5. 祈り紐たなびく青天
故郷の青沢村の近くの山あいに、湖があった。
気分屋の姉さみたいに、湖は四季折々の表情を持つ。――その中でも春が一番好きだ。
緑の葉に、まぶしいほど白い花を咲かせる水芭蕉。山桜の蕾がふくらんで、枝に
そんな湖面には、森の木々や山陵、青空と雲が鏡のように映る。覗き込めば、薄茶色の着物の、小さな女の子がいる。
――けれど今は、白の小袖を着ている。青空を映す、
顔を上げると、青沢村とは少し違う湖の眺望。
岩ばった地面に、葉の控えめな白い低木が並んでいる。山法師か柏か……。風が流れ砂や葉が舞っている。
ここがどこだっていい。神様と出会えれば構わない。
湖から離れて、振り返って歩き出す。
と、頭上から澄んだ鳥の声。
キェェー…… キェェー……
見ると一羽の鷹が、翼をはためかせて舞い降りていった。そこに、誰かがいた。
誰か……は、薄い灰色の具足を身につけていた。革の鞘をつけた、折り畳んだ槍を背負い、こちらを見ている。
白髪まじりの髪は豊かに波打ち、日焼けした皺の目立つ顔にかかっていた。太い眉の下には大きな目。髭の中に大きな顎と、鯰みたいによく開きそうな唇が見える。
さっきの鷹が降りてきて、鉤爪を彼の肩当てに食い込ませた。
キェェー……
ひと鳴きして、翼を折りたたむ。小さな茶色の頭に白い模様。太い体に強靭そうな脚。
彼はわたしを見て、目をすがめて口を少し開いて、笑ったみたいだ。
近づいてくるけれど、わたしは逃げなかった。青沢村の百姓頭のおじさんに似ているかも知れない。怖いけれど、怖くはない。
鷹はまた羽ばたいて、鳴き声を曳いて空へ飛んだ。
彼は目の前にくると、ここに何用か、と云った。
「え? ここ……。じゃなくて。神様の、匂いを探して、来たみたいです。わたし……」
「神様?」
と、目を見開いて彼は尋ねてきた。そこで気づいたけれど、彼からは乾いた土の匂いがした。
「わたしは、
「ふむ、
わたしは驚いて、後ろに退がって膝を曲げた。地に伏して頭を深く下げた。
「わ、わたしめはっ。見習い巫女の、甘菜と申します。――願わくば、
すると、「ふっ……。せっかくの
わたしが顔を起こすと、はらり、土と小枝が小袖の胸元から落ちるのが見えた。
「あ……」
と声にならない声を出すと、分厚い手が目の前に見えた。烈賀王様は、手を差し伸べていた。
「ほれ、立たれよ。……ちょうど、そこにある」
「え? そこに?」
少し迷ってから、わたしは震える右手で、岩みたいな手を掴んだ。力強く引かれて、立ち上がった。
そのとき、烈賀王様は呆れたような表情で、
「どこからきたのだ。――白鷺、の子供のような、巫女よ」
しばらくゆくと、白い木立の中に、石が置かれていた。
あるいは、お墓。――とは云ってもやはり、げんこつくらいの、ごつごつした青い丸石が置かれているだけ。――でも何かを、誰かを葬った場所だという感じがした。
その石には、名前が彫られているみたい。欠けていて、くねっていて、わたしには読めやしないけれど。
烈賀王様は右手を上げて、懐から一筋の布を取り出した。
それは茶色の細布だった。鉢巻や腕巻きに使われるような……。それによく見ると、白い模様――白花紋がたくさん、細布に織り込まれていた。
烈賀王様はその布をひらり手に持って、石に向かって腰を屈めた。右膝を地面について目をつむると、口の中で何かを、もごもごと呟いた。
しまいに、細布を両手で折りたたみはじめた。何か特別な、決められた手順に従うみたいに。――そのたたまれた布を、石の横に添えるように置く。
そうして烈賀王様は立ち上がった。
「これでいい。さて、ゆこうぞ」
わけもわからず烈賀王様を追ってゆくと、草原の広がる丘を登りはじめた。
丘の頂上にくると、わたしは息を呑んだ。
眼下には多くの兵が見えた。
左方からは白木の具足を付けた軍。右からは赤い具足を付けた軍。――彼らは争っていた。
それを見たとき、わたしは烈賀王様が、武神として崇められていることを思い出した。烈賀王様は目をすがめて、兵たちの争いを見下ろしている。
わたしには、ここが現実なのか、
雄叫びと剣戟。振り回される鉾。青空の下に軍旗がはためく。風と熱気に砂塵が巻き上がり、兵たちを包み込んでる。
「兄さも、こんな風に、戦ったのかな……」
誰にともなく、わたしは呟いた。――出兵した兄さは、戻らなかった。きっと、どこかで生きている。そのはずだ。
兵たちは胸の中で、家族の顔を想い、烈賀王の名を呼び、ぶつかりあってゆく。
わたしは怖くなって、烈賀王様を見上げた。烈賀王様はどこか哀しそうに眉を寄せて、
「帰るがいい。迷い来たりし、白鷺よ」
烈賀王様はどこまでも続く、あの青空を背負っていた。強い風が吹いた。
(おわり)
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