第16話 紫陽花の庭
久々に訪れた実家は、まるで知らない場所のようだった。
大きな鉄の門に広大なお屋敷。けれど、なんだか妙に静かでかつてのような活気がない。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
出迎えてくれた執事は知らない人だった。
オルテンシアが暮らしていた頃にいた、いつも怖い顔をしているあの執事は辞めてしまったのだろうか。
聞いてみようかと思ったが、仲が良かったわけではなく、むしろオルテンシアは嫌われていた部類に入るだろうから聞く気にはなれなかった。
長い廊下を歩きながら不安な気持ちにかられそうになるが、隣にいるシグルズを見て穏やかな気持ちになれる。
「一緒に来てくれてありがとうございます」
「いや、むしろ俺が強引に着いてきてしまったような気がするんだが」
「そうですか? シグルズさんがいて下さると、とても心強いですよ」
「ならいい。正直、俺はオルテンシアを一人にするとまた何か起きそうな気がして……しばらく君に付きまとうかもしれない。嫌だったら言ってくれ」
恥ずかしそうに困った顔でそう言うが、やっぱりオルテンシアのことが心配でたまらないのだろう。
急に過保護になってしまい、最近はどこに出かけてもシグルズと一緒で、元気なのに早く帰って休んだ方がいいと繰り返し言われている。
「あらあら、シグルズさんったら」
「あの、僕もいるんですけど。ちょっとは遠慮したらどうなんです」
振り向けばエドアルドがずいぶん不服そうな顔をしていた。
以前盗み聞きした二人の会話からして、エドアルドはシグルズのオルテンシアに対する気持ちを知っていたはず。
「エドアルドさんも来てくれてありがとうございます。でも何度も来たことあるんですよね?」
「まその通りですけど。仲良しなのは結構ですが、ご当主の前ではよしてくださいよ。僕が怒られますから」
「なんであの人が怒るんです。エドアルドさんまで変な心配するなんて、ふふ」
オルテンシアが笑うとエドアルドはわざとらしくため息をついていた。
「でも、なんだか私がいた頃よりも静かな気がするんですけど、エドアルドさんの時もそうでしたか?」
「ええ。使用人の数もずいぶん減らしたようですし、客人も滅多にないようです」
「そうですか……」
オルテンシアがいた頃は使用人の数も多く、名門一族らしいきらびやかな屋敷だった。
ただ、当主本人は賑やかな雰囲気はあまり好きではないようだったから、屋敷も本来の形に戻りつつあるということか。
あの頃苦手だった使用人と顔を合わせなくて済むのはありがた、と思うのは薄情だったかもしれない。
「さ、そろそろご対面ですね」
悶々と考えながら歩いていれば、あっという間に当主の書斎についてしまった。
ドアノブに手をかけようとして、その手が震えていることに気付く。
扉を開けるだけのことなのに、目の前にあるのがそびえ立つ分厚い壁のように見える。
「オルテンシア」
シグルズも気付いたようだ。そっと優しく声をかけてくれる。
「大丈夫です。もう、怖くありません」
今はもう一人じゃない。オルテンシアはようやく、扉を開いた。
ぎい、と音が鳴る。書斎机ではアルクメオン当主が待っていた。
相変わらずの無表情で、書斎の窓から庭を眺めている。だが、その姿はオルテンシアの予想外のものだった。
「と、当主様……?」
対面したその姿は記憶にあるよりもずいぶんやつれていた。
思わず困惑の声を上げる。
まだ四十代のはずなのに実年齢よりもうんと老いて見える。病にかかったわけでもあるまいに、一体なにがあったというのだ。
「久しいな……オルテンシア」
「えっと……」
いざ対面したところで、驚きの方が勝ってしまい何も言えなくなる。
沈黙が気まずくて視線を逸らしてしまったが、向こうも何も言わないのでどうしようも無い。
しばらくお互い黙ったまま時間だけが流れていく。
「なんなんです、あなたたちまともに会話もできないんですか?」
わざとらしくため息をつきながらエドアルドが割り込んできた。
「これだから娘に出ていかれちゃうんじゃないんですかね、あなたは。わざわざ連れてきてあげたんですから、いつまでもめそめそしないでもらっていいですか?」
当主にたいしてこんな口の聞き方をする人間は見たことがなく、オルテンシアは圧倒されてしまった。
家では使用人たちから厳しくしつけられ、当主に対しては常に敬語で礼儀正しく、口答えなどしてはいけないと言われてきた。
アルクメオン家というだけで周りの態度が変わるというのに、エドアルドは一切躊躇う様子がない。
「おい、エドアルド……」
「娘は私のことが嫌いだからぁ〜っていつもいつもうるさいんですよ。何回その話したら気が済むんですか。大体あなたたち人間は言語っていうものがあるのにどうして対話をしようとしないんです?」
シグルズが止めようとするも、エドアルドは全く意に介さない。
「大体あなたたち親子は、お互いがお互いをどうも思ってるかを思い込みで決めつけて、似た者同士もいい加減にしてくださいよ」
返す言葉がなかった。
さすがにいたたまれなくなってきて、オルテンシアは黙るのをやめた。
「エドアルドさんのおっしゃる通りです。すみません」
ようやく当主と向き合い、緊張しつつも話を切り出す。
「あの……申し訳ありませんでした。勝手に出ていったりして、大変なご迷惑をおかけした自覚はあります」
「いや……いいんだ。お前が無事でいてくれたのなら、それでいい」
何か一言ぐらい言われるのではと思っていたのに、全く力のない返答だった。
「私がどこにいるのか知っていたのなら、連れ戻そうとは思わなかったんですか。それとも、私は跡継ぎとして相応しくないから……」
「そうではない。そうではないんだ……。もうこれ以上お前に辛い思いをさせたくなかっただけだ」
「辛い思いって……」
「お前の悩みなど私は聞いたこともなかったからな。腹が立つのも当然だろう。許されるとも思っていない」
こんなに弱々しい当主の姿を見るのは初めてだった。
昔なら常に威厳ある姿で眉一つ動かさなかったような人が、力なく項垂れている。
「じゃあ、どうして、こんなに回りくどい方法で私を魔法博物館へ連れてきたんですか」
「私が直接言ったところで、お前は受け取ってくれないだろうからな。それも全て、私のせいだが……どうしても、渡したかったんだ。お前の父親の大切な形見だろう」
そう言われ、オルテンシアはだんだんと自分の中で怒りが再び湧き上がってくるのを自覚した、
「だから、そのお前の父親のって……」
「ファウスト……お前の父であり私の唯一の親友だった男だ。本来なら、お前のそばに居るべきはファウストであったのに、私は……」
「だから! あなたはいつもそればかり! 私にとっての父親はあなただったのに」
突然大きな声を出して怒り出したオルテンシアに、三人とも驚いている。
だがオルテンシアは止まらなかった。
「確かにその人は私の親かもしれないけど、私は顔も知らない。私にとって、この家の中で親と呼べるのはあなただけだったのに、あなたは私と親子になろうとしたことなんてなかった! 私は、あなたに認めてもらいたかっただけなのに、今だって全部他人事みたいな言い方して!」
産んでくれた両親のことは本当に大切に思っている。忘れたことなんて一日もない。
けれど、オルテンシアが頼れる生きている人間は、目の前にいる当主しかいなかった。
それなのに彼は、オルテンシアの亡き両親こそがオルテンシアの隣にいるべきであったとばかり言っていて、まるで自分とオルテンシアは家族ではなく、ただ義務で預かっただけの関係とでも言うかのような振る舞いだった。
本人にはその気がなかったとしても、オルテンシアは常に線引きされていると感じていた。
「オルテンシア……」
アルクメオン家に相応しくなれば何かが変わるはず、そう信じてきた結果、周りが見えなくなってアルバを傷付け、その報いを受けた。
エドアルドの言う通り、オルテンシアに足りないのは対話だった。
「あなたなんて……お父さんなんて!」
大嫌い、その一言の代わりに、オルテンシアの頬を涙が伝う。
「そうか……私は最初から、何もかも間違えていたようだ……」
悔やみながらも、その声は優しいものだった。
「いつからだろうな。お前がお父さんと呼んでくれなくなったのは。家庭教師が余計なことを吹き込んだのは分かっていたが、それで良い気がしてしまったんだ。私はお前の本当の親ではないのだから」
オルテンシアの両親を知っているからこそ、立場を取って代わるようなことはしたくなかった。
けれど、オルテンシアにとっては当主であろうが血の繋がりがなかろうが、父であることに変わりはなかった。
「血の繋がりだけが家族じゃないと、俺は思いますよ」
シグルズが二人にそう言う。
シグルズの場合は、彼の祖母こそが大切な家族であったのだ。
「ああ……君の言う通りだったな」
当主は――――オルテンシアの父は力なく笑う。
「だが、私にとっては大切な親友の娘でもあるんだ。立派に育てなければ二人に顔向けができないと思い、お前には勉強ばかりさせてしまった。子どもらしく遊ぶこともさせず、くだらない経済学の本なんか与えて……私は嫌な大人だったな」
「そうです。すごく嫌でした。変な学術書をくれるより、一緒にご飯を食べた方がよっぽど嬉しかったです」
過去は変えられないが、もしあの頃親子としてちゃんと向き合えていれば、違う今はあったのかもしれない。
少なくとも、十年以上お互い誤解したままでいるようなこともなかっただろう。
「オルテンシア、こんな父を許してくれとは言わない。すまなかった、本当に……」
「ええ、許しません。だから、私のことも許してくれなくて結構です」
「ああ……」
あえてきつい言葉を投げかけても、落ち込むどころか当然のように受け入れられた。
それどころか、満足そうにさえ見える。まるで、オルテンシアと話せるだけで十分とでも言うかのようだ。
「一つ聞いていいですか。どうして、博物館にしたんですか」
ずっと気になっていた質問を、これで最後にするつもりで聞いてみた。
ただ遺産を渡すだけなら、いくらでもやり方はあった。
それなのに、わざわざ博物館を建てた理由だけが分からない。
父にしては珍しい、非効率的な手段だと思ったからだ。
けれど、その答えはオルテンシアの予想をはるかに超えていた。
「だってお前は、博物館が好きだっただろう」
穏やかな声で、父は優しく語る。
オルテンシアは思わず息を飲んだ。
まだ幼かった頃、父に国立博物館へ連れて行ってもらった覚えがある。
正直、子どもで難しいことは分からなかったから、展示品より父と一緒にいられることを喜んでいたという方が正しい。
けれど、あれは二人だけで出かけた初めての思い出だった。
オルテンシアが成長して、博物館や美術館へ通うようになったきっかけでもある。
オルテンシアの頬を再び涙が伝う。今度の涙は怒りではなかった。
帰り際、オルテンシアはもう一度屋敷の姿を眺めてみる。
父がずっと眺めていた庭では、美しい
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