6 騎士と聖女

    6


 騎士と聖女。

 共に背を預け、共に戦った少女たち。

 その二人が今、敵対するように向かい合っていた。

「それ、どういう意味……?」

「そのままの意味です。貴方には騎士の影が憑依している。だったら私は」

 聖女は揺るぎない眼差しで騎士を見つめていた。

「私は貴方を祓わねばなりません」

 懐から二つの小瓶を取り出した聖女は器用にも両手でそれぞれ栓を外す。中身の黒いものを左右の床に振り撒いた。それは熱湯のように水泡を立ててうねっていた。

上灘かみなださん、一体何を――」

 しっ、と聖女は人差し指を立てて騎士の口を封じる。

「ここで『昼』の名は……と今更言っても詮無きことですね。騎士様……いえ、稲津城いなづきさんの記憶の在り方には甚だ疑問が残ります」

 上灘天祢あまねはわざとらしく頬に指を当て、その疑問を呈した。

「影に憑依された人間は、昼と夜でその人格と記憶が切り離されるものなのです。例えるなら二重人格のように。ですが稲津城さんは昼夜の記憶をどちらもお持ちのようです。昼夜の呼び名をしっかり切り分けていたはずなのに、騎士様が今、私のことを上灘と呼べること自体が不思議なことなのです」

 稲津城珠乃たまのはある気付きに息を飲んだ。天祢の背後で意識を失っている古葉こば悠那ゆうなの姿を目で追う。

 悠那と昼に話した折、彼女は夜の出来事に関する話は一切していなかった。あれは騎士の正体を知らなかったから話さなかったのではなく、そもそも夜の記憶が無かったからなのではないか。

 そんな珠乃の様子を見て天祢は納得したと言わんばかりに頷く。

「私の考えが正しければ、ひょっとすると稲津城さんは――」

 その刹那、天祢の左右に広がっていた黒い沼が大きく弾けて言葉を掻き消した。

「頃合いでしょうか」

 左右に両腕を広げた天祢は空中で何かを掴むように両手を握る。

「上灘祓守はらえもり之秘術、喚醒よびさまし――」

 透き通る声とともに、天祢は糸を引っ張り上げるように両腕を振り上げると、沼は大きく形を変えた。珠乃にはただ呆然とそれを眺めることしかできず、やがて天祢の左右に見上げるほどに大きな二体の影が現れたのだ。

「駄目ですよ騎士様、目の前で敵が何か準備しているのにぼうっと見ているだけなんて」

 二対の影はこれまで対峙してきたものとは異なり、微動だにせず不気味に鎮座していた。まるで主人の命令を忠実に待つ番犬のようだった。

「上灘さんは、敵……なの?」

「私はいつだって稲津城さんの味方ですよ。でも騎士様にとってはもはや敵、でしょうね」

 にこりと微笑み、天祢は右腕を真横に強く振り抜く。次の瞬間、珠乃の身体は強い衝撃を受けて大きく吹き飛んだ。机をなぎ倒し、椅子を弾き飛ばして教室の壁面に叩きつけられる。

「っ……!」

 全身を走る痛みに歯を食い縛った。天祢の右に控えていた影が珠乃を殴り抜いたのだ。あの影は傀儡のように天祢の意のままに操れるらしい。直撃を受けた左肩の装甲は大きくひび割れ、ボロボロと崩れ落ちていった。

 壁面にぶつかった鎧の背中側から焼けるような痛みが伝わる。少し前にも一度味わった痛みだ。四辺に張られた結界が、影で作られた騎士の鎧を焼いているのだ。

「どうして……」

 ふらつく視界を庇いながらよろよろと立ち上がり、珠乃は声を絞り出す。

「どうして、ですか。稲津城さんに憑依している騎士の影を払うためですよ」

「違う!」

 天祢の声を遮り、思いの丈を心の底から振り絞る。

「私は上灘さんのこと、友達だと思ってたのに、それなのにどうして――」

 珠乃の言葉は切れ切れで力ない。友達――その言葉を噛み締めるように、天祢は吐き捨てる。

「友人だからこそ、影の本質を知った貴方をこれ以上夜の世界に巻き込む訳にはいかないのです」

「だったら!」

 珠乃の力強い言葉に、天祢は少しだけ怯んでしまう。

「だったらそれは上灘さん、貴方もそうだよ」

「……私?」

 予想だにしない言葉に天祢は虚を突かれる。

「私の知ってる上灘さんなら、稜神りょうじんを守りたいと言っていた上灘さんなら、こんな風に誰かを傷付けたりしない。きっと貴方も影に操られているんだ」

「短絡的な現実逃避です。私は操られてなどいませんよ。私のことを何も知らないでしょう?」

「知らないからもっと知りたいんだよ! 上灘さんは冗談が好きで、機械音痴で、時には病気で気弱になったりもする普通の女の子だから。誰かを傷付けて平然としていられるなんておかしいんだ」

「……詭弁ですね。上灘天祢とは、元よりこのような人間です」

 騎士は剣を拾い上げ、痛む身体に喝を入れてゆっくりと構え直す。

 自分が、天祢を影から救ってやるのだ。

「『影』よ、我が刃が貴殿を切り裂かん!」

 一閃。天祢の右に控えていた影が両断され、崩れて消え去ってゆく。一瞬の出来事に天祢は目を瞬かせた。左の影に指示を出そうとするも、さらに一閃。次の瞬間には左の影も斬り伏せられて沈んでゆく。

 あっという間に聖女を守るものはなくなり、気がつけば天祢の首筋には大剣の刃がぴたりと宛がわれていた。

 爆発的な瞬発力には驚かされたが、天祢は冷たく笑う。

「先程申し上げた通り、私は生身の人間です。このまま剣に少し力を込めてやれば、それだけで私は鮮血を吹き出して命を落とすでしょうね」

「っ……!」

 そのような事が珠乃にできるはずがなかった。これ以上動くことができない。だが天祢を止める手立ては他に考えつかなかった。

 そんな最中に天祢が手にしていたのは、またも黒い影の封じられた小瓶だった。

「何度影を呼び出したって、全部斬ってやる!」

「同じ手が何度も騎士様に通用しないのは分かっています。あまり好ましい方法ではありませんが、私も少しだけ冥界に足を踏み入れるとしましょうか」

 そういって天祢は小瓶の中身を浴びるように己に向けて撒いたのだった。

「上灘祓守之秘術、翳纏かげまとい――」

 溢れ出た影が天祢の姿を覆い尽くす。あまりにも異様な雰囲気に珠乃は一歩飛び退いた。黒霧が消え、現れた聖女が装着していたのは貫腕うでぬき鎖帷子かたびら、各所へ仕込まれた暗器――。

「まさか、悠那さんに取り憑いていたシノビの影を、自分の身に纏わせたっていうの……!?」

「ご明察です。上灘家に伝わる最終奥義――影の力をも取り込む禁忌の術です」

 天祢は錫杖を取り出し、光の短剣を顕現させる。忍と聖女の合わせ技だ。

「さぁ稲津城さん。私が影に操られていると仰るなら、どうか私を影から救ってみせてくださいね?」

 にこりと笑んだ天祢の姿が一瞬にして消え去る。

 忍がそうしてみせたように、天祢も高速で動きながら短剣を振るう。光の刃は騎士の身体を縦横無尽に切り刻み、鎧が次々に削ぎ落とされていった。

 しかし珠乃も吹っ切れたようで、攻撃に迷いがなくなっていた。次第に天祢の速度に順応してきているようで、一撃の鋭さが増していく。騎士の一撃が肩口を掠めて血が流れた。

 やはり忍の影は強力で、天祢の身体ではついていけない。地を蹴って駆け出す度にもつれて転びそうになる。

 だが、天祢には聖女としての――祓守としての秘技も持ち合わせているのだ。手をかざして珠乃の姿を捉える。

「眠りなさい、稲津城珠乃シュノさん――」

 その刹那、珠乃の膝ががくんと折れる。だが珠乃は剣の柄に向かって額を打ち付けて気付けし、剣を杖にして再び立ち上がった。

 天祢は目を丸くした。術が半分――いや、四分の一も効いていない。魂へ直接命令しているのだから、根性でどうにかなる代物ではない。上灘の操魂術が効かなかったことなど一度もないのだ。だが術が少しでも効いていれば十分だった。あとは忍の身体能力を使って勝つ、それだけだ。一方の珠乃も剣を携え、反撃の姿勢を見せた。

 珠乃の剣と天祢の刃が交差する最後の一撃――。

「――珠乃たまの!」

 突如として二人の間へ割り込んだそれは天祢の一撃を食らって大きく吹き飛び、教室の床を転がっていく。

「……悠那さん!」

 古葉悠那は床に伸びたまま、再び意識を失った。

「意識を取り戻したばかりで右も左も分からない状況でしょうに、それでも身を挺して友人を庇うとは……」

 悠那の勇敢な行動に感心を覚えたのか、天祢は恍惚な表情を浮かべていた。

「それにまさか、私としたことが半年も相方の名前を間違えて覚えていたなんて。不勉強でした。ねぇ、稲津城珠乃たまのさん?」

 名前を呼ばれた途端、まるで鋼鉄の鎖を身体に巻き付けられたかのように全身が重くなる。立っていることも能わず、そのまま倒れ伏してしまう。

 魂を操る聖女の術をまともに受け、力の強大さを身をもって知った。

「名前とは魂を現世に留めるためのくさびです。与えられた名前があるからこそ、私たちはこの世界に留まることができる。これが忍の言っていた魂を世に刻む行為の本質です」

「くっ……!」

 なおも騎士は立ち上がろうとし、その度に崩れ落ちる。その姿が意外といった様子で、天祢は目を丸くしていた。

「本名を呼ばれてもまだ動けるのですか」

「今の私には名も知らない騎士の魂が憑いてる……そうでしょう? その名前が分からなければ、完全に操ることなんてできないはず」

「……なるほど御尤ごもっともです。今は術が半分だけ効いているということですね。でしたら」

 天祢は新たな小瓶を取り出す。毎週見届けてきた、影祓いの儀式だった。

 中身の液体が珠乃の身体に振りかけられた途端、影が――騎士の魂が身体から分離し、水に包まれて宙に浮いている錯覚に陥る。鎧が砕け、大剣は壊れ、形もなく崩れ去っていく。

 天祢が瓶の口をそっと宛がうと、みるみるうちに騎士の影は吸い込まれて消えていくのが感覚として分かった。強烈な虚脱感と眠気に襲われ、ジャージ姿に戻った珠乃はもはや動く気力も起きなくなっていた。

「やはり貴方に憑いていた影はかなり特殊です。上灘の歴代当主が残した手記にも、同じ事例は僅かにしか記されていません。私も実物は初めて目にしました」

 瓶の中には真っ白な物質が蠢いていた。今まで相手にしてきた影とは正反対な、それはどこか神秘的な雰囲気さえも醸し出していた。

「肉体と精神の完全一致――影の魂と取り憑いた人間の天性がことごとく同調したとき、影は浄化されてこのような形になるのです。稲津城さんが昼も夜も記憶を共有できていたのはこのためでしょう。きっと生前の騎士様は稲津城さんと瓜二つな方だったのでしょうね。心優しく、高潔で、勇敢な――」

 天祢のその言葉は他でもない珠乃自身への評価でもあった。

 別の新しい瓶の聖水を浴びた天祢は自らに纏わせた影を吸い込ませる。忍装束は消えて元の聖女の姿へ戻っていた。

 天祢はぺたりと床に座り込む。倒れている珠乃の上体を抱え、頭を膝の上に置いてくれる。ふわりと柔らかく、心地良い感触だった。

「何の、つもり……?」

「最後に、少しお話をしましょう」

 最後――その言葉の指すところは明らかだった。きっと彼女は珠乃の記憶を消し、日常生活へと還すのだろう。

 戦いの最中とは全く異なる優しい表情で、天祢は微笑みを見せる。

「初めてお会いした日のこと、覚えていらっしゃいますか?」

「……今まで忘れてたけど、だんだんと思い出してきた。あれも確か稜神大社だったね」

「ええ」

 高校へ進学してすぐのある日の晩、珠乃は稜神大社を訪れたのだ。普段では夜中に出歩くなどあり得ない行動だったので、記憶にずっと蓋がされていたのかもしれない。

 天祢は話を続ける。

「あの日、私は今日のように一匹の影を捕り逃してしまったのです。その日の影はとても力強く、ですがどこか包み込むような優しささえ感じる、そんな影でした」

 それがきっと、騎士の魂だったのだろう。

「倒すべき影を逃がしてしまい、私は途方に暮れていました。稜神を守る使命を果たすことができなかった、自分の無力に打ちひしがれていました。そこに貴方が現れたのです」

 ああ、思い出した。家で寝ていたはずの珠乃は夢枕に何者かが現れたような、そんな感じがして跳ね起きたのだ。そして家を飛び出しては導かれるように大社までやって来た。そこで今にも泣きそうな顔をした天祢と出会ったのだ。

「稲津城さんには先ほど逃した影が憑依しているとすぐに気付きました。一刻も早く肉体から引き剥がして記憶を消してやるべきだとそう思いましたが、でも稲津城さんは……」

「貴方に忠誠を誓ったんだ。……ほんと、自分でもなんでそんな事をしたのか全く分からないね」

 珠乃はあざけるように笑う。まるで騎士の魂が天祢を助けるためだけにそうさせたかのようで、自分でも可笑しくなってくる。

 だが泣いていた一人の少女を救うことができたのなら、その選択は間違っていなかったと確信していた。

「でも聖女があんなにも戦えるなんて知らなかった……」

「稜神の祓守ですから、本来は一人で戦うのが当然なんです。稲津城さんには私のこの神聖な力の源が何か、分かりますか?」

 神聖な力――魂を操り、傷を癒やし、影を祓う摩訶不思議な力。

 天祢の首から下がっている十字架クロスを見上げて、少し考えてから珠乃は答えた。

「稜神を守りたいと思う強い信念、とか?」

「ふふ、稲津城さんらしいですね。でも違います。この力の源は上灘家当主の純潔です」

「じゅんけつ……?」

 言葉の意味が理解できず、疑問を呈する。

「恋人も伴侶も持たず、清らかな身であり続けるということです」

 天祢は噛み砕いた言葉で説明を加える。

「かつて女遊びに興じてしまった当主も居りましたが、力を失ったが為に勘当された旨が上灘家の手記にも残されています」

 初心うぶな珠乃もその説明でようやく意味を理解する。以前天祢の語っていた、祓守の継承を思い返していた。本家が当主の間は分家が子を育み、子が育ったらそれらを交代する。それは当主の穢れを避けるために組み上げられたシステムなのだろう。

「上灘の人間は今や私一人。もし私の力が失われることがあれば、稜神の地を影から守る者がいなくなってしまいます」

 それはすなわち、天祢の代で上灘の家系は途絶えることを示唆していた。天祢はこの先何十年にも渡り、たった一人で影と戦い続ける道を選んだのだ。

「だったら私にも手伝わせてよ。騎士の魂を返して。今まで通り、二人で戦おうよ」

「今まで稲津城さんには助けられてばかりでした。本当に感謝しています。ですが先にも申し上げた通り、影を身に宿し続けるのは危険極まりない行為なのです」

「私の影は特殊なんでしょ? もう半年も宿していたんだから、これからもきっと平気だよ。それに一人で戦い続けるなんてしてまた倒れたりしたら……」

 家の使命とはいえ一人で全部背負い込むことはない。少しでも天祢の苦しみを分かち合えるのであれば、珠乃はどんな辛苦だって負うつもりだ。

「理由は他にもあります。このままずっと貴方と供に居れば、きっと私は――」

 天祢は言葉を切り、言い澱む。一瞬の迷いの後、やがてはっきりと言い放った。


「私は、貴方に恋をしてしまう」


 恋――そのような言葉を目を逸らすこともなく、恥じることもない様子で述べるものだから、珠乃も心の奥で何かが揺れるような感覚に陥る。

「貴方に恋をして、やがて愛を覚え、色を知り、力を失って稜神の地を守ることができなくなる。私はただそれが恐ろしいのです」

 突拍子もない言葉に動揺し、しかしそれを否定することができない自分もいる。天祢とは対照的に、気恥ずかしさを誤魔化すように目を逸らしてしまう。

「……自惚れが過ぎるよ。私が上灘さんを受け入れるとも限らない」

「いいえ、稲津城さんは私のことが大好きなんです。その想いに私は何度も救われてきましたもの。いくら恋愛に疎い私でもそれくらいは気付けますよ」

 天祢はあくまでも穏やかにそう告げた。珠乃自身も知らなかった気持ちを見透かされていたのだ。珠乃が抱いていた天祢への感情は、友愛などではなく眷恋けんれんだったのだ。

「だからこそ私がこれ以上踏み込めば、同じくらいの想いを貴方に抱いてしまう。それではいけないのです」

「だったらその気持ちを捨てるなんて――」

 貴方自身の幸せはどうなるの?

 そう言いかけて口をつぐんだ。そんな事、彼女はとうに覚悟しているのだ。

 これはお互いに初めて抱いた恋心で、これから訪れるのは初めての失恋だ。胸のざわめきと虚しさが振り払えず、声が震えてしまう。

「初めて出会ったあの日、私の影を祓って記憶を消しておけばよかったんだ。そうすればこんな想いをすることなんてなかったのに」

「……私とて人の子です。きっと、寂しかったのでしょう」

 余数十年も続くことが定められた孤独。寂しいの一言で片付けられる代物ではない。

「当面は私の命が尽きるまでに対策を考えるとしましょう。直系の子孫でなくとも祓守の力を継承する方法を編み出すか、家系図を遡って遥か遠縁の親戚を探すか、あるいは冥界の穴を直接塞ぐ手立てを見つけるか……やることは山積みですね」

 そうやって切なそうに笑う。どうしてこうも気丈に振る舞えるのだろう。

 これからも自分が側で支えなくては、いずれ彼女は――そこで珠乃はあることを考え付いた。残った気力を振り絞り、ジャージの懐から取り出した物を天祢の眼前に突き付ける。

「これは……?」

「これは貴方を想って選んだものだよ。私だけ一方的に貴方を忘れるなんて嫌だ。これが恋心だっていうなら、私は絶対に忘れたくない」

 綺麗な包装紙を破り捨て、それに刻まれた文字を指先でなぞった。

『K.Amane』――他でもない聖女の名前が刻印された黒い手袋だった。

「記憶を失った私は、知らない人の名前が入った手袋を自分が持っていることを疑問に思うはず。名前が魂に刻まれる楔だというのなら、それをきっかけに貴方のことを思い出す。絶対に想い出してみせるから」

 もちろんそんな保証はどこにもない。手袋の存在さえ忘れてしまうかもしれない。

 だけど彼女との日々を回顧する手がかりを残しておきたかったのだ。

「嫌なら私から奪い取って、後で燃やして捨ててしまえばいい」

「そんなこと……」

「心優しい上灘さんにできっこない。ましてや私に恋をしようとしてる人なんだ。捨てられるはずがない。これは私からの呪いだよ」

「そんなの、ずるいですよ……」

 天祢の声色には戸惑いと、悲哀と、心苦しさが混ざり合っていた。受け取ろうとも拒絶しようともせず、ただ目許には涙が浮かんでいた。

 珠乃は手袋を自分の胸の上に置いた。これをどうするかは彼女に任せるのだ。

 やがて決心したようで、天祢は手袋を掴んで手を通し、さぁ記憶に刻んで見せろと言わんばかりに珠乃の眼前へ突き付ける。

 ぴったりと細指に纏う黒革はどこか艶めかしく、やはり天祢によく似合っていた。

「一度だけ。一度だけこの手袋を嵌めて貴方の前に姿を見せます。それで記憶が戻らなければ、この賭けは貴方の負けです」

 随分と分の悪い賭け事だ。だが珠乃はそれでも満足だった。

「うん、約束だよ」

 珠乃はその白い小指を伸ばし、天祢の黒い小指に絡める。

 気が付けば窓の外から望む空はとうに白み始めていた。光と闇が交じり合う、泡沫のように儚い時間だ。

「さぁ、じきに日が昇ります。お別れの時間です。稲津城さんは影との戦いの記憶も、私と過ごした時間も忘れて日常に還るのです」

 額に十字架が宛がわれた。視界の全てが柔らかい光に包まれる。

 天祢の目許に浮かんでいた水滴が零れ、珠乃の頬にぽつりと落ちた。それが最後の記憶だった。

「お休みなさい、稲津城珠乃さん」

 そこで、意識を失った。

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