第3話 灰に囚われた者

霧は足首まで、いや、いつの間にか腰の高さまで忍び寄っていた。冷たく湿った粒子が、服の繊維にまとわりつき、呼吸ごとに鼻腔の内側をひんやりと刺す。木々の影は溶け、輪郭を失い、世界は白と灰の中へと溶けていくようだった。


 その霧の中から、ゆっくりと一つの人影が現れた守備隊の胸当て――紋章は擦り切れてはいるが形は判別できる。だが顔は、目は、既に人間のそれではなかった。瞳は灰色の膜で覆われ、意志の光を失っている。動きはぎこちなく、だが止めどなく前へと進んでくる。


「……あれ、見ろ」カイルが低く言う。声は震えていたが、剣の柄はしっかりと握られている。


 最初の一閃は予兆なくやってきた。相手の剣が風を切り、空気が裂ける。金属が金属とぶつかる音さえ、霧に吸い込まれて小さくなる。レオンは反射で木剣をかざしたが、衝撃が腕を揺らし、痺れた痛みが走った。相手の一撃は刃だけでなく、重さと勢いを帯びており、軸の一点に当てられると体が簡単に吹き飛ばされそうになる。


「速い……人じゃない!」カイルが横合いから斬り込む。彼の身体能力は見習いの中でも上位だが、相手は痛みを無視するかのように、斬られてもなお進んでくる。切り傷からは灰色の粉が舞い上がり、風に溶けるたびにそれは呼吸へと侵入してくるように見えた。


 レオンは後退するしかなかった。心臓の鼓動が耳にまで響き、思考は鈍く、ただ動くことしかできない。脳裏に、昨夜の夢の断片が瞬間的に差し込む――蒼い瞳、灰の剣、世界を覆う崩落のイメージ。だがそれは一瞬で消え、代わりに目前の脅威が全てを圧してくる。


 守備隊員は近づくと、突如として叫び声を上げずにその剣を突き出した。刃先はカイルの胸元に迫り、次の瞬間には喉へと届くはずだった。時間はスローモーションのように引き伸ばされ、カイルの顔が一瞬強張る。


「やめろっ!」


 声が雷のように破裂した。叫びは霧を震わせ、レオン自身の内部から、見たことのない感覚が湧き上がる。掌の奥がひりつき、冷たく、金属を思わせる重みの感覚が波のように広がる。目を見開くと、掌先に無数の灰色の粒子が集まり、回転しながら一点で渦を作っていた。


 光はほとんどなかった。だがその渦は、色で言えば灰色、質感で言えば霧より粗い微小な鉱物のようなものだった。粒子は音もなく集合し、次の瞬間、一斉に周囲へと弾け飛んだ。衝撃波は霧を裂き、冷気が震え、守備隊員の体を吹き飛ばした。


 彼は空中でぐるりと回り、幹にぶつかって崩れ落ちる。地面に叩きつけられたとき、鎧の継ぎ目からはさらさらと粉が溢れ出した。受けた衝撃にレオンの膝は震え、吐き気が襲う。自分が放ったもの――それが何であるかを理解するより早く、恐怖が先に立った。


「レオン……今の、なに……?」カイルの声は震え、だが眼差しの先には確かな驚愕があった。彼自身が受けた衝撃で膝をつき、砂埃に手をつく。


 守備隊員は一時的に動きを止めていた。だがそれは安堵ではなかった。灰色の粉が相手の傷口を覆い、まるでそこから新たな繊維を紡ぐかのように肉と鎧を繋ぎ直していく。まるで傷が癒え、壊れた関節が再び機能を取り戻すような、不自然な修復の光景だった。


 「あれは……治ってる?」カイルが呟く。確信よりも恐怖の含まれた問いだ。レオンは呆然と首を振るしかなかった。


 守備隊員が再び立ち上がると、眼光がこちらを探るように左右に揺れた。その動きに合わせ、霧の中からさらに多くの小さな影が蠢き出す。葉の影がざわめき、無数の灰色の塊が足元に群がっていく。生物の群れというより、空間そのものが歪んで形作られたかのような、得体の知れない集合体だ。


 レオンは掌の余韻を感じながら手を握りしめる。痛みが広がり、掌には一瞬赤い痕が浮かんだ。魔法の代償が何かを示しているのかもしれない――だが、そのときは考える余裕がなかった。次の瞬間、守備隊員が再度襲いかかろうと体を翻した。


「ここは逃げるぞ!」カイルが叫び、二人は後退しながらまともに刃を交えた。相手は生者のような躊躇を見せず、ただ前へ出る。だが、先ほど放った灰の弾けは、守備隊員の周囲に不協和な影響を残していた。粉は互いに干渉し合い、ひび割れた陶器のように固まり、再び霧へ溶けていく前にひしゃげるものが増え始めた。


 そして、守備隊員の胸当てがひび割れ、内側から――小さな金属片が転がり落ちた。破片は黒ずみ、古代の記号が刻まれている。円を描くような渦の紋様と、その中心に小さな点が打たれている。レオンの胸に、見覚えのようなものがひらめく――夢の中で見た、灰の剣の柄に刻まれていた紋と似ている。


 時間が一瞬止まったかのように感じられる。守備隊員は動かなくなり、やがてその身体はそっと崩れ、粉となって風に溶けていった。残されたのは、地面に散らばる細かな灰と、そこに転がる金属片だけだった。


 レオンは無意識に膝をつき、震える手でその金属片を拾い上げた。冷たかった。指先に伝わる感触は金属というよりも、時の冷たさだった。刻まれた紋は細かく、見れば見るほど古めかしく、だがどこか異質な知的設計を感じさせる。紋の線は渦を描き、外縁には読み取れない刻印が並んでいる。


「これは……何だ?」


カイルが近寄り、恐る恐る指先で触れる。二人の距離は近いが、言葉の重みはずっしりと胸にのしかかる。


 レオンの頭の中で、夢の断片が断続的に再生される。銀髪の少女の蒼き瞳、その手の先にある灰の剣。その剣の柄にも、この渦紋が刻まれていたような――。だが夢は今や現実と混ざり合い、どちらがどちらか分からなくなる。


 背後から、森の奥深くへ続く足音が響いた。粉の静寂を破るように、規則正しい、複数の足音。先ほど吹き飛ばしたのは序章に過ぎなかったのだと、レオンは恐怖と予感で理解する。


「戻るか?」カイルが囁く。声はほとんど聞き取れず、霧がそれを押しつぶしていく。


 レオンは金属片をぎゅっと握りしめた。掌に残る痛みは消えない。だが、その金属は不思議と重く、胸の奥にある何かを呼び覚ますかのようだった。言葉にはできない衝動が湧き上がり、それを抑えることはできないと知っていた。


「違う……行くんだ」レオンの声は自分でも驚くほど静かだったが、揺るがなかった。カイルは一瞬ためらい、次いで深く息を吸って頷く。


 霧は息を吐くように渦を巻き、森の奥はさらに深い灰色へと沈む。足音は近づき、影がまたひとつ、またひとつと形を成していく。二人は互いに目を合わせ、小さくうなずいてから、さらに奥へと歩を進めた。

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