冬を越えて

 僕はあの女のことをすっかり忘れて、一人で楽しい暮らしをしていた。


 無我、無自性、無分別、ということに集約されていた。世界は水溜まりであった。


 冬はすぐに去っていった。そして、春が来た。


 僕は、だんだんと暖かい風が吹いてくる時期を感じながら、外に出かけていった。やはり、あの場所へ――。


 自転車に乗り、農道を駆け抜けた。時速三十キロの小春日和だった。

 そうすると、いた。

 絵描きの女は、大きなスケッチブックを地面に置いて、大きな筆を勢いよく動かしていた。僕は自転車を降りた。


「あ……、そういえば名前を知りませんでしたね」

「どうも、適当に呼んでください」

 ふと、農道の両脇に植えられた桜の木が目についた。

「そうですか……、じゃあ、桜さん、でどうでしょう」

「そうしましょう」


 桜、というと、どうも好きな木ではなかったのだが……、どういうわけか、桜なのだった。


 とはいえ、女の描いていた絵は、どこまでも黒と白の灰色がかった世界だった。なぜ、外で描いているのか不思議になったほどだった。

 春の日の朝は、夢の中のような印象を僕にもたらしていたのだ。


「ちょっと山を歩きませんか」


 女が言った。


「歩きましょう」


 乗ってみることにした。


――


 山路を歩いていると、いつも僕は、その道の横の森のほうに、なにか不思議な、しかし妙に情緒をそそる、異界の入り口の真っ黒な<穴>があるような気がする。

 僕はそれを見出したいのだが、ついにそれを見出すことはない。

 そんなことを思いながら絵描きの女と歩いていたが、女は一言も口を利かない。仕方がないので僕も口を利かず、むしろ女の先を足早に歩く。


 冬と春に挟まれた季節の朝の日に照らされた道脇の湧き水は、その絶えることのない音がなによりも……。

 拡大造林で針葉樹林になった山と、その間にある残された森。

 その森を分け入ったらすぐ、何かがある予感だけがあった。


 僕は、森の上の枝の間にちらちらする朝の光を見ていた。春が近かったが、肌は締まるくらいの冷たさがあった。僕はこのしゅんとした冷気の締められ方が好きだった。


 一通り歩くと、これまでの少しだけ整備されていた石の山道から、もっと草の生い茂った山道に変わる分岐点だった。僕はそこで足を止めた。後から来ていた女は、僕を追い越して少し先へと行き、そこで止まった。


「絵とは、何ですか?」

 僕は無意識に―と言ってもこの頃は無意識が生活のすべてだったが―、言葉にしていた。

「そのうちわかります。おにぎりを食べてもいいですか?」

 そんな答えだった。


 女は鞄からおにぎりを取り出すと、印象的な髪をこちらに向けて、向こうの木々を見ながら、一口ずつ食べていた。線香の匂いがした。(なぜだろう?)


 風が吹いて、少し頬寒く、女の髪が左に揺れていた。


 おにぎりを食べ終わった女は、ラップを鞄に仕舞うと、振り返り、口を閉じた笑顔でこちらに向かった。僕はその顔を見つめたまま、女の顔に金色を認めた。



――


 山路を降りるとき、僕は話をした。

「日本昔話なんかでは、話がありますよね。……山で女に出会ったら、実は化け物だったとか」

「なるほどね」


 それだけの会話だった。(それだけ、という会話こそ、やけにのちのちまで残ることを、僕は知っているつもりである。)


 降り切って、もとの山あいの風景になった。朝にあった白味はすっかり晴れていて、見通しが良かった。

 絵描きの女は、道端の草の上に座って、頭を振って髪を分け、こちらを向いて微笑んだ。

 山ぎわの輪郭線に、僕はいつも見入っていた。


 山の<穴>は、確かにどこかにぽっかりと空いているようで、しかもそれを見出すことはない。だけど、この女は、もしかしたらその<穴>をずっと持っているのではないか?そんな気がしていた。楽しかった。


 「私はもう少し描いていきますが、あなたはどうしますか?」

 そんなことを言われたが、僕は少し対人的な過敏さから、一人になりたかったので、去ってみることにした。


 「今日は、このあたりでどっか行きます、このいい天気が続くといいです」


 そうして、僕は自転車に乗り、山に入り込んだ無駄に広い二車線道路の方へと、ペダルを漕いでいった。——

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