第2話 揺れる視線、届かない距離


朝から、どこか胸がざわついていた。

原因は、昨日のこと――佐伯さんが、私の挨拶に軽く会釈しただけで通り過ぎたあの瞬間。

あれが、いつも以上によそよそしく感じられてしまったのだ。


午前中の会議が終わり、コピー室に向かう途中。

角を曲がったところで、正面から佐伯さんが歩いてきた。

逃げ場がない。

心臓がひとつ跳ねた。


「……あ」

とっさに声を出した私に、彼はわずかに眉を動かす。

「高梨さん」

低く落ち着いた声が耳に届いた。

けれど次の瞬間には、視線を逸らされていた。


それでも今日は、ほんの数秒、私を見てくれた。

それだけで胸の奥がじんわり温かくなる。


コピー室で書類をそろえていると、真由が顔を出した。

「ねえ、聞いた? 佐伯さん、この前の土曜に泉さんと一緒にいたって」

「え?」

思わず手を止める。

「買い物してたって。しかも仲良さそうに」

真由は意味ありげに笑った。


その瞬間、胸の中で何かがチクリと痛んだ。

――避けられている理由は、もしかして。


---


泉さん――営業部のエースで、美人で明るく、社内でも評判がいい女性。

彼女と佐伯さんが並んで歩いている姿を、想像してしまう。

その光景は、私の中の何かを静かに壊していった。


「……別に、いいんだ」

自分にそう言い聞かせながらも、胸のざわめきは消えない。

人を好きになるって、もっと楽しいはずなのに。


午後、案件の資料作りで、佐伯さんとどうしてもやり取りが必要になった。

メールで済ませようとしたけれど、どうしても確認項目が多く、席まで行かざるを得ない。


「佐伯さん、こちらの資料なんですけど――」

差し出すと、彼は一瞬だけ私を見た。

その視線は、冷たくもなく、でも温かさもない。

ただ、感情を押し殺したような静かな瞳だった。


「……この部分、数字が違う。確認して」

短い言葉と共に、資料が返される。

受け取った指先が、かすかに触れた。

それだけで、体温が上がっていくのが分かった。


けれど彼はすぐに視線をモニターに戻し、私の存在を遮断するようにキーボードを叩き始めた。


---


その日の終業後。

資料修正のために残業していた私は、ふと周りを見渡すと、ほとんどの社員が帰っていることに気づいた。

ただ一人、佐伯さんのデスクに灯りが残っている。


プリントアウトを取りに行くついでに、その前を通り過ぎる。

「まだ帰ってなかったんですか」

軽く声をかけると、彼は少し間を置いてから顔を上げた。

「……さっきまで外出してたから、その分」


デスクには、案件の書類とは別に、私が担当するプロジェクトの資料が広がっていた。

「これ……見てくれてたんですか?」

問いかけると、彼はほんのわずかに口元を緩めた。

「数字の修正、大変だっただろう。ミスは俺の確認不足もあったから」


一瞬、時間が止まった気がした。

いつも距離を置く彼が、私を庇うようなことを言うなんて。


「……ありがとうございます」

そう言うと、彼は視線を逸らし、立ち上がった。

「送っていく」

唐突な言葉に、心臓が大きく跳ねる。


夜のオフィスを出る直前、彼が何かを言いかけて口を閉じた。

その表情は、迷いと苦しさを含んでいて――私の知る佐伯さんとは違っていた。


「……やっぱり、何でもない」

その一言が、逆に私の中で膨らんでいく。


――佐伯さん、私に何を隠してるんですか?


【第3話へ続く】



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