無理に思い出さなくていいからね
心理訓練の時間になると、訓練棟の一番奥にある「対話室」と呼ばれる部屋に移動する。壁は柔らかい素材で覆われ、音が響かないように設計されていた。床はカーペット、机と椅子は木製。そこだけが、研究施設らしくない静かな空間だった。
「では、今日はこのカードを使ってみましょう」
インストラクターが、四角い小さな写真カードを多数差し出した。白黒の家族写真、古い通学鞄、焼け跡の風景、昭和初期の町並み、アンティーク絵葉書。それらは、無作為に見えて、どこかで「誰かの記憶」を誘うような仕掛けになっている。
中田純子は一枚の写真をじっと見つめた。焼け焦げた金属の水槽のような構造物。周囲には何もなく、空がぽっかりと広がっている。
「防火水槽……?」
彼女がつぶやく。指がわずかに震えた。
「そこに入ろうとした。でも……」
彼女の声が消えた。
その時、隣にいた
「水が……なかったの。ねえ、あたし……、水があると思って……飛び込んだの」
「純子……」
「でも、中は乾いてて、全身、焼けて……息もできなくて。叫んだけど、声が出なくて」
言葉を重ねるごとに、彼女の目が濡れていく。涙ではない。感情の出力が身体に追いついていないだけだ。隣の美子が、そっと手を重ねた。
「わたしは、あんまり覚えてないの。でも、一瞬で消えた気がする。あたしの体が……熱の中で」
「一緒だったの?」
「たぶん、ちがう場所。でも、同じ日」
インストラクターは、彼女たちの会話を制止することなく、ただ静かに見守っていた。心理訓練の目的は、「記憶を取り戻すこと」ではなく、「記憶と距離を取ること」にあった。どこかで、自分の過去を「他人事」として見られるようになること。それが安定への第一歩だった。
だが、この日だけは、インストラクターが途中で訓練を打ち切った。
「今日はここまでにしましょう」
「まだ……」
「大丈夫。続きは、また今度」
無理に記憶を掘り起こすことは、時に修復不能な不安定さを生む。彼女たちの心は、まだ脆い。壊れたわけではないが、「まだ完成していない」状態にあった。
その夜。施設の寮。小さなベッドの上で、純子と美子は並んで横になっていた。寝具はシンプルで、充電用のコードが枕の下から伸びていた。照明は落ちていたが、部屋の片隅にあるモニターランプが淡く光っていた。
「ねえ、美子」
「うん」
「あたしたち、ほんとに死んだんだよね?」
「うん。きっと、そうだった」
「でも、今こうして話してる。変なの」
「変だね。でも、わたし、もう一度生きてもいいかなって思ってる」
美子の声は、風の音にかき消されそうなほど小さかった。純子はそっと笑って、手を握った。微かな機械音が手のひらから聞こえた。
その翌週。施設の事務棟で、
「再社会化プログラム・修了判定通知書」
その書類の末尾には、こう書かれていた。再起動個体二名は、段階的な社会適応を経て、一般家庭での受け入れ可能と判断する。
「ほんとに……やるんですね?」
担当者が尋ねると、亜美は小さく首を縦に振った。
「ええ。わたしが、受け入れます。二人とも、わたしの……娘です」
「ご自身でそう決断されたなら、私たちは支援を惜しみません」
少しして、面談室に現れた純子と美子は、初めての「私服」を着ていた。淡い春色のカーディガン。足元はスニーカー。ぎこちない笑顔で、亜美のもとへ歩いてきた。
「こんにちは、亜美さん」
「ようこそ、おかえりなさい」
その瞬間、純子の目の奥で何かが揺れた。「おかえりなさい」、その言葉が、彼女のどこかに刺さった。懐かしいような、痛いような。そして、小さな荷物を持ち、三人は施設をあとにした。
その晩、施設の管理棟。インストラクターは静かにログを閉じ、備考欄に一文だけ入力した。
「彼女たちにとって、“記憶”は傷跡ではなく、再び編み直される“糸”であるかもしれない」
三河安城駅を出発したこだま号が西へと走り出す。窓の外、風景が流れていく。春の景色のはずなのに、二人の目にはそれがまだ「季節」だと認識できなかった。
「なんか、初めて見るのに懐かしい」
と、美子が言った。
「……百年ぶりの、春だもんね」
と、純子が答えた。そして三人は名古屋駅で一旦降りてちょっとしたお土産を買ってのぞみ号に乗り換えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます