無辺世界
野村絽麻子
第1話
リビングのソファに身を沈ませて肩を震わせながらしゃくりあげる姿は、悲しげである反面、妙な熱に包まれていて、私はダイニングテーブルの前の椅子に片膝を立てた行儀の悪い座り方のままでじっくりと眺めてしまう。八重子ちゃんの抱えた膝小僧の可愛らしさ、赤くなった鼻の頭、息を吐くたびに揺れる茶色い前髪とおさげの先っちょ。どれも本当に素敵で、よく出来たお人形みたいだ。
聞けば、失恋したのだと言う。八重子ちゃんは恋多き女の子で、そっくりそのまま私たちの母さんである
とは言え、このまま泣き続けていたら翌朝の瞼が恐ろしいほど腫れてしまうし、そうなったら八重子ちゃんもさぞ辛かろう。
椅子から立ち上がるとお湯を沸かし、茶葉を選んで紅茶を淹れた。とっておきのカップに注いでから、少し考えて小さいスプーンにお砂糖をひと匙掬って入れ、十分にかき混ぜて「八重子ちゃん」と声をかける。
「ほら、そろそろ泣き止んでくださいな。とっておきのお紅茶ですよ」
「いらないわ」
「甘くしてあるのよ?」
「……いる」
甘い飲み物は人の心を容易く溶かすのだ。とは、ジョン叔父様から教わったこと。ジョン叔父様はもうずいぶんと前に一族で海水浴をしに行った時、沖に流されてしまって以来会っていない。賑やかな笑い声に、柔らかな笑顔。左手にいつも大粒のサファイアの指輪をしていて、いかにも大切そうに見つめていた。
あの頃はまだ八重子ちゃんも幼子の姿をしていたっけ。それに弟は生まれていなかった。
「姉さん」
「なぁに、八重子ちゃん」
「ずいぶんと楽しそうに見えるわ」
「あら、拗ねているのね?」
自分でも甘くした紅茶を一口飲んでから、溜息を吐いた。
「ジョン叔父様、お元気かしらねぇ」
つい懐かしさに任せてそう呟けば、八重子ちゃんが鼻の頭に皺を寄せた。きっと私がジョン叔父様を思い出したことに気が付いて、それに関連して八重子ちゃんの幼い姿を思い出している事が解っているのだ。なんて愛らしいこと。思わず手を叩いてしまいそうになりながら、その代わりに、紅茶をひと口含んで衝動に耐える。
「元気に決まってるわ」
「そりゃあそうでしょうけど」
「生まれたくなかったわよ、こんな不死の一族になんて」
八重子ちゃんの言う言葉の並びの通り、私たちは不死の一族だ。祝福か呪いかはわからない。もうずっとずっと昔から私たちの一族は命を終えることなくこの世界に連綿と続き、繋がり続けている。おおよそ二十代半ばくらいの外見で止まってしまった私と、妹の八重子ちゃんはティーンエイジャー姿のまま。小さな弟の
「
私の呑気は母さん譲りで、母さんという人は私に輪をかけて呑気者なのだ。なにせ、私たち姉妹、そして弟の夏音はそれぞれ父親が別。つまりは一族のように不死の存在ではなくて、ごく普通の人間と恋愛をして子を産んでいる。
話の流れから今回の恋の相手を思い出したのか、八重子ちゃんの目尻にぷっくりと涙の粒が盛り上がって、だから私は「八重子ちゃんの恋の多さは母さん譲りね」という言葉をしっかりと飲み込んで、代わりに、その滑らかな艶のある髪をそっと撫でたのだった。
それからしばらくして日も暮れようかという頃に、ガチャガチャと騒々しい音を立てながら弟の夏音が帰宅する。なんでも学校のお友達に誘われて廃墟探索に出かける約束をしたのだとか。この年頃の男の子というものは、こういった冒険に目がないものらしい。
「およしなさいよ、そんな事」
「夜、窓から灯りが漏れてるのを見たって奴がいるんだ」
「灯りねぇ」
街外れの廃墟なら知っている。もう長いこと門扉を閉ざしたままの洋館は、植物の蔓や何処からかやって来た猫やイタチの住処になっている。手入れが悪くてそうなっているのではなくて、持ち主が在宅の頃からその有様で、だからその荒れ果て具合は持ち主の好みということになる。
機嫌の良い夏音ははなうたを歌いながらリュックサックの前に座り込むと、思い付く限りの冒険道具を意気揚々に詰め込んでいく。懐中電灯、ホイッスル、地図帳、レジャーシート、アルミシート、防水スプレーになぜか飯盒まで。これでは何を言っても聞きやしないだろうと、諦めた私は冷蔵庫の中を確認する。ポークチョップのサンドウィッチ、卵とキューカンバーのピクルス、ハムとキノコのキッシュ。それに、忘れてはいけないウィークエンド・シトロン。カゴいっぱいのお弁当でも持たせれば、きっと満足して帰還するはずなのだから。
そのようにして送り出した弟が誰を連れ帰って来るか、なんてことは私や八重子ちゃんは分かりきっていたのだけれど、その話はもう少しだけ先にしようと思う。
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