょうね。津田さんも、見たでしょうバタバタと男たちが倒れるのを。津田さんも気を付けたほうがいいですよ。ま、津田さんも何やら怪しげだからお似合いかもしれない。それじゃ私は蒸発のまま、役目を続けますよ」
「百合は君の娘だろう。母親と引き離してX国へ連れて行っていいのか」
「遺伝子とミトコンドリアでみると百合は完全です。今はまだは自覚もないし、使い方もわからないでしょう。でも、明らかに特殊な能力を持っています。その百合が日本で幸せになりますか。貴子がたぶん能力を抑えてきたのはこの国だからでしょう。能力のある人間、いや、普通でない人間をこの国は排除します。潰そうとします。津田さん、あなたがよくご存じでしょう。15年前あなたの遺伝子の研究はどうなりましたか。私レベルの能力でさえ結構いじめられましたよ。百合が、能力のせいで、日本でつらい日々を送っているかもしれない。私も父親です。それは心配していました。今回見つかり、X国へいけば、様々な能力を持つ人間は認められます。国が認めます。皆が認めます。この国のようにいじめて潰さないですよ」
「認められても、その能力を使い方に自由はないのだろ」
「能力のある者は能力を生かすのが幸せなのですよ。ここ数年この役目を日本でも続けていますが、いつもは、見つけるとその子にⅩ国に来ないかと話します。ほとんど皆、喜びますよ。この国じゃ、普通じゃないと、いじめを受けたりして、子供ながら生きづらさを感じていますからね。時には親もついてきます。親も普通と違うと言う事で排除されて来たのでしょうね。百合は貴子から引き離すのが難しいだろうと少し手荒なことをしてしまいましたが」
「しかし、連れて行かれた人達は、権力のために使われ、指示に従わなければ、いじめどころじゃない目に合うのじゃないのか。君たちは関係する歯科医師も殺しているじゃないか」
「歯科医師を殺すとは何のことでしょう。自殺と聞いていますよ。変な言いがかりはよして下さい」
そういって、東郷は奥に消えていった。
山岡さん、百合の所へ戻る。野川さんがやって来る。
「どうしました。誰かいましたか」と野川さんが尋ねる。
「いえ、誰もいませんでした」
「外国船籍のようですから、令状なしに中には入れない。連中を任意同行で引っ張りますがどこまでわかるか。和夫の話だと、大使館も絡んでいるようですから。ともかく、山岡さんと、百合ちゃんはこのまま署の方へお願いします。津田さんも一応一緒にお願いします」
警察ではいろいろと聞かれたが、百合の居場所が分かった理由については、「らしき車を追いかけた」、船員達が倒れていたことについては「よくわからない」で私も山岡さんも押し通した。
それから1週間。百合は外に出るのが怖いと言って家に閉じこもっているらしい。山岡さんの津田への怒りも解けていそうにない。和夫は、こそこそとやって来て津田の所で勉強してこそこそと帰って行く。
そんなある日、和夫が帰って津田が夕食の用意をしているとスマホが鳴る。見ると知らない番号だ。用心しつつ出る。
「津田さんでしょうか。滝本です」
滝本さなえか。またなんだ。
「はい津田です。なんでしょう」
「この前はごめんなさい。お話ししたいことがあって」
「いえ、もういいです。どうしてもというなら、あの『こうひい屋』で」
「あのう、人に聞かれたくないの。出来れば、津田さんのお部屋で。いえ、津田さんにと言う事じゃなくて、前に、警察の方、刑事さんを御存知とおしゃっていたので、その方に聞いて頂きたいのです」
「それじゃ警察署に行かれたら」
「警察署に行くのが怖いの。お願いします」
どうしようかと迷う。下着を返せると思いつく。山岡さんの誤解も解こう。
「分かりました。刑事さんに相談してみます。それと、よろしければ、女性の付き添える方がいた方が良いかと思うのですが」
「付き添いですか」
「実は、私と刑事さんの知り合いで、滝本さんもご存じの山岡さんに同席をお願いできないかと。女性が、滝本さん一人よりは私も安心です。この前の事もありますし」
「この前のことは言わないで下さい。分かりました山岡さんにも聞いて頂いて構いません」
滝本さなえの都合を聞き、野川さんの予定とすり合わせる。その中から、山岡さんの予定が合いそうな日を選び連絡した。予想通りの、冷たい返事だったが、滝本さなえのたっての希望と伝え、しぶしぶ「分かりました伺います」となった。
次の日曜日の午後2時、子供達には知らせないようにと念を押し、15分前に野川さん、山岡さん来てもらう。
「警察に話したいが、警察署は嫌ってなんでしょうな。大した話じゃないのでしょうな」
野川さんはのんびり話すが、山岡さんは横を向いたまま津田を見ない。野川さんはそれに気付かないような素振りだが、何んとなき気まずい雰囲気のまま時間が過ぎる。
午後2時3分前にインターホンが鳴る。1階のオートロックを開けしばらくして玄関ドアのチャイムが鳴る。津田が滝本さなえを部屋に入れ、山岡さんの横の椅子に導く。向かいに津田と野川が並ぶ。
「滝本さなえです。今日は御忙しい所申し訳ありません」
固い口調で滝本さなえが立ち上がりお辞儀をする。
「どうぞお座りください。こちらが人形町警察署の野川刑事です。それと、山岡さんは御存知でしたね」
野川さんが、簡単に自己紹介し、山岡さんはさっきまでと打って変わった笑顔で滝本さなえに挨拶する。
「今日も良く晴れましたね」と津田が雑談を始めようとしたところで、それを止めるように滝本さなえが話し始める。
「あのう、あのう」そこで言葉が途切れ俯き涙がこぼれる。
山岡さんが右手で滝本さなえの膝の上で固く握られた拳に手を置き左手で滝本さなえの背中をなで「どうしたの、大丈夫」と優しく語りかける。
「ごめんなさい」滝本さなえが顔を上げ涙をぬぐって野川さんを見て意を決したように口を開く。
「わたし、人を殺しました。3人の人を殺しました」
「ほう、それは大変だ。詳しく聞かせて下さい」
野川さんは笑顔で滝本さなえに話し、そして続ける。
「相手は誰ですか」
滝本さなえの口が震えている。山岡さんがそっと滝本さなえの肩に手を置く。滝本さなえが意を決したように話し出す。
「夫の雄一、知り合いの鈴木さん、それとユウナという女の3人です」
「ご主人は自殺と聞いていますが」
そう言った津田に、野川さんは黙るようにと手で合図し、穏やかな口調で滝本さなえに言う。
「ともかく、知っていることを全部話して下さい」
滝本さなえが、途切れ途切れに話し出す。野川さんは、話の節々で「その前にどんなことがありましたか」や、「そこをもう少し詳しく」などを聞き、時間の流れや行動の原因を明らかにしていく。
滝本さなえがその時を思い出したのか、泣き出したりすると山岡さんが優しく「大丈夫よ」と語り掛け背中をなで落ち着かせる。 津田は滝本さなえの話をメモに取ることに専念した。
一通り話が終わって、滝本さなえが落ち着いたところで、野川さんは津田と山岡さんの顔を見て「もういいですね」というように頷く。
そして津田に滝本さなえの話を整理てしてもらえますかと促す。
「はい、今のお話を整理します。違うところがあったら行って下さい。まず、歯科医の多田雄一さんが、ある日の午後、同じ歯科医の鈴木さんに誘われ外出した。帰ってから様子が変になった。その1週間後、今度は一人で出かけた多田さんが次の日に帰って来た時は、1億円の借用証を持つ怪しげな3人の男と、ユウナという女を連れて帰ってきた。それで、滝本さんはそこを出て実家へ行った。滝本さんは、次の日が人形町中学校の歯科検診だったのを思い出し、学校へ連絡すると、多田さんはユウナという女を連れて歯科検診を行っていた。滝本さんはそれを知って、離婚を決め離婚届を持って、その日の夕方に多田歯科医院へ行った。歯科医院の扉が閉まっていたので自宅の玄関から入った。玄関の鍵はかかっていなかった。診察室を覗くと、首に縄を付けて吊るされ、後ろ手を縛られ、椅子に立っている多田さんがいた。多田さんは、ユウナという女のことで以前現れた男たちに脅され、人形町中学校の歯科検診の際、生徒の遺伝子を採取したが、渡すのを拒否したためにこのような状態になったと滝本さんに話した。あわせて、採取した遺伝子を隠した場所も話した。そして、ユウナという女がもうすぐここへ戻ってくるのだが、その前に、縛られている手の縄を外してくれと言った。それに怒りを覚えた滝本さんは椅子を思い切り蹴飛ばした。こうなります。間違いありませんか」
「はい。だいたいは」
「大体と言う事は、違う所、抜けているところがありますか」
「いえ、すみません。その通りです」
「それじゃ続けます。それから滝本さんは、新大橋に向かった。橋の上で、反対方向から酒に酔った歯科医の鈴木さんと、ユウナという女の二人がやってきた。多田さんを変えた原因が鈴木さんにあると考えた滝本さんは手すりに乗り出した鈴木さんを隅田川へ突き落そうとし、手すりを乗り越えた鈴木さんに引きずられて手すりから乗り出したユウナという女も突き落した。これでよろしいですか」
「はい」
そこまで聞いて、野川さんが、それじゃ次は私がと話し出す。
「津田さんから、今日の集まりを聞き、いろいろ想像して調べてみました。まず、多田さんの縊死の報告です。『発見は午前8時50分頃、9時に治療を予約していた患者が歯科医院を訪れたたが、受付に誰もいないので診療室を覗くと多田が首を吊った状態で死んでいた。足元に椅子があった。歯科医院の扉は開いていた。死亡推定時刻は前日21時から24時の間』とあります。滝本さんに確認します。医院の閉まっていたと話しましたね。それと、椅子を思い切り蹴飛ばしたと」
「はい、本当です。私、嘘言ってません。私が、雄ちゃんを、私が」
野川さんは、滝本さなえの言葉を遮って続ける。
「さらに、遺書がありました。『ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい』と書かれた遺書が診察台というのですか、そこに置いてありました。滝本さんが警察で多田さんの筆跡と確認されたと記されています」
「はい、あの時は、私が雄ちゃんを死なせちゃった、どうしようと混乱にしていて、ともかく、はい、はい、と」
「次です。鈴木さんですが、隅田川に突き落として殺した、と言われましたが、鈴木さんは、自宅、歯科医院の中で縊死、つまり首を吊った自殺として発見されています。あなたが、突き落としたと言った翌日の夜が死亡推定時刻です。ユウナという女についてはわかりません。もちろん溺死体の報告は有りません」
「でも、私、二人を突き落としたんです。隅田川に、新大橋から」
再び、滝本さなえの言葉を野川さんが遮る。
「あなたね、夢を見たか、思い込みを現実と勘違いしてるのじゃありませんか。浮気した亭主が憎い。浮気させた人、浮気相手も憎い。みんな殺してしまいたいと」
滝本さなえはうつむいて涙を流しながら首を振っている。
「とはいえ、彼らの死に不審な点もあります」野川さんが続ける。
「実は、中央区だけで、多田さん、鈴木さんの、他に二人の歯科医が亡くなっています。鈴木さん以外は中学校の校医です。夫婦二人住まいの所はあなたと同じように妻が家を出た後、子供二人の4人住まいの所は子供二人を連れて奥さんが家を出た後です。それぞれ、歯科医である夫が何らかの問題を起こしてです。どこも、事件性が全く見られない完全な自死です。共通点は亡くなった歯科医が男性であること、亡くなる前に様子が変だったと患者が言っていること、亡くなる少し前に中学校の歯科検診があったこと、などです。私が最も気になるのは、刑事だからかもしれませんが、事件性が全くない、あまりに見事にです」
一呼吸おいて、続ける。
「なんか腑に落ちんのですな。そこに、滝本さんの話が来た」
そう言って、津田、山岡さんの顔を見る。
「津田さん、山岡さんはどう思いますか」
津田は、何を言えば良いのか分からない。滝本さなえの話と野川さんの話が頭の中で整理できない。何か言おうとしてふと見ると山岡さんがじっとこちらを見ている。突然、頭の中が熱くなり動き始める。いろいろな考えがまとまりだし、整理され、結びつく。そして、その通りに話し出す。
「この前、滝本さんと喫茶店で話した時、何も知らないと言うのが、きっと何かを隠していると感じました。今日の話は、うそとも、作り話とも思えません。思い込みならそれは分かりませんが。でも、たとえばで考えれば、いろいろ考えられます。私の想像ですが話してもいいでしょうか」
野川さんに尋ねる。どうぞと促される。津田は、東郷の言葉を思い浮かべながら話す。
「滝本さんの話が事実ならの、私の想像です。あなたが、多田さんが吊るされている所に行った時、まだ、ユウナさんを連れてきた男達はその場に隠れていた。滝本さんはそれに気付かなかった。多田さんは彼らが去ったと思っていた。多田さんが、滝本さんに綿棒の隠し場所を話し、その後滝本さんが椅子を蹴っ飛ばしてそこから飛び出した。彼らは多田さんを助け、隠し場所に案内させた。また、彼らの一人は遺伝子の事を聞いた滝本さんの後を付けた。滝本さんが、新大橋で、鈴木さんと、ユウナさんを橋から隅田川に突き落として、いや、突き落としたつもりになって、その場を去った後、滝本さんの後を付けていた男が二人を引き上げた。ユウナさんがX国の工作員か何かなら、鈴木さんを抱えたまま、手すりか、橋桁にぶら下がっていたのでしょう。それ位のことが出来てもおかしくない。そして上から引き上げられた。滝本さんは二人が川に落ちる所までは見ていないのですから。これが私の想像です」
滝本さなえは驚いたような顔で津田を見る。笑顔で津田が続ける。
「滝本さん、あなたは誰も殺しちゃいない、と私は思います。多田さんがあなたに言った、綿棒の隠し場所を調べて下さい。彼らがすでに持ち去っていると思います。だから、百合がさらわれたのでしょう。遺書も、彼らが、滝本さん宛に何か書けと言って書かせたのかもしれません。それと、多田さんが変になったというのも、薬が使われたのでしょう。覚せい剤や、ヘロインのような麻薬や、催淫剤、媚薬などですね。それらを混ぜ合わせたものなどが使われたのではないでしょうか。それも、なんというか、許容量を越えたものが。解剖すれば分かるのでしょうが」
野川さんが津田を見る。
「先程言いましたが、事件性が全く見られなかったので。現場で検死だけですね。ところで、津田さん、X国ってなんですか」
野川さんの言葉に、津田が慌てたように答える。
「百合がさらわれた後、X国関係者がって野川さん言ってませんでしたか」
「そんなこと言いましたか」
「聞いたような。それとも、これこそ私の思い込みでしょうか。あはは」
野川が怪しそうな顔で津田を見る。思い返したように続ける。
「津田さんの想像通りだとすると、滝本さんは当面注意した方が良いですね。遺伝子綿棒のこと誰かに話しましたか」
「両親に話したかもしれません。よく覚えていませんけれど。それと、あの、いま、百合ちゃんがさらわれたって」
滝本さなえが心配そうに山岡さんを見る。
「さらわれかけたの。でも大丈夫。またさらわれるかもって言って、堂々と学校さぼってるの。ほんとにあの子は。それより、野川さん言う通り、さなえさんもご両親もしばらくは気を付けた方が良いわね」
「まあ、ともかく、滝本さん、あなたは警察署に来る必要はありません。しいていえば、殺人未遂や、傷害などもあり得るのでしょうが、あなたのお話以外に証拠はないし証明する人もいない。それに、多田さんや鈴木さんの件は既に処理が終わっている。今更見直しとなったら警察が困ります。今日のことは、私は聞かなかったことにしますよ」
野川さんが、これで終わりというのに立ち上がる。津田が、あわてて、隣の部屋に行き紙袋を持ってくる。
「これ、この前の忘れ物です」そう言って滝本さなえに渡す。
滝本さなえは、それを受け取り、中をちらっと見て、真っ赤になり、うつむきながら小声で、津田に「この前はどうも」、野川に「お忙しい所申し訳ありませんでした」と言って急いで部屋を出ようとしてよろける。
山岡さんが「大丈夫」と滝本さなえを支え「私送って行きます」と言って二人で部屋を出て行く。津田と野川さんは立ち上がったまま二人を見送る。
「これで終わるといいんですが」
野川さんがそう言って津田を見る。
「山岡さんも言ってましたが、滝本さんは大丈夫でしょうか。生徒たちの遺伝子を集めたことを多田さんから聞いたのですよね。それを彼らに知られている」
津田の言葉に野川さんはうなずく。
「しかし警察は動けませんね。ただ、彼らは事件性の無い方法を取る。滝本さんが両親に話したことも考えた上で」
二人は顔を見合わせ黙る。しばらくして、野川さんは「それじゃ」と言って帰って行く。
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