第十一章 愛の継承
結婚から一年が経った頃、僕のもとに意外な患者が現れた。
田中医師だった。
「田中先生、どうなさったのですか?」
僕は驚いて尋ねた。
「実は、最近記憶に混乱が生じているんだ」
田中医師は苦笑いを浮かべた。
「年のせいかもしれないが、妻の記憶があいまいになってきている」
田中医師の妻は、五年前に亡くなっていた。
「どのような混乱ですか?」
「妻の顔が思い出せなくなったり、一緒に過ごした思い出が曖昧になったり……」
僕は田中医師を見つめた。
この人は、僕が患者だった時に支えてくれた恩人だった。
「先生、僕に治療をお任せください」
「君に? しかし……」
「僕も、記憶の専門医です。そして、先生には大きな恩があります」
田中医師は少し考えてから頷いた。
「では、お願いしよう」
田中医師の治療を通して、僕は改めて愛と記憶の関係について考えさせられた。
記憶は時と共に薄れていく。
だが、愛は薄れない。形を変えて、心の奥で生き続ける。
「田中先生」
治療の最後の日に、僕は言った。
「奥様の顔は思い出せなくても、奥様への愛は失われていません」
「そうだろうか……」
「はい。先生が患者を思いやる気持ち、先生が僕を支えてくれた優しさ、すべて奥様から学んだ愛の表れです」
田中医師の目に涙が浮かんだ。
「そうか……妻の愛は、私の中で生き続けているのか」
「ええ。そして、先生を通して多くの患者に分け与えられています」
「愛は与えることで増える、か」
田中医師は微笑んだ。
「君に教わることになるとは思わなかったよ」
その夜、僕は奈央子と一緒に夕食を取りながら話した。
「今日、田中先生の治療が終わったんだ」
「そうなの。どうだった?」
「改めて思ったよ。愛は本当に不滅なんだって」
奈央子は僕を見つめた。
「あなたの中の恵さんへの愛も?」
「ああ。恵への愛は消えない。でも、それが君への愛を妨げることもない」
奈央子は微笑んだ。
「私も、同じことを感じているの」
「同じこと?」
「私の中には、亡くなった母への愛がある。でも、それがあなたへの愛を邪魔することはない。むしろ、より深く愛することができる」
僕は奈央子の手を取った。
「君と結婚して良かった」
「私も」
その時、奈央子が突然立ち上がった。
「あなた、実は話があるの」
「何だい?」
「私……妊娠したみたい」
僕の心臓が跳ねた。
「本当かい?」
「はい。まだ病院で確認していないけれど……」
僕は奈央子を抱きしめた。
新しい命。新しい愛の形。
「恵も、きっと喜んでくれるだろうな」
「きっとそうね」
その夜、僕は恵の写真に報告した。
「恵、僕たちに子供ができるかもしれない」
「君が教えてくれた愛を、その子にも伝えていくよ」
写真の中の恵が、いつもより嬉しそうに微笑んでいるように見えた。
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