地層の空
てると
神なき空で
神なき空で、君は絵を紡いでいた。
此岸から彼岸へと渡った先で、世界は浸潤していた。
――
その日、僕は夜遅くに、自分の体の置き場所以外のところ全て黄ばんでしまったベッドから起き上がると、いつもの如くパソコンを起動し、インターネットで一通り少女たちのたわむれるアニメを観た後、FPSゲームで目的地を爆破していた。
が、どうも調子が悪い。どうもここ数年の、<秩序>についての考察が過ぎて、ついにその<秩序>を成り立たせているところの最高法規の、そのまた根本原理を考え始めてしまった。そういえば、引きこもる前の学校では、休み時間に教科書を無作為に-気になったところを勝手に読みながら、幾何学……幾何学……、なんて、考えていたし、寒い中、手を制服の腕に突っ込んで中国の儒官のようにして廊下を歩き回りながら、日本国憲法などのことを考えていた。そのさいに、国際連合にはなんの権威性もなかった。司法こそが三権の長であった。
しかし、最高法規は、いかにして基礎づけられているのか?―—僕にはそれがわからなかった。そうして、僕は、何がどうなってそうなったのかわからないうちに、白い壁紙の二階の狭い部屋の隅で、ベッドの上の枕とは対角線の方向に立ち、ひたすら天井を向いて、四次元の方向はいかにして<認識>しうるか、と考え始めた。
考えても埒が明かなかった。だから、やっぱりパソコンの前の、つまり、中学校のアルバムがそのままに置いてあり、勉強机のままにしてあるところの椅子に座って、イメージを遂行していた。
急に、僕は、<無限>的な広がりを直観した。僕は無限性が出現するときには、いつも目の奥に不安を感じる。
そうすると、明け方、突如天啓が降った。「世界は、水溜まりのようなものである」……。そのとき、僕のイメージには、家から徒歩二分ほどのところにある、地元の、海に注ぐ大きな川の、そこに降りていく階段の場所が浮かんでいた。
そうだ、世界は水溜まりだったのだ。一切、境界はないのだ。境がないところに、区画を設定すると、ウソではないか……。
その日から僕はすっかり<有頂天>になり、早速朝方の、まだ地元の街では誰も起きていない時間に、籠のついた自転車に乗り、その川の橋を越えて、ひたすら数十分、わけのわからない方向に走って、気づいたら、山と農道に靄のかかる、農家がゴミを燃やしている朝に出会った。東の白がりと、南に伸びていく田んぼと道、その脇の山が、僕を包んでいた。閉じられていたなかに、空の安らぎがあったのである。それを「自然」とは呼びたくなかった。「生活と自然」、なんてことを言うけれど、どっちも分別がないし、賢しらぶって「自然」を、「環境」を、なんてことを言う気取った大人もまたウソなのだった。
自転車をゆっくりと進めて、その地区にある神社の前に停めた。そして神社に入るわけでもなく、道を歩き、ひたすら境地に浸っていた。僕には神社も寺もなかった。ただ道の脇のお地蔵さんだけを、愛するでもなく、親しむでもなく、もちろん偶像に依り頼む、ミイラ捕り、でもなく、ただ、この青く広がる空の現身だと思っていた。
……そうしていると、目の前に女がいた。女と言っても、僕よりも年上だろう、絵を描いていた。その絵描きの女は、絵の具の付いたTシャツに下は絵の具のついたジーンズだった。
僕はまだ物怖じしていたので、気づかれないうちに引き返そう……、などと思っていたところで、目が合ってしまった。ここで引き下がると<秩序>の悩みに逆戻りするという直感がはたらいたので、進むしかなく、声をかけてみた。
「あ、おはようございます……。ちょっと覗かせていただけますか?」
「あ、おはようございます。……いいですよ……こんな感じです」
絵を見せてもらった。よくわからなかった。
確かにその女は僕と同じ地点に立って絵を描いているのだが、その絵には、どこにもその風景と同じものがなかった。薄暗い空間と、人物たちが描かれていた。しかし、一度声をかけた手前、何か返事を返さないといけなかった。
「いいですね」
「あ、ありがとうございます」
それしか言えなかった。しかし
「しばらくお話ししませんか?」
絵描きの女は確かにそう言った。よくわからないという印象だったが、付き合ってみることにした。
――
「最近、よく来るんです……」
「そうなんですね……、僕は今無職で、わけもなく来たんですが、そちらは?」
「私もわけもなくです!」
そんな会話だった。女は再び絵を描き始めた。
「……色はどうですか?」
「え?」
僕は聞き返す。
「いや、……」
僕は、とりあえず好きな色を答えることにした。
「昔は金が好きでしたけど、今はこの服の通り、黒が好きですね」
僕は、上半身が真っ黒で、下が青のジーンズだった。
「そうなんですね!」
そう言って、女は、いくつかの黒い絵の具を出し、それを混ぜていた。手早かったが、僕には「黒」も「灰色」も全部同じ、という気がしていた。
絵を描き終わったらしい女は、道具を仕舞うと、鞄から一冊の本を取り出した。
「それは、どんな本なんですか?」
「詩みたいな感じで読んでます、哲学者が書いたんですけど……」
僕は、哲学を軽蔑していたので、正直に言えば馬鹿だと思った。なぜなら、自分の独り覚った境地を誇りにしていたからである。
そうしていると、女はさらに一冊のノートを取り出した。
「これに描くこともあるんです、みませんか」
僕はそのノートを手に取って、女の描いた絵を観た。
さまざまな、どこにもないような風景があった。色が現実でないさまざまな色彩をなしていた。僕には、どうもわからないことがあったので、聞いてみた。
「この絵とか、例えば……この絵は、季節はいつなんですか?」
「どうなんでしょうね?一つじゃないと思いますけど……、季節は一つなのか、もっと多くあるんでしょうかね」
要領を得ないな、と思った。そういえば、僕は、世界は水溜まりだけれども、この山に包まれた空の下で、季節だけは日本の情緒を信じていた。夏が好きだった。それも、海と花火の夏ではなく、この山に抱懐された抑鬱の無い呆けた夏を。そこには既に夏と互いに入り組んだ秋が来ているのだった。
それにしても、無性にだんだんと居心地が悪くなって来た僕は、取って返そうとした。僕が自転車の方に向き直り動き始めてから数瞬の間があり、
「よかったらまた会いませんか?」
と女は言った。はっきりとした、思い切ったような声だった。
「あ、そうしましょうか……」
とは言ったものの、僕はいつどこで会うのかわからなかった。
振り返った。
女はもういなかった。——
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