あたしたち、もう一度ちゃんとした学生になれてうれしい

数金都夢(Hugo)Kirara3500

目覚めの部屋

 中田なかだ純子じゅんこが最初に目を開けたとき、光がどちらから差しているのかもわからなかった。天井が白い、ということを認識するまでに、おそらく数秒のラグがあった。音はなく、匂いもなかった。ただ、腕の中に奇妙な違和感があった。何かが「流れているような」感じ。だがそれが血ではないことは、すぐに理解できた。

「おはよう、美子よしこ

「うん。おはよう、純子」

同じタイミングで目覚めた二人は、となりのベッドで静かに顔を向け合った。


 名前は、自然に口をついて出た。けれど、それが本当に「自分の名前」であるという実感は、まだ薄かった。「脳」に仕込まれたデータと、心の深層に沈んでいた記憶。そのどちらかが、そう言わせているのだろう。


 二人が再起動したのは、愛知県安城市の郊外にある、かつての自動車用エンジン工場を改装した転用施設だった。鉄とオイルの匂いが、建物の奥にわずかに残っている。外観は古びていたが、内部は最新の医療と教育設備が整えられていた。天井の蛍光灯は、工場時代の名残で無駄に高く、その分だけ空間に無機質な広がりがあった。


 最初の数日は、機械的な調整と基本動作のリハビリに費やされた。立ち上がる。歩く。座る。顔を笑わせる。手でモノを掴む。キーボードを打つ。すべてを「練習」として反復し、鏡の前で確認する。

「わたしの笑い方、変じゃない?」

「ちょっと目が笑ってない。でも、前もそうだった気がする」

「ひどい」

鏡の前で、二人は毎朝のように表情の訓練を繰り返した。


 プログラムされた筋肉の動きだけではどうしても不自然に見えるため、「無意識らしさ」を後から上書きしていく作業が必要だった。純子は笑い顔がぎこちなく、美子は怒り顔がうまく作れなかった。


 指先の感覚は、さらに難しい課題だった。ペンを持ったときの重さ。紙に触れたときの抵抗。糸と針の細やかな感触。あらかじめ組み込まれた情報だけでは対応しきれず、一つひとつ身体に「教え込む」必要があった。美子は、紙のざらつきを確かめるように毎日メモ帳に線を引いていた。

「これ、前にもやったような気がする」

「わたしも。でも、やり直しって変な感じね」


 彼女たちは「ゼロから生まれた存在」ではなかった。

だけど、すべてを覚えているわけでもない。断片的な記憶はあっても、それがいつのもので、どんな意味を持つのかは、まだ霧の中だった。


 ある日の午後、触覚の調整訓練が行われた。木、金属、ガラス、濡れた布、ぬるい水、暖かいコーヒーカップ等といった生活雑貨の感触を記録し、「脳」の内部データベースに適応させていく作業だった。


「これは、昔、使ってた湯呑みに似てる」

 そうつぶやいた純子の声に、記録係のスタッフが反応する。

「覚えてるんですか? 昔のこと」

「ううん、感覚だけ。でも、懐かしいと思った」


 訓練の中でふと口をついて出る言葉の端々に、彼女たちの「何か」が垣間見えた。

 データではなく、記憶ではないかもしれないが、「感じたことがある」という確かさ。それが、少しずつ、ふたりを「自分」に近づけていた。


 夜、狭い二人部屋。枕の下には細い充電ケーブルが差し込まれていて、そこに頭を乗せなければ次の日は昼休みを迎えるずっと前に動けなくなってしまう。

「ほら、美子、枕にちゃんと頭乗せて」

「わかってるってば。ちょっと寒いの、今日は」

「寝るときに抱きついてくるの、禁止ね」

「あったかいから、つい」

二人は笑いながら布団にくるまり、そして静かに目を閉じた。部屋の隅では、微かなLEDランプが点滅していた。枕はメンテンナンス用通信機能もあって定期診断とアップデートが自動的に行われている。


 遠くに微かな電子音が流れた。次のプログラムの準備信号だった。だがそれが何を意味するのかは、まだ知らない。二人の心には、まだはっきりと形をなさない「思い出」が沈んでいた。

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