第2話

 朝起きていちばんにする事は窓を開けること。新鮮な空気というものはいつの時代も変わらず、大変良いものだ。確かに、産業革命ごろのロンドンは酷い空気だったけれど、それも今となっては可愛らしい思い出を構成する要素のひとつになる。いつの時代も人々はとてもチャーミングだと思う。


 さて、私はといえば。現在のところ街の図書館で働いている。何しろ、長く生きるのは時として退屈との共生になるのだから、その場合に本はとても有能な友人となる。

 軽やかな音をさせて頁をめくり物語を読み進める時、私はこの上無い至福を感じる。人というものは本当に素晴らしくて、世界の何処にいても、新たな物語を生み出してくれる。どの時代にいても、その時々に違った物語に出逢うことが出来るのだ。そのことが素晴らしく愛らしいので、私はやっぱり人がとても好きだ。


 その日、私が終業間際に持ち帰り用の本を探しながら書架の間を歩いていると、声をかけてくる人がいた。

「あの、もし分かったら教えて欲しいんですが……」

 リファレンス依頼。私はたちまち頭を切り替える。

 彼は、とある短編小説の掲載された本を探しているのだと話した。ヒョロリとした体躯。高い位置からこちらを覗き込んでいる瞳にはどこか不安な影があり、シャツのボタンはいちばん上以外をきちんと閉じている。左腕に抱えた数冊の本には見覚えがあって、彼がどんなジャンルを好んで読書するのかがそれとなく把握できた。

 彼の話す簡単なあらすじに耳を傾け、思い当たるものをいくつかピックアップしてみれば、果たしてその中に捜索中のものがあったらしい。先程までの不安を拭い去ったような澄んだ瞳がとても可愛らしいと思った。

 また別のある日、同じく閉館間際の書架の間で彼が私を呼びとめる。この前とは違う本を

 探していると言い、私はそれを探して彼に差し出す。

 そのようなことが数回続いた晩、夕食のテーブルで八重子ちゃんに報告すると、彼女はたちまち頬を薔薇色に染めた。

「姉さんにもとうとう春が来たのね」

「春なら間に合ってるわ」

「うぅん、そうじゃなくて!」

 スープ皿の中のポタージュを幅の広いスプーンで掬う。心地の良い湯気が立ち昇る皿にはオレンジ色が鮮やかな南瓜のポタージュスープでそれは私の好物であるはずなのに、どういう訳かそんなに美味しく感じられないのだ。諦めてカゴからパンを手にするけれど、いつもなら香ばしく感じるはずの匂いすら無粋なものに思える。

 八重子ちゃんのはしゃいだ視線から逃げたくて、それでもう一口パンを齧る。

 正直なところ、図書館に現れる彼のことは少し可愛らしいとは思う。長めの前髪越しに見える切れ長の目も、艶のある黒髪も、シャツを捲っていると見える程よい筋肉のつき方をした腕も、背が高いせいで少し猫背がちになってしまうところも。感じの良いテノールも、躊躇いがちに声をかけてくるところも、私の名前を大切な物のように丁寧に発音するところも、大変素敵だと思う。でも、だからこそ。

「姉さんたら、何をそんなに考え込むことがあるの。せっかくの恋が冷めてよ?」

「……まるでポタージュスープみたいに言うのね」

「そりゃあそうよ。あのね姉さん、美味しいうちに頂かないと、恋そのものに悪いと思うわ」

 そう言うと、八重子ちゃんは自分のお皿を傾けてから幅広のスプーンを器用にひらりひらひと動かして、残りのスープをすっかりと飲み干してしまう。

「あぁ、とっても美味しかった。たまらない。至福だわ」

 ほら姉さんもとそう聞こえて、私は私のスープ皿に目線を落とした。


 それから少しして、夏音が帰宅する。ある意味予想通りの人物を連れていて、先ほどまでモヤモヤしていた私の気持ちはふんわりと温かさを取り戻す。

「やぁ、相変わらず美しい姉妹だ」

「叔父様!」

「おかえりなさい、ジョン叔父様」

 幼い頃に読んだ絵本に出てくるサンタクロース然とした体型のジョン叔父様は、お決まりの大粒のサファイアをあしらった指輪の他に、どういう訳か黄金色の大きなイヤリングを着けている。これはたぶん、今までのジョン叔父様にはない変化だ。私の視線に気がつくと、叔父様は「ふおふお」と笑い声をこぼした。

「何しろ長い長い話になるんだ。お茶を頂けるかな」

「もちろんですとも」

 それから夏音の頭を撫でてこう言った。

「三人目が生まれているところを見ると、千代子も変わりないという事だな」

「永遠子姉さんのウィークエンド・シトロンで分かったって、叔父さんが」

 そうでしょうとも、と私は頷く。母から受け継いだレシピ通りのケーキは、もう何世紀も変わらない。問題はそのあとだった。

 叔父によれば、夏音は幾人かのクラスメートのほかに、女の子を伴って屋敷を訪れたのだと言う。

「それ、本当なの?」

「……ガールフレンドくらい、僕にだって居てもおかしくないだろ?」

 答えたのは叔父様ではなくて頬を膨らませた夏音だ。まだほんの小さな男の子だとばかり思っていた夏音は、あらためて見るとごく普通の少年の姿をしている。私たちの一族は美しい。年老いる速度はごく緩やかで、決して醜い朽ち方をしない。ゆったりと歳を重ね、美しいままの姿で、最期には冷たい土の下に眠る。それは比喩ではなく本当に眠るだけで、例えば子孫が呼び起こした際にはきちんとその呼びかけに応えるものだ。

「でも夏音……」

 私は不器用に言い淀んでしまう。

 気を付けなさいと、母さんがいつになく鋭い目つきで私たちに語りかけたことがある。私たち女はいいわ、だって産む側なのだから。どんな子が生まれてくるかなんて凡そ想像もつく。けれどね、例えば普通の女の子の元に、私たちみたいな不死の命を持つ存在が生まれてご覧なさいな。それはそれは恐ろしい話になる。かと言って母親から子を取り上げるのもまた、ひと悶着あるのなんて目に見えて単純なお話なのだから。

 無限に生き続ける命を持つことは、永遠の孤独を手にすることでもある。それはまた、私たちが伴侶を得た場合、相手にも等しく降りかかる。

「だって……寂しいんだ」

 ハッとするほど心細い声で夏音が言って、それは単純に私たちの胸を打つ。可哀想な夏音。可哀想な八重子ちゃん。そして私もまた。

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