7 さよなら

    7


 稲津城いなづき珠乃たまのは胸襟秀麗な学生である。

 稜神りょうじん女子高等学校普通科に通う一年生であり、この稜神町でも指折りの名家である稲津城家の一人娘だ。

 成績は極めて優秀で誰に対しても礼儀正しく、クラスでは学級委員長を務めている。彼女の不真面目な態度を目撃したことのある人など一人もいないだろう。きっと誰に尋ねても彼女は「優等生だ」という評価が返されるに違いない。

 そんな彼女は教室の扉を前にして、まるで登校初日の転校生であるかのような緊張の面持ちを見せていた。

 ドアノブに手をかけ、扉を開けて、その先の日常生活に戻る――たったそれだけだというのに、今の珠乃にはそれが叶うのか一抹の不安があった。

 そんなことを思惑して廊下に佇んでいたところ、突如として肩へ置かれた手に心臓が跳ね上がった。

「あー、シュノちゃんだ! 今日から復学なの?」

杏果きょうかちゃん……!」

 振り返ってみれば最も仲の良いクラスメイトが今まさに珠乃へ抱き着こうとしているところだったらしく、杏果の胸に顔が埋もれる形になった。

 杏果の腕の中に収まりながらも、やはり不安が拭えずにその心情を吐露してしまう。

「私、教室入って大丈夫かな……」

「何言ってるの、みんなシュノちゃんが帰ってくるのを待ってたんだから!」

 杏果が教室の扉を開けた途端にクラス中の視線がこちらに向き、それは歓喜の声へと変わっていった。

「シュノちゃん久しぶり!」「シュノちゃん、大丈夫だった?」「ちょっと聞いてよーシュノちゃん!」

 教室に入って席に着く間もなくクラスメイト数人が周りに集まってくる。このクラスの風物詩とも言える光景は何一つ変わらなかった。

 あの『事件』のせいでクラスで腫れ物扱いされやしないかが不安でたまらなかったが、どうやら余計な心配だったらしい。

 珠乃の席の周りには杏果を含めて仲のいいクラスメイト数人が集まり、ホームルームが始まるまでの談笑が始まる。

「シュノちゃんがようやく戻ってきてくれて嬉しいよ! シュノちゃんのいない教室って時間の進みがやけに遅く感じちゃってさ!」

「だねぇ、シュノちゃんと一緒にお出掛けしたのがもう随分昔みたいに感じるなぁ」

 杏果たちは口々にそう語る。だが珠乃はそれらの出来事を何一つ覚えていなかった・・・・・・・・

「ごめんね、何の話だっけ……?」

「え、この間一緒にモールまでお出掛けしたじゃん。冬服見てクレープ食べてさ」

 こうなる事を予想していたものの、やはり実際に目の当たりにすると心苦しくなってしまう。珠乃は言い淀みながら答える。

「本当にごめんね。実は『あの日』からたまに色々なことを思い出せないときがあって。何か大きなショックを受けて記憶が抜け落ちてるのかも、ってお医者様は言ってたけど、正確な原因は全然分からないんだって」

「そうだったんだ……」

 重苦しい沈黙が広がる。お通夜のような空気に耐えられなくなったか、一人が口を開く。

「でも『眠り姫事件』なんて不思議なこと……」

「こら! 今そんな話出さないの」

 杏果がクラスメイトの話を遮ったのは珠乃に配慮してのことだろう。

 『眠り姫事件』――学校中でそう呼ばれて噂になっているのは珠乃がつい先日巻き込まれたとある事件だ。

 先々週の日曜日の早朝、校内を見回っていた当直の警備員が三階のある教室で意識を失った珠乃を発見した。教室は机や椅子が散乱し、壁や床には無数の傷が入れられるなど酷く荒らされた状態だった。幸い珠乃はどこも怪我しておらず何事もなかったが、不気味なことにそこへ至るまでの記憶がすっぽり抜け落ちていたのだ。

 珠乃自身、事件については何が何だか分かっていない。普段の生活習慣から考えても夜中に出歩くなんてあり得ないし、ましてや夜中の学校を訪れるなど考えられないのだ。

 まるで夢遊病にでもかかったようで未だに気味が悪い。珠乃が病院での精密検査やら警察の事情聴取やらで学校を二週間も休むことになったのはそのためだ。

 そんな重いムードを破るように杏果は不意に手を鳴らした。

「だったら今度、また皆で遊びに行こうよ! シュノちゃんも何か思い出せるきっかけになるかも知れないし、また新しく思い出を作っていけばいいんだしさ!」

「そうだね……うん、ありがとう、杏果ちゃん」

 底抜けに明るい杏果の提案に心が少し軽くなる。珠乃は本当に良き友人を持ったことを心から感謝した。


 午前の授業は二週間の遅れに加え、ところどころ綺麗さっぱり忘れているものだから、授業の内容についていくだけで必死だった。どっと疲れが溜まってきたところで昼休みの始まるチャイムが鳴り、少しだけ救われた気持ちになる。

 鞄から弁当を出し、杏果たちと机をくっつける。お昼くらいは肩の力を抜いて楽しく過ごそう。そう思った矢先のことだった。

「ここにいたんだ、珠乃。探したよ」

 背後から突然かけられた声にびくりと肩が跳ねる。なんだか今日はこんな事ばかりだ。

「あ、古葉こば先輩……」

 気配もなく背後に立っていたのは、古葉悠那ゆうなという生徒だった。ひとつ上の先輩であり、そもそも一年の教室にいること自体が場違いであるため否応なく周囲の視線を集めていた。

「お昼、一緒にどうかなって」

 その手にはコンビニのビニール袋が下げられていた。すかさず杏果が間に割って入る。

「あの、先輩。シュノちゃんは私たちとお昼を食べるんで」

 いつも優しい杏果の表情が硬い。妙に彼女を警戒しているように見えた。

「珠乃の苦しみを理解できるのはうちだけ。外野は黙ってて」

 鋭い眼光をつきつけられ、杏果は怯んでしまう。悠那はその隙に珠乃の手を掴み、立ち上がることを促す。決して強く掴まれている訳ではないが、珠乃にはそれを振り払うことができなかった。

 逆らえないままに弁当箱を持って立ち上がれば、杏果たちが心配そうにこちらを見つめていた。

「心配いらないから、明日は一緒に食べようね」

 そう言って珠乃はにこりと微笑み、教室を後にした。


 悠那に手を引かれるままに連れてこられたのは校舎屋上へ出るための扉の前だった。踊り場に積まれたボロの机の中から悠那は手慣れた手つきで鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

「あの、屋上に出るのは校則違反ですよ」

「いいじゃん。前もここで一緒に食べた仲なんだし」

「そう……なんですね」

 煮え切らない返事に悠那はぴくりと反応を見せる。珠乃には彼女と昼食を摂ったという記憶がどうしても存在しなかった。

 悠那に連れられて一歩外に出る。屋上へ出るのは初めてのことであり、吹き抜ける風が心地よかった。悠那は手頃な段差に腰掛けて隣を促す。立ち入り禁止の屋上にはベンチなどという気の利いたものは置いてあるはずもなく、スカートが汚れるのが嫌だったが仕方なく隣に腰掛けた。

 持ってきた弁当箱を開ける。母の手作りで、珠乃の大好物ばかりが詰められていた。たった二週間ぶりのはずなのにやけに懐かしく感じてしまう。

「今日はちゃんとお弁当なんだ」

「えと、私は毎日お弁当持参です。古葉先輩」

「……名前でいいよ。たった一年早く生まれただけで敬わなきゃいけないなんて馬鹿げてるからさ」

 悠那は少し寂しげにそう述べる。

「じゃあ、悠那さん。こんな場所に連れて来てどうしたんですか?」

「もちろん『眠り姫事件』のことを話したいから。事件について分かるのはうちと珠乃だけ、他の人がいたら話の邪魔になる」

 あの日、教室で発見されたのは珠乃だけではなかった。古葉悠那――彼女もまた珠乃と肩を寄せ合うようにして意識を失っていたらしい。

 無論、学年の違う悠那とは会話もしたことがなく接点など皆無なのだから、何故あの夜二人で学校にいたのかは全く分からないのだが。

「警察からはうちらが犯人じゃないかなんて疑われたけど、珠乃のおかげで助かった。ありがとね」

 教室が酷く荒らされていた件について、初めは二人が犯人ではないかと疑われた。だが事情聴取された珠乃の家族やクラスメイト、さらには教師に至るまでが「あの子がそんなことをするはずがない」と珠乃を庇う証言をしてくれたのだ。

「うちは学校サボってて素行も悪いから、一人じゃきっと疑いを晴らせなかっただろうからさ」

「お礼を言われるようなことは何も……。ただ、その……授業をサボるのはあんまり良くないですよ」

 会話の間が苦しく、つい余計なことを口走ってしまう。いつの間にか弁当を食べる箸も止まっていた。

 すると悠那は顔をずいと近づけて睨んできた。先輩に対して大きなお世話だったろうか。

「珠乃。珠乃と初めて出会ったのはうちが体育館の裏で授業をサボってたせいなんだ。本当にその時のこと覚えてないの?」

「……うん、ごめんなさい」

 素直にそう告げると悠那は気まずそうに髪を掻く。聞くところによると彼女はここ数週間の夜間の記憶だけ・・が綺麗さっぱり消えているらしい。

 対する珠乃は入学してから約半年分の記憶――それも夜だけでなく、昼間の記憶もところどころ欠けているというのだからより深刻でたちが悪い。

「うちよりも珠乃のほうが苦しんでるんだね。無神経だった、ごめん……」

「いえ、抱えている悩みはきっと悠那さんも同じです。一緒に少しずつ思い出していきましょう?」

 そう言って空を見上げる。思い出す、とは言ったものの消えてしまった記憶が戻る時は来るのだろうか。そんな保証はどこにもないのに。

 その時ポケットに鳴動を感じた。スマホを取り出すと、杏果からメッセージが届いていることに気付いた。

 事件後、安否連絡のため校内での携帯電話の使用を一部認めるように校則が緩和されたと聞く。そのおかげか学校でスマホを使いたがる生徒からは『眠り姫事件』は何やら有難がられているらしい。

『シュノちゃん大丈夫? あの先輩にまた何かされたらすぐ言ってね!』

「心配いらないよ、古葉先輩は思ってるほど怖い人じゃないから」

『それなら良かった。早速だけど今日の帰り一緒にクレープ食べに行こう!』

 刹那、珠乃の脳裏に過ったのは生クリームといちごに溢れたクレープの姿であり、思わず生唾を飲んでしまう。

 その様子を見て隣の悠那はくすりと笑っていた。頬が緩んでしまっていたのか、恥ずかしさを隠すように首を振る。

「あの、悠那さん。よければ連絡先を交換しませんか?」

 そう告げると悠那は力なく笑う。

「ごめん、数週間前からずっとスマホの解除パターンが分からないんだ。前は普段持ち歩いてないなんて嘘ついたけど、こんなの格好悪くて言い出せなくてさ……」

 悠那のスマホには九つの点が表示されたロック画面が映し出されていた。

「最近変更したんですか?」

「いや、そんな事ないんだけど……でも使えなくなったのは記憶をなくした期間とだいたい同じだから、たぶん夜中に自分で変えてすっかり忘れちゃったんだろうね」

 悠那は苦笑いを見せた。

 だがその言葉に妙に引っ掛かりを覚える。例え夜中に設定を変えたとしても、一度でも昼間にスマホを使う機会があったならばパターンくらい覚えているはずだ。だとしたら、夜中の自分というのは――その時、思考を遮るように昼休み終わりの予鈴が鳴り響いた。

「あっ……私もう行かなきゃ! 悠那さんも午後の授業ちゃんと出てくださいね!」

「……うん。じゃ、またね」

 屋上の施錠は悠那に任せ、珠乃は急ぎ足に教室へ駆けて行った。


 怒涛の午後の授業が終わり、穏やかな放課後が訪れる。珠乃は担任の先生に職員室へ呼び出されていた。

 『眠り姫事件』の話というよりは、復学してすぐなので学習面や体調に問題はないかの確認が主な内容だった。聞くところによると珠乃が不在の間、学級委員長の仕事は杏果が代行してくれていたようだ。彼女には本当に感謝しかない。

 保険医の先生も同席して体調確認も行ったため思ったより時間がかかってしまい、解放される頃には日が暮れようとしていた。校内に人はまばらで、部活動の生徒がちらほらといる程度だった。

 メッセージによると杏果たちは校門のところで待ってくれているようだ。外は寒いだろうから急いで向かおう。

 昇降口へ向かっていく最中、他に誰もいない廊下に一人の少女が佇んでいた。壁にもたれかかり、誰かを待っているようだ。急いでいるので気にも留めないはずなのだが、何かが胸に引っ掛かって彼女の前でつい足を止めてしまう。

 少女と目が合う。彼女はにこりと柔らかく微笑み、珠乃はえもいわれぬ胸の高鳴りを覚えていた。

 確か隣のクラスの子だったか。端正な顔立ちにすらりと高い背丈、肩まで伸ばした薄水色の髪が美しい。

 何よりも、その手に嵌められた黒くしなやかな皮手袋が妙に色っぽく、細指を強調したシルエットに目を奪われてしまう。よく見れば手袋には彼女の名前が刻まれていた。

『K.Amane』――あまね、あまね……。

 その名を頭の中で転がす。彼女は一体誰だっただろう。また何か大切なことを忘れてしまっているのだろうか。

 絶対に思い出さなければならない大切な――。

 そこまで考えて珠乃は大きくかぶりを振った。いや、きっと気のせいだ。記憶を無くしてからというもの、考えすぎで何が正しいのか分からなくなっているのだ。それに本当に親しい間柄であれば、彼女の方からも声を掛けてくれるはずだろう。そうしないのだから、きっと顔見知り程度の関係に過ぎないはずだ。

 珠乃はぺこりと会釈して彼女の側をすり抜け、靴に履き替えて外へ飛び出した。

 走り去る姿が見えなくなるまで、少女はいつまでも珠乃の立ち去った方を眺めていた。

「賭けは貴方の負けですね、稲津城珠乃さん」

 憑き物が落ちた晴れやかな表情で、しかし寂しさを含んだ声で少女はぽつりと呟く。

 手袋に施された刻印を指でなぞり、あの日の晩を追憶していた。

「ですが、これで良かったのです。さようなら――私の愛しい人」

 沈んでいく夕陽に廊下は赤く染まり、最終下校を告げるチャイムが学校中に鳴り響く。

 廊下にただ一人残された少女は、闇に包まれ往く空を見つめていた。

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眷恋サヨスガラ スラチ《Circle:セントネーレ》 @shacreate-23

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