騎士になりたい少年

辻田煙

第1話

 人間には羽がある。


 形は様々だ。色も性質も人によって違う。羽は大きな力をもたらし、人を別のなにかに変える。


 廃墟となった学校の中、あるものに追いかけ回されている五十嵐いがらしりょうにもその羽はあった。ただし十全に使いこなせているとは言い難い。


 燎の背中に生えているのはオレンジ色の炎の羽。いまだ小さく手ほどのサイズしかない。彼は自分を追ってくるものに対し、弾丸のように飛ばすが、簡単に避けられてしまう。


 羽を避けたのは一匹の犬。ただし、サイズは人間ほどもあり、犬歯は口からはみ出している。その上、炎の舌がちらちらと漏れていた。燎という餌を見つけたせいか、ぼたぼたと硫黄のように臭い唾液を垂れ流しながら走っている。


 色は黒く、その双眸だけが赤い。薄暗い廃墟で燎を執拗に追い掛けていた。


 ――ヘルハウンド、すなわち地獄の猟犬。なぜか人の生死の境にいることが多い猛犬だ。しかし、その鋭い嗅覚を持つ鼻で一体なにを嗅いでいるのかは誰にも分かっていない。


 ヘルハンドに餌として認識されてしまい、おまけに碌な迎撃手段も持ち合わせていなかった燎は、町中を逃げ回って辿り着いたこの廃墟の校舎で反撃の機会を狙っていた。


 敵は一匹のみ。


 燎は自分を追い掛けているものがヘルハウンドだとは分かっていた。苦手なものが水なのも知っている。


 近くに海も川もあるのは承知していたが、咄嗟にこの廃墟に入ってしまったのが良くなかった。燎が羽の力で操れるのは火だけで、水に関してはなにもできない。


 装備は軽装そのもので、防御力など保険程度にしかなく、動きやすさを優先させたような格好だった。腕をわざと噛ませる方法もあるが、それごとなくなることは容易に想像できる。


 廃墟の校舎はどこもかしこも壊れており、下手に狭い場所に逃げ込めば、逃げる事すら出来なくなってしまう可能性があった。


 燎は冷静に考え続けることを自分に言い聞かせながら階段を上って行き、勢いよく扉を開ける。


 すると、目の前に広がったのは青空と柵もなにもない屋根だった。遠くには海が見え、吹きさらしの潮風が頬を撫でる。


 一瞬、頭が真っ白になったが、慌てて出てきた扉を閉じた。やや不安定な屋根の上で息を殺し、向こう側の様子を窺う。


 一階分くらいは距離を空けていたが、ここに辿り着かないとは思えなかった。


 ヘルハウンドには、視界よりもなによりも鋭い嗅覚がある。匂いを誤魔化せるようなものを何も持っていない今は、逃げ切るというのが難しい。


 冷静な頭ではそのことは分かっているが、だからといって打開策も思い浮かばない。


 とにかく倒さなければ、どこまでも追ってくる。不幸中の幸いというべきか敵は一匹だけで、それさえどうにかすればいいが、単体でさえ脅威には違いない。


 今、身に着けている物で最も硬いのは靴だった。底には鋼も入っているブーツ。


 ドア越しに聞こえてくる唸り声が段々と大きくなっていく。


 燎は思い付きで急いで靴を脱ぎ、手に嵌めた。


 唸り声が迫る。


 燎は扉から離れ、睨み付けた。片手にブーツを付けているなんとも間抜けな格好だが、気にしている余裕はない。


 吹きさらしの風は身体を冷やし、固くしていく。


 音はする。しかし、まだ出てこない。


 まだか、と思ったその瞬間――扉を破り、ヘルハウンドが飛び出してきた。


 一目散に燎を目指してくるその猟犬は、彼の喉笛を掻き切ろうと飛び付いてくる。


 燎はブーツをつけた手を差し出し、ガブリと噛み付かれた。勢いそのままに後ろに倒れ込む。


 爛々と輝いている目が真っ直ぐに燎を捉え、威嚇するように唸り、噛み付く力が増していく。おまけに口から漏れ出ている炎で顔が焼けそうだった。


「このっ……」


 どこまでも際限なく強まっていく力を感じながら、背中に意識を集中する。


 背中から薄く水平に段々と伸びていくオレンジ色の羽。現状の最大火力。一枚の炎の羽のみにし、威力を高める。大きさは目の前の猟犬ほどもない。せいぜい腕くらいが限度。


 それでも他に道はない。


 溜めて、溜めて――一気に放つ。


 高火力かつスピードのある羽は一直線にヘルハウンドに向かい、突き刺さった。肉の焼け焦げる臭いとともに呻き声が上がるが、口は離れない。赤い血がぽたぽたと降りかかる。


 死んでくれ、と願いながら燎は睨めっこを続けた。


 だが、噛む力が弱まることはない。それどころか、怒りに流されるようにさらに増した。


 いかに靴が硬いとはいえ限度があったのか、内部が圧迫され始めている。


 それに気付いた燎は、必死に羽を刺した部分を殴りつけた。


 しかし、ヘルハウンドは離れることなく、それどころか狂ったように暴れ始める。


 打開策がない。このままでは喰い殺される。焦りで身体全体が熱くなるが、暴れているバケモノに対し、上手く殴る事すら出来ない。


 段々と噛まれている腕が顔に近付き、ヘルハウンドの眼光が大きくなる。


 まずい、と思ったその時――ヘルハウンドが横に吹き飛んだ。

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