第二話 支え合うこと

 その夜、久しぶりに続けていた執筆が止まった。何を書けばいいのかわからなかったからだ。


 夏が近づいてきたからか、外ではエンマコオロギの鳴き声が聞こえる。


 小説に書いていた主人公は、自分に似た少年だったはずなのに、今では他人のように感じられる。


 机の上のライトをつける。眩しさに一瞬目を細めて、ノートをめくる。


 そこには、前に書き留めた“今の不安”のリストがある。


 目で追うたびに、その時の自分の気持ちがありありと蘇る。


 ・孤独が不安だ

 ・眠たくなるのが不安だ

 ・誰かに迷惑をかけるのが不安だ


 そして一番最後。


 ・不安が不安だ


 思わず笑ってしまった。声は出ないけれど、口元がふっと緩んだ。


 不安が不安だった僕は、たしかに今ここにいて、こうしてまた“味がしない”ということに悩んでいる。

 

 だけど、それでもこうして紙を開いて、また書こうとしている。


(たとえ、戻ってしまったとしても)


 そう思った瞬間、ふと父の写真が目に入った。相変わらず厳かで静かなまま、そこにいた。


「父さん、俺はまた間違えてるかもしれん。まあきっと、今回は前よりマシやわ」


 小さくそう呟くと、肩の力が少しだけ抜けた。父の写真も、何も言わず、ただそこにいてくれる。


 再び、ペンを取った。


 今度は、自分が“味覚を取り戻す話”を書こうと思った。


 フィクションでもいい。けれど、それは確かに今の自分の延長線上にある物語だ。

 

 書いているといつのまにか眠ってしまっていた。はっきりと覚えているのは夢の内容だ。

 

 アキラと一緒にいろんな場所を旅する夢。

 

 アキラの顔が思い浮かんだ。

 

 一緒にラーメンを食べながら笑っていたあの時のアキラ。


 きっと彼は僕の変化にもう気づいているだろう。だけど、何も言わずにいてくれる。それがアキラだった。


 僕は、あの時きちんと「ありがとう」って言えていただろうか。

 

 昼飯に誘ってくれたこと、食べながら泣いていた僕にあえて言葉をかけなかったこと。

 

 学校に行った時に心配そうに声をかけてくれたこと。メッセージの節々に優しさが灯っていたこと。

 

 今からでも遅くないと思っておもむろにスマホを取り出した。

 

「アキラいつもありがとうな」

 

 彼からの返信はグッドのスタンプ。いつも通りの態度にちょっと不満をこぼした。

 

 今日は登校日、いつもより早く起きることができたので朝の支度もゆっくりと済ます。

 

 僕は仏壇に手を合わせて「行ってきます」と小さくこぼした。

 

 部屋の扉をガチャリと開けた時、違和感があった。

 

(……足が前に進まない)

 

 どれだけ力を入れても動こうとしない両足に不快感をおぼえる。

 

 動け、動けよ!

 

 目の前には変わらない風景がある、澄み切った青空と小鳥や虫たちの声。子供たちが元気に通学する様子。

 

 対して僕のいるここは薄暗い闇の中で、両足はここに縛り付ける枷のようだった。

 

 その理由もまたわからず、結局その場に倒れ込んでしまった。

 

 あつい…体が熱い。燃え尽きてしまうほどの熱を帯びているように思えた。

 

 僕の意識はだんだんと遠のいていった。

 

 気がつくと僕は病院のベッドにいた。そこは白いカーテンで区切られており、隣には母がいた。

 

「シュウ、よかったぁ! よかったぁ」

 

 母は涙ながらにそう叫ぶ、何がよかったのだ? 一体なぜ僕は横たわっているのか。

 

 母や医者の話を聞いて次第に朦朧としていた意識のピースがだんだんと戻ってきた。


 それでもいくつか疑問が残り、キョトンとした顔をしていると母が告げた。


「迎えにきてくれたアキラくんが救急車を呼んでくれたんだって」

「迎えに? アキラが?」

 

 ふとスマホに目をやるとそこにはアキラからの大量の通知があった。

 

 どうやら彼は昨日の様子から僕を気にかけていて、朝に連絡をくれたらしい。

 

 一向に返信が来ないことを不審に思って、学校を途中で早退して、僕の家に来たらしい。

 

 そこで玄関で倒れている僕を見つけたと。


 すごい友達思いなことだ、こうして彼への借りがまた増えてしまった。

 

「じゃあ私は仕事に戻るから」

 

 そう言って母は病室を後にした。母は昔からこんな人で父が病に倒れた時もその態度は変わらなかった。何をするにしても第一に優先するのは仕事である。

 

 それでも、そんな母に支えられて、僕は今を生きている。母はずっと昔から我が家の大黒柱だったのだ。


 そんな母に僕は迷惑をかけたくなかった。もちろん、アキラにも同じ気持ちだった。


 自分の体のことは、自分でなんとかする。そうやって、自分の力でやっていけると思っていた。


 誰よりも自分のことを理解し、大切にできるのは自分自身――だから、僕は自分を信じている。


 一時は『自分のこと以外、どうでもいい』と思っていたこともあった。

 

 けれど、今はそうは思わない。そんな考えはきっと大きな間違いだった。一人では、何もできないし、何も成し遂げられないのだ。

 

 ———


 入院していた間に、季節は少しだけ進んでいた。

 

 母は僕が退院した後、すぐに出張があり、一週間は帰ってこれないそうだ。

 

 日照時間が長くなり、昼も夜も寝苦しさのある暑さを感じた。夏らしく風もなく、雲一つない日が続いた。

  

 自室に戻って三日目。僕は登校せずに部屋に篭っていた。

 

 熱は引いたが、体の芯にまだ残る重さはしつこく僕の思考を鈍らせる。

 

 高校三年生なので勉強をしようとするが、どうにもやる気がでなかった。

 

 机に向かっても手が止まる。

 

 何を書けばいいのか、わからない。ただ、ノートを開いたまま、ページの白さを眺めていた。


 気がつくとあたりはすっかりと暗くなっていた。意識がぼやけていくこの時間帯が苦手だった。


 光も影もどちらにもなりきれずに部屋の隅にじっと滞っている。

 

 時計の音が妙に大きく聞こえる。誰もいない家でそれだけが確かに動いている。

 

 この間に同じ時を過ごす受験生たちは勉強に励んでいるんだなと思いを馳せると、居ても立っても居られない気持ちがした。

 

 そんな心とは裏腹に身体はいうことを聞こうとしない。


 頬を生ぬるい涙が伝った。他人との差を実感し、変わりようのない現状に絶望した僕の涙。

 

 その涙を拭こうとして気づく、僕の頬はすっかりこけていて、汗をかいた髪はカピカピになっていた。

 

 この三日間、風呂も入らず食事も取らなかった。決められた時間に薬を水と一緒に飲み、それだけでなんとも言えぬ満足感があった。

 

 死の足音が聞こえてきた。不安だ。もう何もかもがだるい。

 

 ガチャ…

 

 玄関の開く音が聞こえた。足音はさらに大きくなり、僕の部屋の前で止まった。

 

 コンコンコン……

 

「入るぞ」

 

 聞き慣れた声。

 

 入ってきたのは制服に身を包んだアキラだった。特にアクセサリーもつけていないのになぜか、煌々として見えた。

 

「心配で来た。鍵はお前の母さんから、入院した時に預かっていたんや」

「そう、死神が迎えに来たとでも思ったわ」

「まさか、まだ俺ら十七歳やろが、そんなすぐ死なんわ」

「ふふ、そうやな」

「嘘言うたわ、お前俺が来やんかったら死ぬつもりやったやろ」

 

 アキラの目はいつもより鋭く、ベッドに座る俺を眼光が刺す。きっと死ぬことを許さない瞳、それが輝きを失った僕の目に反射した。


「どういうつもりやねんて、風呂も入ってないし飯も食ってないやろ」

「だるいんや、何もかも」

「は?」

「飯は味がしやんし、風呂はそもそも入る気になれん」

 

 突っぱねるような僕の言葉を聞いてか、アキラは目を細めた。そのまま彼は言葉を失ってこめかみをかく。

 

「また薬の副作用かなんかか?」

「わからん」

「原因がわからんのが不安か」

 

 アキラは僕の机の上にあるノートをおもむろに開いて言った。

 

 僕はなんだか悩みを知られるのが気恥ずかしくて、重い腰を上げてノートを取り返そうとした。

 

「勝手に見るなやアホ」

「机に置きっぱなんが悪いわ」

 

 急に立ったせいか眩暈がした。そのまま倒れるようにアキラに寄りかかった。

 

 そのまま倒れるかと思いきや、アキラはがっしりと僕を掴んだままだ。

 

「シュウ、飯は食わなあかんでな。軽すぎやわ」

 

 ガリガリで骨ばった僕の体を両手で支えて言った。ご飯を食べられない理由も知っていながら、なんて無責任な言葉だろうか。

 

「なんも味しやんねん、その気持ちお前にわかるか!?」


 俺は支えていたアキラの手を突っぱねて、尖った唇で言う。

 

 アキラはバツの悪そうな顔をした後、僕を見てはっきりと言う。


「俺には全くわからん、お前が言うてくれた話から推測するしかできやんねん」

「ええよ別にそんなんしやんでも」

 

 アキラの好意を邪険にしたつもりはなかった。でも彼には不快に映ったのだろう。

 

 不意にアキラは僕の頬をつねって言う。

 

「俺らは自分一人じゃ、なんもできやんねん! 支え合っていかないと」

 

 さっきまでどこか他人事みたいな顔をしていたアキラがなんだかすごく近く感じた。

 

 いつもの彼の自信のある雰囲気からどこか不安を感じた、初めての瞬間だったかもしれない。

 

「でも、でもさ——」

 

 言いたいことはたくさんあるのに言葉にできない。そっか一人で悩みを抱えるのに慣れていたからか、言語化する術を失っていたのだ。

 

「ゆっくりでええから俺に話してみなよ」

 

 さっきまでの剣幕はどこへいったのか、すっかり丸くなったいつものアキラにそっとため息を吐く。

 

 それから僕はアキラに入院前後の気持ちを話し始めた。

 

「味がしやんのも、体調が悪くなるのも理由がわからんのはホンマに不安やな」

「そうやねん、それにいつ普通に戻るかもわからんくて不安や」

 

 話すことで少しだけ心が軽くなった気がした。もう夜も遅くなってしまったのでアキラは帰り、ほとんど入れ替わりで母が出張から帰ってきた。

 

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