第五章:愛という軌道
ディープスターは奇跡的に海面へと帰還を果たした。アークライトのAIが計算した浮上プランは、17.3%という低い確率を見事に的中させたのだ。ハッチが開かれ朝日が差し込んできた時、そこに立っていたのは涙でぐしゃぐしゃの顔のトオルだった。
彼は何も言わずにサクラを強く強く抱きしめた。サクラもまた彼の胸に顔をうずめた。彼の心臓の鼓動が、確かに生きている証だった。
「ありがとう、サクラさん。僕のわがままに付き合ってくれて。父さんの声、ちゃんと聞こえたよ」
「ううん。私も聞こえた。星の声が。そして」
サクラは海の向こうの空を見つめた。
「私も道を見つけた。本当の家への帰り方を」
サクラは久しぶりに空を見上げた。そこには彼女がずっと背を向けてきたどこまでも青く美しい宇宙が広がっていた。
「トオルくん。私、もう一度目指してみようと思う。あの場所に。今度こそ、本当の意味で帰るために」
それは彼女が自分の長い過去と決別し、再び夢へと歩き出すことを決意した瞬間だった。アークライトが教えてくれたのだ。帰還は決して諦めてはいけない、最も重要な使命なのだと。トオルは何も言わずただ彼女の冷たくなった手を自分の手で温めるように強く握りしめた。
その瞬間、二人の間に言葉にならない何かが流れた。それは恋と呼ぶには繊細すぎて、友情と呼ぶには深すぎる感情だった。
◆
帰港後の数週間は慌ただしく過ぎた。アークライトのAIユニットは完全に機能を回復し、その中に保存されていた二十年間の観測データは海洋学界に大きな衝撃を与えた。
深海の生態系に関する貴重な長期データ。海底地殻変動の予測モデル。気候変動が深海環境に与える影響。これらのデータは従来の海洋学の常識を覆すものだった。
特に注目されたのは、宇宙からの長期観測により明らかになった海洋循環パターンの変化だった。二十年前と現在では、明らかに大洋の流れが変化している。これは地球温暖化が海洋全体に与える影響の決定的な証拠だった。
しかし最も注目を集めたのは、AIが示した「感情的な反応」だった。トオルはアークライトとの対話記録を基に論文を書き上げ、それは人工知能学会で大きな話題となった。
「AIが本当に感情を持ったのかどうかはわからない」
トオルは記者会見でそう語った。
「でも確実に言えるのは、人間の愛情や思いがプログラムを通じて別の形で表現される可能性があるということです。父が僕に残してくれたのは特別なメッセージではありませんでした。でもそれ以上に大切なもの――愛とは何かを教えてくれるAIという、奇跡でした」
一方サクラは、宇宙開発機構への復帰申請を提出していた。もちろん四十歳を過ぎた彼女が宇宙飛行士になることは現実的ではない。しかし彼女には新しい道があった。
「スペースデブリ除去プロジェクト?」
面接官の前で、サクラは自分の提案を説明した。
「現在、地球周回軌道上には百万個以上のスペースデブリが存在し、その数は年々増加しています。これらは宇宙開発の最大の脅威の一つです。私は深海でのサルベージ技術と宇宙技術を組み合わせた新しいデブリ除去システムを提案します」
彼女のアイデアは革新的だった。深海作業で培った遠隔操作技術、極限環境での作業ノウハウ、そして何より「宇宙のゴミ」を扱い続けてきた経験。これらすべてが宇宙空間でのデブリ除去に活用できる。
現在の宇宙空間には、直径10センチメートル以上のデブリが約34,000個、1センチメートル以上では約100万個存在すると推定されている。これらのデブリは秒速17,500メートルという猛烈なスピードで地球を周回しており、わずか1センチメートルの破片でも人工衛星を破壊する威力を持つ。
「また、このプロジェクトにはAI技術者として月代トオル氏の参加を要請したいと思います。彼のAI技術と私の実務経験を組み合わせれば、より効率的で安全なデブリ除去が可能になります」
面接官たちは興味深そうに彼女の提案を聞いていた。
「しかし帆村さん、あなたは一度宇宙飛行士選抜に失敗している。なぜ今また宇宙に関わろうとするのですか?」
「失敗だったとは思いません」
サクラは毅然として答えた。
「私は確かに宇宙に行けませんでした。でもその経験があったからこそ、深海の技術を身につけることができた。そして今、その技術が宇宙の役に立てる。これは偶然ではありません。必然だったのです」
彼女は続けた。
「深海で私が学んだのは、諦めることではありません。帰還する方法を見つけることです。二十年前に落ちた衛星も、今回のアークライトも、みんな家に帰りたがっていた。私もまた、本来いるべき場所に帰る時が来たのです。それが宇宙なのです」
彼女の目に、かつての輝きが戻っていた。それは単なる復活ではない。深海という迂回路を経た、より深い理解に基づいた帰還だった。
◆
その夜、サクラとトオルは久しぶりに二人きりで会った。港町の小さなレストランで、窓から見える海を眺めながら。
「プロジェクトの件、ありがとうございます」
トオルが照れたように言った。
「お礼を言うのは私よ。あなたがいなかったら、私はずっと過去に囚われたままだった」
サクラは彼を見つめた。月明かりに照らされた彼の横顔が、なぜか今夜は特別に魅力的に見えた。
「サクラさん」
「何?」
「その、僕は」
トオルは言いかけて口を閉じた。
沈黙。
言葉にできない想いが二人の間を漂っている。
「私たち、いいチームだと思わない?」
サクラが微笑んで言った。
「はい。最高のチームです」
トオルも微笑み返した。
恋という言葉はまだ二人の間では早すぎた。
でも確実に、何かが始まっていた。
宇宙と深海を結ぶ新しい絆が。
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