第4話 海

 家に帰ると、有無を言わさず、水着に着替えさせられた。


「水着着終わったら、上、Tシャツな。下もなんか履くように。水着のまま出歩くの禁止だから」


「了解」


 寝室に使っている客間で着替えていれば、すっかり着替え終えた虎太郎が、それだけ言い残し、他に持っていくものがあるからと、部屋を出て行った。

 いったい、何が起こるのか。とりあえず、海に行くことだけは分かる。


 釣り、なのか?


 でも釣りにしては、水着にわざわざ着替えるのも。

 海水浴は時々していた。採取が一段落したあと、クールダウンも兼ねて泳ぐ事はあって。それとは、違うのだろうか。

 とにかく、言われた通り、上からTシャツを羽織って、下はハーフパンツを履き終えた頃、ザックを背負った虎太郎が現れた。


「うん、準備完了な。行こ!」


「あ、はいっ…」


 手を引かれ、急かされるように家を飛び出す。背負うザックは軽そうで。いつものように、ガチャガチャ音もしない。

 そうしてバスに乗って港に到着すると、虎太郎は待っていたおばちゃんに手を振る。その背後には一艘の船があった。漁船だ。

 白塗りの船体に黒字で『勝太丸』とある。後で知ったが、船長の息子の名前らしい。


「今日はありがとうございます! ──これ、そうですか?」


「そうだよー。小さい漁船だから、気をつけてね?」


「はい!」


 そう言って、元気よく返事をした。

 それから、船の舳先にいた六十代後半くらいの男性に近寄って、何事か話しかけている。にこにこと笑い、楽しそうだ。どうやら、知り合いらしい。

 薫は、話を終えてこちらに戻ってきた虎太郎の袖をひく。


「なんですか? 漁船、乗るんですか?」


 やはり釣りだろうかと思えば。


「そう。漁船に乗って──ジャジャーン! なんとイルカを見に行く! そして、運がよければ一緒に泳ぐ!」


「…イルカ、一緒に泳げるんですか?」


「もちろん! けど、泳がせてもらう、が正しいな。あと、その前に浅瀬で泳ぎの練習はするぞ? 薫、シュノーケル、したことは?」


「あ…。いや。ちゃんとやったことは…」


 子どもの頃、遊びでつけた記憶があるくらいだ。いつか、ダイビングの免許が欲しいとはぼんやり思っていたけれど、実現できてはいない。


「じゃ、さっそく練習! 練習もしないで突然、海に出ると危ないからな。下手すると溺れるぞ? 出発はそれからだ」


「え? 練習?」


 虎太郎は、とまどう薫の腕を掴むと傍の東屋に行き、服を脱ぎだす。薫も下のハーフパンツだけを脱いだ。

 ラッシュガードも持ってきていないため、素肌だと日焼けしてしまう。流石にこれ以上、焼けては、帰ってから蒼木にどやされるだろう。

 薫が脱ぎ終わると、虎太郎はザックからフィンとシュノーケル、マスクを二組取り出した。

 そうして薫を振り返り。


「予備で持って来てるんだ。丁度、良かった。で、さっそく浅瀬で使い方の練習な? まずはフィンの履き方と、マスクのつけ方からだ」


 そう言って、二人分のマスク、シュノーケル、フィンを抱え砂浜に来ると、指導を開始した。まるで教官のようだ。

 虎太郎はまず、マスクを手渡すと。


「取り敢えず、つけてみて。髪は巻き込まないように──そうそう。あまりきつくし過ぎないようにな。水圧で押し付けられることも考えて、適度にな? 緩くても外れるから、初めのうちは、入りながら調節すればいい。で、フィンは、こう、かかとをひっくり返して──そうそう。で履いて。で、歩き方は正面じゃなく、横かバックで──うん。そう!」


 もう、言われるがままだ。突然はじまった虎太郎の講義に、薫は必死でついていく。

 マスクのレンズ面には曇り止めがつけられている。つけると少しきついくらい。もう少し、緩くてもいいのかもしれないが、今はこれで行こうと思った。

 

「マスクはあんまりきつくし過ぎると、水中でカマキリみたいになるからな?」


「カマキリ?」


「そ。水圧でマスクが押されて、目がこうきゅっとつり上がって細くなっちゃう。それで水中写真撮られると、ちょっと後で恥ずかしい…。仮にもアイドルなら、それは嫌だろう?」


 仮にも──ではないが、誰にも見られないとは言え、確かにアイドルを職業としている者が、そんな姿はさらせない。


「今はこれくらいで?」


「──そうだな。うん、とりあえずこれくらいで。じゃ、俺の手につかまって顔つけてみて。それでバタ足な?」


「うん…」


 薫は虎太郎の後に続いて、波打ち際から海水に入る。水はヒンヤリとした。けれど日差しが強いせいで、そこまで冷たさを感じない。


「バタ足もばちゃばちゃ水面を叩かないように。水中でゆっくり大きく、かくような気持で。さ、いってみよう!」


「……」


 すっかり、先生だ。

 薫は言われた通り、伸ばされた虎太郎の手につかまり、シュノーケルを咥えると、足を伸ばし顔をつけバタ足をする。

 水中には岩があり、砂があり。海藻や小魚が泳ぐ。透明度はいいほうだと虎太郎が言っていた。


「な? 楽しいだろ?」


 薫は頷く。シュノーケルを咥えているお陰で返事はできないのだ。

 もう少し見たくて、顔を突っ込んだ所で、突然、塩辛い海水がシュノーケルから入り込んできた。


「っ?!」


 若干飲み込んだ上に、息ができなくなる。

 慌ててそこに立ち上がった。立てば、ひざ上くらいの深さだ。手を放した虎太郎は笑っている。

 

「そう。シュノーケル、水がそうやって入って来るだろ? そういう時は──」


 虎太郎は海水を口に含む。それから俺を見た後、それをまた吐き出した。


「これ、海水飲んでないだろ? それと同じだ。口に入ってきても、飲まない。で、息を勢いよく、吐く──で、海水がシュノーケルから出ていくんだ。ようはクジラとかのイラストと一緒だよ。よく、頭から水はいてる絵があるだろ? あれ、本当は鼻なんだけど、とにかく、イメージはあんな感じ。海水が入ってきたら、飲まずに喉で止めて、残ってる息を強く吐く。それで吹き飛ばす。わざと海水いれてやってみよう!」


「…なんだか、すっごく楽しそうですね?」


「うん! 俺、運動音痴だけど、海水の中だとそれ関係ないだろ? これだけは薫に勝ててる気がする!」


 だからか。はりきってるのは。


 意気揚々としている。内心、苦笑をもらしつつ、先ほどのようにワザと海水をシュノーケルに入れて、吹き飛ばす練習をした。

 幾度か繰り返すうちに、だんだんとコツを掴み、海水も飲み込まず、息も吐き出せるようになった。確かに、クジラが水を吐き出すのと同じだ。


「よっし。じゃ早速行きますか?」


 それが出航の合図となった。


 イルカは島の周辺に住んでいるため、そこまで沖にでなくてもいい。顔をあげれば、島が見えた。


「波の間に、背びれが見えるんだ。それで、イルカを探す。よーく見てないと見逃すし、波と間違えやすいから」


「ふーん…。背びれ、か…」


 サングラスをした目で海面を見渡すが、確かに波と背びれとは判別がつきにくい。きっと見慣れればすぐにわかるのだろうけれど。

 虎太郎もサングラスをかけていた。日に焼けた虎太郎にはよく似合っている。羽織ったシャツが風にはためき、潮風が髪をなびかせた。

 いつもは年齢以上に幼く見えるのに、ふとした瞬間、大人になる。

 

 かっこいいな。


 素直にそう思った。


「あ! いた! ほら──」


「どこ、どこ」


 虎太郎の傍に立って、指をさす方向を見た。

 

「ほら、あそこ──」


 丁度、船首から二時の方向に、浮かんでは沈む背びれが見えた。ゆっくり移動している様で。

 興奮した虎太郎の頬が、薫の屈んだ顔に寄せられる。触れんばかりに近いのに気づいて、ドキリとした。


「虎太郎! これなら見られると思うぞ! 入るか? 薫は浮かんで上から見るだけだけど」


「もちろん!」


「よし。じゃ、船長よろしくお願いします!」


「おう!」


 そう言うと船長は、船を大きく迂回させイルカの進む方向へと転じた。その間に虎太郎は船の横のへりに手をかけ。


「エンジンきったら、入るから。慣れないうちは波が怖いと思う。とにかく力を抜いて浮かぶこと。そうしていれば、絶対沈まないから。シュノーケルに水が入ったらさっきの要領で吹き飛ばす。俺がすぐ横にいるから」


「わかった」


 それで、マスクをつけて、フィンを履いて。

 虎太郎と同じようにヘリに座る。薫にはライフジャケットが装着されていた。慣れない海では溺れる可能性が十分あるからだ。


「上がるときは梯子、だしてもらえるから。船にはエンジン切ったら近づくように」


「了解」


「よし」


「虎太郎!」


 船長が声をかけ、エンジンが切られる。そのすぐ後に、


「じゃ、行くぞ!」


 そう言って、虎太郎は海に飛び込んだ。──とは言っても、水泳のように頭からドボンではない。ヘリから降りてそっと入った。同じようにそれにつづく。

 海水の中は泡で視界が効かなかった。けれど、それも暫くしてなくなる。

 ごぽごぽと聞きなれない海の音。マスクの調子はよさそうだった。シュノーケルに入った海水も軽く吹き飛ばす。

 と、先に入って待っていた虎太郎が、手首を掴んで軽く引いた。指で右側を差ししめす。どうやらそちらにいるらしい。

 海面の下に、砂地が見えた。

 大きな岩もいくつか。その間をすべるようにゆっくりとイルカの群れが進んでいた。

 薫たちがいることで潜ったらしい。それでも速度はゆっくりだった。

 まっすぐ進むものもいれば、互いじゃれあうような個体もいる。その身体は光を受けて白く光ったり、陰に入れば青みを増した。


 イルカだ…。


 水族館で見るのとは違う、野生のイルカだ。

 野生と言う事は、人の餌付けなどされていない。野生のトラ、ライオン、クマと一緒だ。見た目が可愛いからと言って、安易に近づいてはいけない。

 それに、ここは彼らの領域で。あくまで、お邪魔している。その気持ちが大切だと、シュノーケルレッスン後に、虎太郎が教えてくれた。


「イルカが来ても、手を出さないように。俺たちだって、知らない人が手を伸ばして触ろうとしてくれば、驚くだろう? それと一緒で、イルカも驚く。だから手は出さないこと。横や背中に回すといい。で、ただ、眺める。──もしかしたら、俺は潜るかもしれないけど…」


「潜る?」


「うん。ちょっとだけ、潜って誘うかも。コツを掴めば皆潜れるけどさ。今回は練習してないし、やめとこうな?」


「わかった…」


 いいな。潜るって。


 その時はそう思ったが。

 いったん、海水にはいると、かなり水圧を感じた。それに、流れもある。しかも、イルカは泳いでくるのだ。そこに向かって潜るのは──かなり困難に思えた。

 その、ゆっくり泳ぐイルカの群れの内、いくつかが上に上がってきた。呼吸する為だ。

 それを見た虎太郎が意を決したように、くっとお辞儀をするように身体を折り曲げると。


 あ──。


 ぐんと、水中にもぐった。

 そうして、呼吸を終えたイルカが潜るのに合わせてその横を泳ぐ。

 もちろん、手は出さない。イルカも危険を感じないのか、動揺もせず、ただ一緒に潜っていった。

 が、虎太郎も息が続かないため、途中で旋回して戻る。と、中の一頭があとを追うようについてきた。同じように、プシュッと海面で息を吐き、また潜る。


 すげー。


 虎太郎はもう一度潜ると、くると一回転して見せた。イルカも旋回して見せる。再び、虎太郎が息継ぎに戻ると、今度はすっと泳ぎ去っていった。気まぐれなのだ。

 イルカとの遊泳を終えて、虎太郎は水面に顔を出す。


「ふは! あー苦しかった…」


 シュノーケルを口から外すと、笑って見せる。


 なんか、尊敬だな。


「さ、戻ろう!」


 船長が薫たちの近くまで船を近づけ、そこでエンジンを切ったのを合図に、船へと戻った。

 その後も、数回、群れに遭うことができた。

 薫は相変わらず、海面に浮かんでみるだけだったが、それでも十分楽しめる。その間、虎太郎はなんどか潜ってイルカの注意をひいていた。

 薫に見せるため、なんとか、引き留めようと必死だったらしい。


「なかなか、ハードですね?」


 一段落し、休憩となる。

 港に戻る船の中、椅子の代わりに置かれたケースに腰かけると、ポールを掴み立つ虎太郎を見上げる。


「うん。相手が野生だから、待ってくれないしな。機会があったら一緒に泳ぐ! …でも、疲れたら無理すんなよ? 危ないからな?」


「了解。てか、浮かんでただけなのに、結構疲れたかも…」


「海で泳ぐことなんて、ほとんどないからなぁ。波もあるし、潮の流れもあるし。外洋にでると、もっと綺麗だぞ? 底が見えないからさ。青くて深いんだ」


「それ…。ちょっと怖いかも…」


「そうか? まあ、底が見えないってのは、怖いのかな? 俺は綺麗だなーと思うけどな」


 そう言って笑う。


 それまで、ずっと陸地の岩ばかりに向き合っていた虎太郎が、こうして海で悠々と潜る姿は新鮮な驚きだった。


「どうして、そんなに潜れるんです?」


「ほら、研究の為に、いろいろな島をまわるだろ? そうすると、夏なんかは暑いし、やっぱり泳ぎたくなるし。で、地元のひとに教わって泳ぐうちにだんだんと。…あとは、教えてくれた奴がいてさ」


「へぇ。その人、ダイバーか何か?」


「…いや、大学時代の先輩で。今はアラスカで海洋学の研究員してる…」


 言いながら、視線が床に落とされ、表情が硬くなる。それで、何かあったのかと察した。


「どうか、したんですか?」


「あ、え? いや。ごめんごめん、なんでもない」


 虎太郎はそう言って、無理やり笑顔を作った。


「その人に教わって、潜れるようになったんですか?」


「うん、そう。ダイバーの免許ももってたし、俺よりずっと泳げたし潜れたよ。俺と違って海ばっかりで。岩ばっかりの俺とは、合わないと思ってたんだけど…」


 そう言って語る横顔はやはりどこか愁いを帯びている様で。なにか、はあったのだろうが、本人が話さない限り、これ以上詮索はできなかった。


「そっか…。良かったですね? 潜れるようになって」


「うん。だな?」


 そう言って笑った虎太郎は、やはりどこか寂しげだった。


 ちなみにお昼ご飯は船の上でおにぎりを食べた。これはおばちゃんが握ってくれたものだ。

 アルミホイルに包まれたそれは、格別に美味しく。中の具は、梅と鮭と佃煮昆布。塩味も丁度良く、黙々と食べた。

 午後はすっかりイルカウォッチングで終わり、船長にお礼を言うと船を降りる。別れ際、お手製のアジやタコの干物をもらい、ありがたく帰途についた。

 その足でバスに乗って家まで帰る。


「ね。これってただじゃないですよね?」


 バスに揺られながら尋ねれば。


「もちろん。でも、もう払ってあるから。気にしなくて大丈夫」


「俺も払いますよ」


 そう言って財布を探り出せば。


「これは手伝ってくれたお礼だって。本当は賃金払わなきゃいけない所だけど。高校生ってバイトは禁止だろ? それに、兼業になっちゃうし。とにかく、気にしない! お兄さんに任せておきなさい」


 ふんと、胸を張って見せる虎太郎に、思わず笑いだす。


「兼業って…。確かに、もう働いているんで、そうなりますけど。確かに、副業はだめだろうな」


 アルバイトも禁止なのだ。副業などありえなかった。


「だろ? もうじき、薫、帰るし。俺ができるのはこれくらいだからな…」


 そうだ。これもあと数日。

 長かった休養もこれでお終いだった。夏休み、と伝えてはあるが、実際は病気療養だったのだ。虎太郎といるうちに、すっかりそのことを忘れていた。毎日、笑ってばかりで。楽しくて。


 終わりか…。


 それを思うと、再び心が沈む。ここへ来る前の自分に引き戻される気がしたが。

 その肩に、ポンと手が置かれた。虎太郎がこちらを見ている。


「休み終わったって、友達は終わんないだろ? ここだってなくならない。俺はここをフィールドワークにしてる。また、休みが取れたらくればいい。な?」


「…ん」


「それに、あっちにも一旦帰るし。大学あるからな? 会おうと思えば会えるだろ?」


「ですね…」


 と、虎太郎は薫の頭をくしゃりと撫でると。


「っまえ。夏休みが終わる小学生みたいだぞ? 休みはなんとでもできる。…あんま、無理はすんな? 薫」


 まるで、俺がここへ来た理由を知っているみたいだ。


 そんなことはないのだけれど。

 

「…うん。また、絶対あっちでも会おう。約束です」


「うん! いつでも連絡くれ。返事はちゃんと返すからな?」


「ありがとうございます…」


「なんだか、しおらしいの、似合わないって。ぎりぎりまで手伝ってもらうからな? 明日もよろしく!」


 そう言ってぽんぽんと頭を叩いてきた虎太郎の肩に、思わず額をつけて顔を埋めていた。


「薫…?」


 終わりたくない。…別れたくない。

 

 避けられない事だと分かっても、そう強く思った。


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