第十五章 記憶の庭師の真実
愛樹が五歳になった頃、僕は重要な発見をした。
それは、僕自身の記憶についての発見だった。
ある夜、僕は古いファイルを整理していた。
田中医師から預かった、僕の患者記録。
その中に、見慣れない記録があった。
僕の筆跡で書かれているのに、僕の記憶にない記録。
『治療記録 患者:真田凛太郎』
『症状:解離性同一性障害の疑い』
『備考:患者は自分が医師であると信じているが、実際は重度の記憶障害患者である』
僕の手が震えた。
『患者は妻の死のショックから、医師という別人格を作り出した』
『この人格は「記憶の庭師」と自称し、他の患者を治療していると妄想している』
『しかし、実際に治療効果が認められるため、治療の一環として継続を許可』
僕は愕然とした。
僕は患者だった。
記憶障害の患者が作り出した、別人格だった。
「そんな……」
僕は慌てて田中医師に電話をかけた。
「田中先生、僕の患者記録について聞きたいことが……」
「ああ、凛太郎。実は、話したいことがあったんだ」
田中医師の声は重かった。
「君はもう、真実を知る準備ができているだろう」
翌日、僕は田中医師の前に座っていた。
「凛太郎、君は五年前から僕の患者だった」
「五年前……」
「妻を亡くしたショックで、君は現実を受け入れることができなくなった」
田中医師は静かに説明した。
「君は医師という別人格を作り出し、他の患者を治療することで、自分自身を癒そうとしていたんだ」
「では、美咲さんは……」
「美咲も実在する。ただし、彼女の記憶障害と君の関係は、君が思っているものとは違う」
僕の世界が崩れていく感覚だった。
「美咲の記憶障害は偶然だった。しかし、君が彼女を治療する過程で、不思議なことが起こった」
「不思議なこと?」
「君の治療によって、本当に美咲の記憶が回復したんだ」
田中医師は続けた。
「君は患者でありながら、同時に優秀な治療者でもあった。君の愛への深い理解が、美咲を癒したんだ」
「でも、僕は……」
「君はもう、患者ではない」
田中医師は微笑んだ。
「君は本当の記憶の庭師になったんだ」
その夜、僕は奈央子にすべてを話した。
「あなたが患者だったなんて……」
奈央子は驚いていたが、表情は穏やかだった。
「でも、それは重要なことではありません」
「重要ではない?」
「はい。あなたが多くの人を救ったことは事実です。愛樹を愛していることも事実です」
奈央子は僕の手を取った。
「記憶がどうであれ、愛は本物です」
僕は奈央子を抱きしめた。
彼女の愛も、愛樹への愛も、すべて本物だった。
### 最終章 愛は与えることで増える
それから十年が経った。
愛樹は十五歳になり、美咲の娘の花音と共に高校生になっていた。
僕は今でも記憶の庭師として働いている。
正式な資格を取り直し、本当の医師として。
診察室の机の上には、恵の写真と家族の写真が並んで置かれている。
どちらも大切な愛の記録。
「先生」
ある日、愛樹が僕の診察室を訪れた。
「学校で作文を書くことになったんだ。テーマは『家族の愛』」
「そうか。何か手伝えることはあるかい?」
「うん。お母さんのことと、恵おばさんのことを教えて」
恵おばさん。
愛樹は恵のことを、そう呼んでいた。僕が恵の話をしてきたから。
「どちらも、とても素晴らしい人だった」
僕は愛樹に話した。
「そして、どちらからも大切なことを学んだ」
「何を?」
「愛は与えることで増える、ということを」
愛樹は首を傾げた。
「どういう意味?」
「愛は取り合うものじゃない。分け合うものなんだ」
僕は説明した。
「恵おばさんの愛も、お母さんの愛も、君への愛も、すべて繋がっている」
「繋がってる?」
「ああ。恵おばさんが僕に愛を教えてくれた。その愛で僕はお母さんを愛することができた。お母さんと僕の愛で君が生まれた」
愛樹の瞳が輝いた。
「愛のリレーみたいだね」
「その通りだ。愛のリレー」
「じゃあ、僕も将来、誰かに愛をつないでいくんだね」
「ああ。君なら、きっと素晴らしい愛を分けてくれるだろう」
その夕方、僕は一人で病院の屋上にいた。
夕陽が美しく空を染めている。
「恵」
僕は空に向かって呟いた。
「君が教えてくれた愛の真理を、僕は理解したよ」
風が頬を撫でた。
「愛は与えることで増える。君の愛は美咲を通して健太に渡り、僕を通して奈央子に渡り、愛樹に受け継がれた」
雲の隙間から、一筋の光が差し込んだ。
「君の愛は、決して失われていない。形を変えて、たくさんの人の心で生き続けている」
その時、携帯電話が鳴った。
奈央子からだった。
「お疲れさま。夕食の準備ができたわよ」
「今帰るよ」
「愛樹が花音ちゃんと一緒に夕食を作ってくれたの。とても美味しそうよ」
僕は微笑んだ。
愛は確実に次の世代に受け継がれている。
家に帰ると、愛樹と花音が嬉しそうに出迎えてくれた。
「お父さん、今日の作文、すごく良いのが書けたよ」
愛樹が誇らしげに言った。
「題名は『愛のリレー』だ」
「読ませてもらえるかい?」
「もちろん!」
愛樹の作文には、こう書かれていた。
『愛のリレー』
僕の家族には、不思議な愛の物語があります。
僕の父は、恵おばさんという人を愛していました。
でも、恵おばさんは天国に行ってしまいました。
そのとき、恵おばさんの愛は消えませんでした。
父の心に残って、今度は母を愛する力になりました。
父と母の愛で、僕が生まれました。
僕の中には、恵おばさんの愛も、父の愛も、母の愛も入っています。
愛はリレーのバトンみたいです。
一人から一人へ、ずっと受け継がれていきます。
そして、受け継がれるたびに、もっと大きくなっていきます。
父が教えてくれました。
「愛は与えることで増える」って。
僕も将来、この愛のバトンを誰かに渡します。
そうすれば、恵おばさんの愛も、ずっとずっと続いていきます。
愛は永遠です。
なぜなら、愛は分け合うものだから。
僕は愛樹の作文を読み終えて、深く感動した。
十五歳の少年が、愛の本質を完璧に理解している。
「素晴らしい作文だ」
僕は愛樹の頭を撫でた。
「恵おばさんも、きっと喜んでいるよ」
その夜、家族四人で夕食を囲みながら、僕は心から幸せを感じていた。
恵の愛が、美咲を通して健太に受け継がれ、花音に注がれている。
恵の愛が、僕を通して奈央子に受け継がれ、愛樹に注がれている。
そして、愛樹と花音が成長したとき、彼らもまた新しい愛を育てていく。
愛は与えることで増える。
愛は分け合うことで永遠になる。
記憶は時と共に薄れることがある。
でも、愛は決して薄れない。
形を変えて、人から人へと受け継がれていく。
僕は記憶の庭師として、これからも多くの人の心の庭で愛を育てていこう。
失われた愛を見つけ出し、新しい愛を育て、愛の連鎖を繋いでいこう。
なぜなら、愛こそが人生の最も美しい記憶だから。
愛こそが、生きる意味だから。
愛は与えることで増える——。
恵が教えてくれたその真理を、僕はこれからも多くの人に伝えていこう。
愛の庭師として。
記憶の庭師として。
そして、一人の人間として。
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