最後に笑えばいい
彩原 聖
第一話 不安と炒飯
深夜二時、机に置かれた古びたライトの下で僕は今日も執筆している。
持病に使っていた薬を一度、強い薬に変えてからよく眠気を誘われるようになった。
その眠気がくるのが怖くなって、何かに熱中していたいと思うのだ。
だから毎日、誰に届けるわけでもなくただ小説を書き続ける。
こんなのただの対症療法だって気づいてる。でも不安になるのが怖くて、不安がさらなる不安を呼び、泣きだしたくなる。
ある時、親友のアキラにメールで相談してみた。
「アキラ、軽く聞き流すだけでいいんやけどさ……」
アキラは終始、僕に共感してくれた。それに確かに支えられた気がしたが、たったそれだけだった。
僕はもっと何か具体的な対策を期待していたのかもしれない。
僕の悩みは自分で解決してみせる。そう決意することのできた夜であった。
翌朝、目を覚ますとすっかり日が昇っていて、「しまった」と思った。
窓からさす光がいつもとは違うことに気づく。時計の針は十一時を指している。
今日は連休明けの登校日、夜更かししたせいか寝坊してしまったのだ。
すでに会社に行った母さんに「起こしてよ!」とメールを送ったあと、支度を済ませて家を出た。
母さんの困り顔が頭によぎる。
「シュウ! 珍しく遅刻やんか」
「うっせ、ちょっと夜更かししただけだよ」
「まあ俺は夜更かししても遅刻しなかったけどな」
切れ長の目のくっきりとした顔立ちの男こそ、アキラである。高校で出会い、三年生になった今もよく世話になっている。
「昨日のことなんだが…」
「ごめん、後でいい? ちょっと先生と話してこないとあかんねん」
「そっか遅刻だもんな、めっきり怒られてこいよ」
アキラは僕の様子を見てから、話を切り出そうとしてくれていたのだろう。
咄嗟に言ってしまった先生との話は建前である。
アキラと話さないことで、僕はこの悩みから無意識に目を背けようとしているのだろう。
昼間、一人で教室の自席に座り、家から持ってきたお弁当と向き合う。見るだけでなんだか満腹感があり、なかなか手をつけられない。
せっかくお母さんが作ってくれたのに、申し訳ない。それにアキラの話も聞こうとしなかったし、僕はどうしていつもこうなんだろう。
自責と後悔の念が頭の中をぐるぐると回る。その居心地の悪さが気持ち悪くなって、吐き気がした。
午後の授業を受けたが、僕はずっと上の空だったと思う。先生の話が耳を右から左に抜けて、何も残らない。
今日の授業が終わり、下校の時間になった。遅刻してきたので終わるのがとても早い。
いつも一緒に帰っているアキラとは離れて今日は一人で帰ることにした。
セミの鳴き声が胸の内をめぐり、耐えきれなくなってその場で四つん這いになる。
そして、おえっと勢いよく吐き出してしまった。口から出てきた塊はまるで僕が積み重ねてきたもの全てのようだった。
誰もいない公園でひとりうずくまる。僕はその場で動けず、ただ吐瀉物を眺めることしかできない。
孤独なことを自覚する。一人で帰る選択をしたことを今になってようやく後悔した。
家に帰ると、しんとした雰囲気の中で、僕の心臓の鼓動だけが響く。
荷物を置いた後、いつも通り仏壇に手を合わせる。父さん、僕は今日も間違えてしまったよ。
写真の中の父さんの表情は僕を責めるわけでもなく、ただ厳かであった。
たしか、僕が小学生になった頃だったと思う。父に深刻な病気が見つかって、医者から「もう時間がない」と言われたそうだ。
最後の瞬間まで父は威厳を保ち続けた。僕は、その姿を忘れられないし、今でも強く尊敬している。
僕は父さんみたいな男になりたかった。
ふと小さく静かな勇気が漲り、自分なりに現状と向き合ってみることにした。
紙を取り出しひたすら今の不安を書き出してみる。客観的に見つめ直すことで何か克服の糸口が見つかるかもと期待して。
・孤独が不安だ
・眠たくなるのが不安だ
・誰かに迷惑をかけるのが不安だ
・克服できないのが不安だ…
数えると二十個くらい挙げることができた。その最後に綴られた言葉は
「不安が不安だ」
期待した通り、自分を見つめ直すことで気持ちは安定してきた気がする。毎日異なる不安を綴り続けて約一週間が経った頃、ようやく食欲も回復してきた。
アキラにもそれとなく伝えてみたが、彼もいつも通り寄り添ってくれる。
「明後日、俺と会えば元気マックスよな!」(スタンプ)
「おまえ、連休だからってテンション高すぎかよ」
軽くメッセージを送り合い、いつのまにか会話は終わる。そんなフランクな付き合いができる彼とは心の奥深くまで通じ合っている気がした。
それからの日々は自分と向き合い、他者を信用して、戦い続けた。
精神科に通い、副作用を抑えた薬を飲む。眠気に襲われることはほとんどなくなり、回復の兆しが見えた。
しかし、なかなか夜更かしの癖は抜けず、元々は寝ないために続けていた小説を今も書いている。
自分が主役のラブコメを、相棒はアキラでヒロインの名前は適当に決めた。
恋愛経験のない僕の書いた小説はどこにも公開することはなく、そっと自分のうちに留めておいた。
自分で考えて試行錯誤することが功を奏したのだろう。
薬にせよメンタルにせよ、万全とは言えないが回復したと思う。
世界が色づいて見える。普通のことだけど、不安を感じない普通こそ僕がずっと求めていたものだろう。
ある休日の午前中、アキラから電話がかかってきた。
「昼間飯食いに行こうぜ、食欲あるなら」
「いいけど準備時間かかるかも」
そう言って支度を始める。今年になって休日に出かけることも少なくなったので久しぶりにオシャレでもしようと思ったのだ。
髪をアイロンで癖をつけて、ワックスをつける。ふんわりとした形のセンターパートで分け目から毛先にかけて流れができている。
よしバッチリだな。鏡の前でピースをして血色のいい頬を指でなぞった。
夏真っ只中ということもあり、街中では半袖やノースリーブの人がたくさんいる。
その中でアキラを見つけるのは難しいと思ったが、高身長で赤いタンクトップをきていたのですぐにわかった。
すらっとしたスタイルでワイドなパンツ、ブーツのような靴も彼が履くととても似合って見える。七三に分けられた前髪は流行りの毛流れを演出している。
「おまたせアキラ、遅くなったな」
「いいぜ俺も今きたとこだから」
「ほな行くか」
アキラが指差したところはなんの変哲もないラーメン屋であった。
席に案内されて、それぞれ注文を取ってもらう。寂れてはないものの確かな年季を感じる店内は空調が管理され、カウンターからは店主の熱そうな表情が見えた。
「やっぱ醤油ラーメンやな」
「アキラはいっつもそれよな」
「うまいもん」
「しかもトッピングも全乗せ、血糖値高くなんで」
「シュウこそいつも『チャハーン』と唐揚げ頼むやんか、そっちの方がカロリー高いわ」
僕たちは炒飯のことをチャハーンと言う。昔した僕の言い間違えがその名のきっかけだ。チャハーンと言う度に二人で大爆笑した思い出がありありと蘇る。
「お待たせしました〜」
差し出された料理は見るからに熱そうで、店主の情熱やらが込められている気がした。
(味がしない……)
うそだ、そんなはずはない。だって隣のアキラは美味しそうに食べているじゃないか。
何度啜っても、唐揚げを食べても味がしない。胡椒をふって、ラー油をかけて、いろいろ試行錯誤した。
「胡椒振りすぎちゃうか? 辛くなんで」
「あ、いや……ごめん」
「なんで謝るん」
「……」
アキラは僕が一心不乱に胡椒をかける姿を見てか、そう声をかけた。僕は咄嗟に謝罪してしまったが、彼の不満を増幅させるだけだった。
もしかしたらと思ってチャハーンをレンゲいっぱいにのっける。
口に入れた瞬間、涙が溢れた。広がる焦がし醤油の芳醇な香り、炒り卵とチャーシューが織りなす絶妙なハーモニーが噛む度に感じられた。
(あっ、あっ……)
涙を抑えることもなく、ただひたすらにチャハーンを口に入れ続ける。
アキラは特に口出しすることもなく、僕の様子を眺めている。
(美味しい……)
食べ終わった後、今まで感じられなかったくらいの幸福感に包まれた。メインのラーメンや唐揚げの味がしなかったことを忘れさせるくらい。
ラーメン屋を後にして、二人でショッピングをする。どんな服が似合うだとか、この服着てみたいなとか。
長年の友との時間はあっという間に感じられた。あたりはすっかり暗くなり、そろそろお開きの時間になる。
「シュウ、また明日! 学校で」
「おう」
手を大きく振るアキラとは対照に僕は小さく彼を見送った。
帰路につき改めて今日のことを振り返った。味のしないラーメン、やたら美味しいチャハーン。何が原因でこうなったか皆目見当もつかない。
何か思いついて、コンビニに駆け寄り、揚げ鶏を買ってきた。
香りは普通だ。熱々としていて、小麦粉の香ばしさが感じられる。
それを口いっぱいに頬張る。
(やっぱりだ味がしない……)
心の奥で何かが崩れ落ちた。コンビニの袋が風に煽られてカサカサと音を立てる。中身はもう空っぽだ。
電灯の下で立ち尽くし、胸を抑える。通りを歩く人たちは誰も僕に気づかず、通り過ぎていく。
(また、戻ってしまったのか)
やっと取り戻しつつあった「普通」は幻だったのか。
あの時、チャハーンの味がしたのはただの一時的な錯覚だったのか。
どんどん胸の中に冷たい水が溜まっていく感覚。まるで自分の中の“治りかけた何か”が、静謐に、でも確実にひび割れていく。
家に帰ると電気もつけずにそのまま自室のソファにうずくまった。
暗闇の中でスマホの画面だけがぼんやりと光っている。
アキラから通知が一件来ていた。
「今日はありがとな。また行こな(ラーメンの絵文字)」
短いけれど、彼らしい軽さ。
でも、それが今の僕にはどうしても遠く感じた。羨ましい、彼が普通なのが。
返信を打とうとして、やめた。言葉が出てこない。指が画面の上を何度も行き来する。
まるで、言葉を探して迷子になっているようだった。
しばらくして、ようやく送れたのはたった一言だった。
「またな」
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