雪の中のやわらかな日

 「……今日は、帰りたくないです」

 紗英は、カップを持ったまま視線を伏せた。

 その言葉は小さいけれど、まっすぐだった。


「……本気で言ってる?」

「はい。……雪も降ってますし、でも、それだけじゃなくて……」

 そこで言葉を切り、ゆっくりと私の袖をつまむ。

「もう少し、一緒にいたいんです」


 その仕草に、胸の奥がふっと緩む。

「じゃあ、泊まっていきなよ」

 そう言うと、紗英は少しだけ目を見開き、すぐに笑った。


 夕食を一緒に食べ、夜更けまで他愛のない話をした。

 外は雪が積もり、街はほとんど音を失っていた。


 ――翌朝。


 目を覚ますと、隣の布団から小さな咳が聞こえた。

「……紗英?」

 額に手を当てると、熱い。


「なんか……ふらふらします」

 声もかすれている。

「ちょっと待って、薬と水持ってくる」


 急いで戻ると、紗英は上体を起こそうとしたが、すぐに力なく横になった。

「……ごめんなさい。起きられないかも」

「じゃあ、寝たままでいい。私が飲ませる」


 そう言って水と薬を口に含み、紗英の唇へそっと近づける。

 かすかに驚いた瞳が見上げてきたが、次の瞬間、唇越しに温かな水が流れ込む。

 小さく喉が動くたびに、私の心臓まで跳ねた。


「……ちゃんと飲めた」

「……ずるいです、こんな方法」

 熱のせいか、それとも別の理由か、紗英の頬は赤く染まっていた。


 その後、毛布をしっかり掛けて、彼女の髪を指先で整える。

「今日は絶対安静。何か欲しいものあったら言って」

「……じゃあ、一つだけ」

「なに?」

「そばにいてください」


 その願いは、雪よりも静かに、でも確かに胸に届いた。


 朝から雪は降り止まず、窓の外は静かな白に覆われていた。

 紗英はまだ熱が下がらず、布団の中で小さく丸まっている。


「……着替え、持ってきたよ。汗かいてるでしょう?」

「……うん」

 か細い声と一緒に、少しだけ上体を起こす。

 額にはまだ熱の気配が残っていた。


 パジャマのボタンをそっと外し、柔らかな布越しに肌へ触れる。

 びくりと小さな反応が返ってきた。

「冷たい?」

「……平気です。莉音さんの手だから」

 その一言に、胸の奥が少しだけ詰まる。


 替えの衣服を用意して、濡らしたタオルで首筋から胸元、腕、背中へと丁寧に拭っていく。

 熱で火照った肌はほんのり桜色で、触れるたびにゆっくりと息が漏れた。


「はい、前は終わり。次、背中向けられる?」

「……じゃあ、お願い」

 言われた通りに背を向けると、紗英は不意に私の手を取り、そのまま後ろから自分に回させた。


「……こうしててほしいです」

 背中越しに伝わる体温が、思っていたよりも高い。

 抱き締めた腕の中で、彼女は小さく震えていた。


「怖いんです」

「何が?」

「……熱とかじゃなくて……ひとりになるのが。今日みたいに、何もできなくて……置いていかれるんじゃないかって」


 言葉と一緒に、ぽろぽろと涙がこぼれた。

 肩口に落ちる温かい滴が、やけに重く感じられる。


「そんなことしないよ。置いていかない」

 ゆっくりと背を撫でると、彼女はさらに深くもたれかかってきた。


「……もう少し、このままで」

「うん。ずっとこうしてる」


 雪はまだ静かに降り続けている。

 白い景色の中で、二人だけの時間が、息を潜めるように流れていった。


 背中を抱き締め合ったまま、どれくらいの時間が経っただろう。

 雪音と紗英の静かな呼吸だけが、部屋を満たしていた。


 ――ピンポーン。


 突然のチャイムに、紗英が小さく肩を震わせた。

「……誰だろ」

 玄関に向かおうとすると、紗英がそっと袖をつかんだ。

「……ごめんなさい、多分、母です」


 心配そうな顔でドアを開けると、そこには落ち着いた雰囲気の女性が立っていた。

 彼女の肩や髪にも、外の雪がうっすらと積もっている。

「……あなたが莉音さんね。娘がお世話になってます」

 柔らかく微笑むその声の奥に、ほっとした安堵が混じっていた。


 後ろから布団にくるまったままの紗英が顔を出す。

「……お母さん……ごめん、心配かけて」

「本当にもう……熱があるなら早く連絡しなさい」

 そう言いながらも、その目は優しかった。


 部屋に上がった彼女は、私が用意したお茶を受け取り、紗英の髪を撫でる。

「莉音さん、看病してくれてありがとう。あの子、弱ってるときは誰かに甘えたくなる子だから……きっと、今日はあなたがいてくれて良かった」


 不意に、胸の奥が温かくなる。

 紗英は恥ずかしそうに布団の中で顔を隠し、その耳まで赤く染まっていた。


「……じゃあ、今日は車で連れて帰るわ。雪も強くなってきたし。莉音さん、今度うちにも来てちょうだい。最近この子がお世話になりっぱなしみたいだし、今日のお礼もしたいし。ね?」

「はい」

 名残惜しさが胸を刺す。

 けれど、玄関先で別れ際、紗英は小さな声で囁いた。

「……また会いたいです。ちゃんと、元気になって」


 ドアが閉まると、外の白い世界がいっそう静かに感じられた。

 けれど、その静けさの中に、紗英の体温がまだしっかりと残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レールの外で、あなたと 高町 希 @takamatinozomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ