第10話 彼の素顔

 カフェでの出来事から、まだ二時間も経っていない。

 なのに、心臓はずっと早鐘を打ち続けていた。


 ――本当に、彼は危ない人なの?

 nonameの言葉が耳に残って離れない。



---


 駅を出て帰ろうとしたとき、背後から声をかけられた。

 「……高梨さん」

 振り返ると、佐伯さんが立っていた。

 街灯に照らされた横顔は、やけに柔らかい。


 「このあと、少しだけ時間ある?」

 「え……」

 「うち、すぐ近くだから。よかったら寄っていかない?」


 不意打ちの誘いに、足がすくむ。

 断れば怪しまれる――そんな考えが、なぜか頭をよぎった。



---


 彼の部屋は想像よりも落ち着いた雰囲気だった。

 ダークブラウンの家具、整えられた本棚、ほのかに香るコーヒーの匂い。

 「コート、そこにかけて。寒かったでしょ」

 差し出されたマグカップから湯気が立ちのぼる。


 優しい所作が、余計に私を混乱させる。

 ――この人は、本当にあの女性が言うような人なの?



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 「今日は、ちょっと元気なかったみたいだけど」

 彼がソファに腰を下ろし、私の顔を覗き込む。

 「何かあった?」

 「……別に」

 目を逸らす私に、彼はそれ以上追及しなかった。


 その代わり、ふっと笑って言った。

 「俺さ、あんまり人を部屋に入れないんだよ」

 「……どうして?」

 「大事な人しか入れたくないから」


 その言葉に、心臓がまた速くなる。



---


 けれど、nonameのメッセージが頭をよぎる。

 “あなたの後ろにいる彼は――”

 あの文の続きを、私はまだ知らない。


 佐伯さんがキッチンに立ち、コーヒーを淹れ直している間、視線が自然と部屋の奥へ向かう。

 半開きのドア。その向こうには、書斎のようなスペースが見えた。


 何かが、私を引き寄せる。



---


 書斎の扉は、まるで私が入るのを待っていたかのように、隙間を開けていた。

 迷う気持ちと、確かめたいという衝動がせめぎ合う。


 ――ちょっと見るだけ。

 自分にそう言い聞かせ、足を一歩踏み入れた。


 中は整然としていた。壁一面の本棚、デスクにはノートパソコン。

 その横に、封の開いた茶封筒が置かれている。

 無意識に手が伸びた。



---


 中には、何枚かの写真。

 見た瞬間、呼吸が止まった。


 そこに写っていたのは――私だった。

 職場で同僚と話す私、コンビニで買い物する私、駅のホームで電車を待つ私……。

 どれも盗撮のような角度で、しかも最近のものばかり。


 指先が冷たくなっていく。

 ――なんで、こんな写真が彼の部屋に……?



---


 背後で、床板がきしむ音がした。

 振り返ると、佐伯さんが立っていた。

 コーヒーカップは持っていない。


 「……探し物?」

 声は静かだったが、瞳の奥が笑っていない。

 言葉が出ない私を見て、彼は一歩、また一歩と近づく。


 「高梨さん、これ……全部俺が撮ったんだ」


 頭の中が真っ白になる。



---


 「待って、説明させて」

 彼の声は穏やかだったが、ドアの方へ向かう道は彼の体で塞がれている。


 「君が避けるから……俺、不安でさ。どこで何してるか、知ってないと落ち着かなくて」

 「……そんなの、普通じゃない」

 やっと絞り出した声は震えていた。


 「普通じゃないのはわかってる。でも、俺にとっては必要だった」

 彼がそう言った瞬間、スマホの通知音が響いた。



---


 ポケットからスマホを取り出すと、そこにはnonameからの新着メッセージ。

 『今すぐそこから離れて』

 『彼は――』


 文章の途中で、スマホが彼の手によって奪われた。

 「誰?」

 低い声に、背筋が凍る。


 「返して」

 必死で手を伸ばすが、彼はポケットに押し込んでしまう。



---


 「……俺を、怖いと思ってる?」

 その問いかけに、すぐ答えられなかった。


 「怖いなら、もう会わない方がいい」

 そう言いながらも、彼の視線は私を逃がす気がないように感じられる。


 沈黙の中、彼はふっと笑った。

 「でも……それでも、君は俺のそばにいる気がする」


 その言葉の意味を問いただす前に、彼は続けた。

 「次、全部話すよ。俺のことも、nonameのことも」



---


 部屋を出るとき、私はまだ足が震えていた。

 けれど、その奥底では――彼の真実を知りたいと思っている自分がいた。


 nonameの正体、彼が抱える闇、そして私自身の気持ち。

 すべてを知るまで、この物語は終わらない。

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