南の客人④

気がつくと、すぐ傍に栗色の髪が垂れかかってきているのが目に映った。

「……セーラ」

 頬に、温かな手のひらが触れる。

「アンシル様! よくご無事で……お怪我はありませんか?」

「見ての通り、ぴんぴんしてる。セーラのほうこそ大丈夫? さっき、意識がないままここまで運びこまれてきたけれど」

 言われて、セーラは周囲を見回す。上品な調度品の置かれた、それでいて異様なほど無味乾燥な印象を与える部屋。背後の壁にぽっかりと空いた窓からは、夕闇に染まりつつある海が見える。

「ここは……どこでしょう」

「海が見えるってことはたぶん、王都の近くじゃないかしら。わたしもセーラも、あの宿場町からここまで運ばれてきたんでしょうね」

 セーラは窓の近くに歩み寄り、外を見下ろす。目に見える範囲には海とはるか彼方の陸地以外、何も見当たらない。海への距離からして、おそらくここは三階か四階といったところだろう。

「ここから降りるのは、流石に無理ですね……。助けを呼んでみたりはしましたか?」

「そこから叫んでみたけど、誰もやってこなかった。人里離れたところにある屋敷みたい」

「まあ、呼んで助けが来るなら堂々と窓を開け放っておきませんよね。あとは……」

 セーラは窓と反対側の壁に取り付けられた扉に目を留める。

「そこは鍵がかかってる。揺すったりしてみたけど、まあ開かないわよね」

 セーラは扉に歩み寄り、表面に手を触れる。頑丈そうな木製の扉。ちょっとやそっとの衝撃では、びくともしないだろう。

 そう感じつつも、セーラは軽く勢いをつけ、思い切り扉に体当たりをかます。

「セ、セーラ! 怪我しちゃうわよ!」

「石じゃなくて木なんですから、何度もぶつかればそのうち壊せるかもしれません」

「そんなことしなくていいから! わたしは……セーラが傍にいてくれるだけで、すごくうれしいから」

 アンシルに服の袖を掴まれ、セーラはようやく扉に体を打ちつけるのをやめる。

「きっとわたしのことを心配して、わざと捕まってくれたんでしょ」

「そんなことは……ただ、罠だと気づかずに突っこんでしまっただけで」

 本当のところ、明らかにおかしいとわかっていたとは思う。主を攫った者が、なぜわざわざ宿の近くに姿を見せるのか。しかし、理性の静止を振り切って、気がつくと無我夢中で駆け出していた。

「ありがとう、セーラ。こんなわたしのことを気にかけてくれて」

「そんな風に己を卑下なさらないでください。アンシル様は帝国で最も尊い血を受け継がれているのですから」

「だけど、同時に最も卑しいとされる血も受け継いでいるかもしれないわ」

「そんなことはありません。それに」

 セーラはアンシルに向き直り、彼女を正面から見る。

「アンシル様に流れる血が何色であろうと、私の忠義が揺らぐことはありません」

「……うん。ありがとう」

 セーラは主を安心させるように、微笑みかける。それから再び、扉に向けて構えを取り直す。

「セーラ、もうそんなことしないで……」

「いえ、私にはこれくらいしか……」

 押し留めようとする主をやんわりと引き剥がそうとしているうちに、突然扉が開いた。

「まったく、随分と賑やかな御客人だ」

 現れたのは、短く髪を刈り込んだ魔族の男だった。高価そうな衣服に身を包んだ姿は一見して優雅だが、セーラたちを見下ろす瞳は些かの優雅さも含まず、ただただ冷たい。彼の背後には、宿場町で出会ったあの老人の姿がある。

 セーラは主を庇うように立ち、来訪者たちを睨みつける。

 男はつまらそうな顔で、軽く片眉を上げる。そうすると酷薄そうな印象がいっそう引き立つ。

「そなたが皇女だったかな?」

 その言葉の意味を取りかねて、セーラは眉間に皺を寄せる。

「いえ、皇女は後ろの娘ですな。この娘は侍女か何かでしょうて」

「ふん。みずぼらしくて、どちらが皇女なのか区別がつかんな」

「なっ……貴様……!」

 セーラは、今にも掴みかからんばかりの勢いで一歩踏みだす。

 しかし行動を起こす前に、背後からそっと肩を叩かれた。振り返ると、主が透明な眼差しでセーラを見ていた。

「貴方が人攫いの頭目?」

 男は呆れたように肩をすくめる。

「そういう薄汚い輩と一緒にしないでくれますかな、皇女殿」

「でも、貴方がそこのおじいさんに指示を出して、わたしたちをここまで攫ってきたのでしょう? 目的はお金?」

「まさか。もっと崇高な目的ですよ」

「と、言うと?」

 男はふんと鼻を鳴らすと、説教を行う司祭のように大きく腕を広げてみせる。

「平和ボケした魔王陛下に、喝を入れてやろうと思いましてね。そのために、暢気に帝国からおいでなさった皇女殿を利用させてもらうことにしたのですよ」

「ふうん……ようするに、使節を行方知れずにさせて魔王様を困らせようってことかしら?」

「まあ大体、そんなところですな。皇族が行方不明となれば、二国関係の悪化は避けようもなくなるはず……と、思っていたのですがね」

 男はアンシルを見下ろしながら、大仰に息を吐く。

「噂には聞いていたが、想像以上にそこらの小娘ですな。これでは宮廷で誰からも省みられていないというのも頷ける。ほどほどに関係が冷え込んだら、端金と引き換えに返してやれば良いかと思っていたが、これではそれも難しいかもしれませんな。となれば、けちけちせず、派手に命を散らしてもらうのも悪くない。たとえば聖祭の最終日、大聖堂前の広場に突如みずぼらしい娘の亡骸が……」

 セーラの手のひらが、男の頬を打ち据えた。

「黙りなさい、下郎。お前ごときにアンシル様の何がわかるというのです」

 男はじろりとセーラを見下ろすと、長い腕をセーラの首筋に伸ばす。

「セーラ!」

「これこれ、旦那様。その娘たちを捕えたのが誰かお忘れですかな。最後の使い道は私に決めさせて頂く約束だったでしょうに」

「こんな気の荒い娘、売ってもたいした金にならんと思うがね」

「何、人の形で売るわけでもありませんので。若い娘ひとりから、どれほどの薬を作ることができるかご存知ですかな」

「……ふん」

 男は興味を失ったように、ぞんざいにセーラを投げ捨てる。

「無事にお家に帰りたければ、精々役に立つことですな。あなたがたの生きるも死ぬも、私の手の内にあるということをお忘れなく」

 男たちが去った後、セーラはアンシルの腕の中で瞼を開いた。

「アンシル様……」

 セーラが呟くと、アンシルは安堵と痛みの入り混じる顔でセーラを見た。

「セーラ……もうあんなことしないで。心臓が止まるかと思ったわ」

「申し訳ありません。あの男の言葉を聞いているうちに、勝手に体が動いてしまいました」

「だったら聞かずに受け流してしまえばいいのよ。わたしは、ずっとそうやってきた」

「ええ、私も自分に対する言葉ならそういう風にできるのですけど」

 アンシルはセーラの頭にぽんと手を乗せて、傷ついた獣を労うように優しく撫でる。自分より年下の主に撫でられることに気恥ずかしさを覚えながら、セーラはされるがままでいる。

「ありがとう、セーラ。あなたがいてくれて良かったわ。おかげで、わたしはまだ諦めずに人を信じることができる」

「人を、信じる……」

 アンシルの言葉は、ひどく奇妙に聞こえた。主以外の誰も信じていない自分のおかげで、人を信じることができるとは。

「アンシル様のおっしゃることは、ときどきわかりませんね」

「いいのよ。わたしだって、自分のことが一から十までわかってるわけじゃないもの。それより、落ち着いた?」

「はい。もう大丈夫です」

「そうしたら、これからどうするか決めましょ。このままおとなしく解放されるときを待つか、行動するか」

 セーラは体を起こし、アンシルの横顔を見やる。主の瞳には、今まで見たことのない闘志がみなぎっている。

「たぶん、ここでしばらくのんびり過ごしていれば、いずれは解放されるはず。脅すようなことを言われたけど、彼らだって帝国が怖くないわけじゃないと思うもの」

「そうですね。とすると、下手に動くよりもここでじっとしているべき……」

「だけど、それじゃお祭りに間に合わないわ」

 アンシルの言葉に、セーラはぽかんと口を開く。その反応を予想していたのか、アンシルはいたずらっぽく笑む。

「わたしは帝国の使節としてここまでやってきたんだもの。使節の役目を果たすのは当然でしょ?」

「たしかに、重要なお役目かと存じます。ですが命を危険に晒してまで、その役目を果たさなければならないものでしょうか?」 

「だって式典の中にはわたしの出番もあるのよ。もしわたしが姿を現さなかったら、王都の人たちはどう思うかしら?」

「それは……」

「ねえ、セーラ。わたしはこれでも、皇女なの」

 俯いていたセーラが顔を上げると、初めて出会った日から変わらない、あどけなく、それでいて全てを見透かすような瞳と目が合う。

「たとえ取るに足らない、国民から忘れ去られている皇女だとしてもね、お役目はきちんと果たしたいと思うのよ。王国と帝国の友好を示すために、わたしはここまで来たのだから」

「はい」

「ひょっとしたら、その役目を果たすためには、ときに危険に身を投じる必要があるのかもしれない。―と言っても、なんだかんだでわたしは安全だと思うの。結局どこまでいっても、わたしは皇女だから。だけどセーラ、あなたは違う。もし次にあの人に歯向かうようなことをしたら、あの人はあなたにどんなひどいことをするかわからない。それでも、ついてきてくれる?」

 アンシルの問いかけに、セーラは強く頷いてみせる。

「私は、あなたに仕えるために生きています。あなたのためなら、私はこの命も喜んで投げ出します」

「物語の騎士様みたいな言い草ね」

「笑わないでください」

「笑ってるんじゃないわ。嬉しいの。本当にありがとう、セーラ」

 そう呟くと、アンシルはすくりと立ち上がる。

「それじゃ、だんだん日も暮れてきたし、いっちょやりましょうか」

「と、言われますと」

「家捜しよ、家捜し。感づかれないよう、静かにね。何か少しでも違和感のあるところを見つけたら教えて」

「かしこまりました」

 ふたりは美しい調度品に飾られた部屋を隅々まで探索した。

 やがて床に屈みこんだアンシルが、その姿勢のままセーラに手招きをした。

「ねえ、これ見て」

アンシルの指差す先、ベッドの裏の暗い壁には、うっすらとした切れ目があった。

「これは……」

「どうやら読みが当たったみたいね」

 アンシルは、目を凝らさなければ見えないほど微細な切れ目の端に手をかける。そのまま手を滑らせていくと、するすると壁が動き、人が通れるほどの穴が出現する。

「アンシル様、ひょっとして透視術か何かの覚えがあったので?」

「そんなんじゃないわ。わたし、ずっと皇宮の隅っこでひとりで遊んでたのよ。来る日も来る日も、離宮のあちこちを探索して……おかげで、その部屋に隠し通路があるかどうか、なんとなく判別がつくようになっちゃった」

「それは……すごいですね」

「でしょ?」

 アンシルの意外な特技に目を丸くしながら、セーラは穴を覗きこむ。

「中は暗くてよくわかりませんね。私が先導します」

「ええ、お願い」

 闇に閉ざされた細い道を、這いつくばって進んでいく。この道がどこに通じているのかはわからない。それでも主の願いを果たすためには、この道を進んでいくしかない。

「もしこの通路の向こうにやつらがいたら、私が囮になりますので。どうかその間にお逃げください」

「ええ。皇女の務めを果たそうとするなら、きっとそれが正しいのでしょうね。だから、努力するわ」

 暗闇の向こうに漠然と違和感を感じ、セーラは動きを緩める。そろそろと腕を伸ばすと、冷たい石の感触が指先に伝わる。指を滑らすと、軋む音ともに石が動く。

「何が見える?」

「残念ながら、真っ暗で何も。ですが、どうやら屋敷の外のようです」

 通路の外に手を伸ばすと、乾いた土と草の感触が手のひらに触れる。

「屋敷の裏でしょうか」

 耳を澄ますと、虫や鳥の鳴き声に混じり、波が岩に打ち寄せるような音が聞こえてくる。潮の匂いを孕んだ空気が鼻を突く。

「屋敷と海の間の細い陸地じゃないかしら。足を踏み外したら、崖から真っ逆さまかも」

「それでも進むしかありませんね」

「ええ。目指すは王都一直線よ」

 迷いのない足取りで歩きだした主の後ろを、セーラは慌てて着いていく。

「王都への道に心当たりはあるのですか?」

「海沿いにずっと歩いていけば着くと思う。昼間に薄ぼんやりとだけど、魔王様のお城が見えたのよ」

「双子の塔ですね」

「うん。魔王様のお部屋は、西の塔の最上階にあるんですって。機会があれば是非お部屋を見せて頂きたいわね」

 喋りながら、アンシルはすたすたと闇に包まれた道を歩いていく。不思議と危なげなところはなく、意外なほど身軽な足取りである。むしろ、あまり町の外を歩き慣れていないセーラのほうがおっかなびっくりに歩いている。

「アンシル様は魔王陛下とお会いするのが楽しみなのですよね」

「ええ、とっても」

「そのお気持ちが裏切られるとは思わないのですか? つまり、魔王陛下のほうはそれほどアンシル様に会いたがっていないと……そう考えることはないのですか」

「もちろん、それはあるわよ」

「え……」

 呟いた拍子に、セーラは足下の草に足を取られる。倒れかけた体を、アンシルがすかさず支える。

「大丈夫?」

「は、はい。申し訳ありません」

「ううん、わたしもうっかりしてたわ。しばらくお喋りは控えて、歩くのに専念しましょうか」

 月を頼りに、海からの風が吹く草原を歩いていく。年下の主に先導されることに、そこはかとない面映さを感じつつ、セーラは足を進めていく。王国の夜の草原を、主とふたりきりで歩く。帝都を旅立ったときは、まさかこんなことになるとは思わなかった。

 先ほどのような失態を犯さぬよう、極力雑念を抱かずに歩こうとするのだが、心の中には様々な想いが去来する。

「だいぶ歩いたし、あの木の下で少しだけ休みましょうか」

「そ、そうですね」

 セーラは太い木の幹に体を凭れかけさせ、息を吐く。

「大丈夫? まだ歩けそう?」

「はい、まだまだいけます。アンシル様は……問題なさそうですね」

「わたしは慣れてるもの。小さい頃からあちこち歩き回ってたから」

「小さい頃から……ですか?」

「ええ。帝都に来るより前、セーラに出会うよりずっと前の話」

「そうだったのですね。申し訳ありません、私が足手纏いになってしまって」

「そんなことないわよ。暗闇をひとりで歩くのと、ふたりで歩くのじゃ全然違うもの」

 アンシルの言葉には、たしかな実感がこもっていた。昔誰かと、暗闇を歩いた夜を思い返しているかのような。

「どうかした?」

「ああ、いえ……私は自分が思っているほど、アンシル様のことを知らないのだなと思って」

「そう? そんなことを言ったらわたしだって、セーラのことを意外と知らない気がするけど」

「それは……私の身の上話は、聞いても面白くないと思いますし」

「わたしも同じ。喋っても楽しくないし、聞いても楽しくないでしょうから、昔のことは話さないの。だけどセーラは、そんな得体の知れないわたしのことも信じてくれてるのよね」

「それは……当然です。私にとって、アンシル様は全てですから」

「ふふ、全てって。でも、あながち大げさでもないのかしら。初めて会った日、あなたったら世界の終わりみたいな顔してたものね」

「はい。あの頃の私にとって、周りの世界は底の見えない闇でした。その闇から、アンシル様が引き上げてくださった。だから私は、何があろうとアンシル様のお傍に仕えていたいのです」

「わたしも同じ。誰もいない、狭くて小さな世界にあなたがやってきて、どこの誰とも知れないわたしに手を差し伸べてくれた。だから、わたしも信じてみようと思ったの。あなたを見習ってね」

「私を見習って……ですか」

 買い被りです、という言葉が口をついて出そうになる。他に縋れるものがなかったから、目の前にいた幼い皇女に縋っただけ。自分は、そんなに立派な心の持ち主ではない。

 そんな気持ちを見透かしたように、アンシルは柔らかく包みこむ微笑みでセーラを見やる。

「セーラは、わたしが想像よりもっと得体が知れないやつだとわかっても、傍にいてくれたでしょ」

「それは……他に行く場所がなかったからです。私には、アンシル様の傍の他に居場所がありませんでした」

「じゃあたとえば、衣食住は賄ってあげるからもうわたしに近寄らないでって言ったら、そうしてくれるの?」

「いや、それは……」

 セーラはしばし口籠っていたが、やがて再び顔を上げて言う。

「たとえ生きるための糧を用意してくださろうと、そうでなかろうと、私がアンシル様の元を離れることはありません」

 忠義というのとは、少し違う。誓いを立てたから従うのではなく、ただ、そうすることが自身の根幹に深く結びついているから、自分は主とともに在るのだろう。

「セーラはすごいわね」

 笑みを崩さず、どこか痛みを孕んだ眼差しで、アンシルは言う。

「わたしは、そこまで他の誰かを信じることはできない。セーラのことすら、未だに心の奥底では信じきることができていないような気がするもの」

「私のことなど信じて頂く必要はありません。私はアンシル様の傍に置いて頂けるだけで……」

「そこは、信じてほしいって言ってほしいわ」

 拗ねたように言われ、セーラはきょとんとアンシルを見返す。

 アンシルはすぐに表情を緩め、すくりと立ち上がる。栗色の長い髪が、海からの風で帆のようにはためく。

「いけそう?」

「はい。問題ありません」

「たぶん、向こうもそろそろ脱走に気づいた頃でしょうね」

「そうですね……。走って少しでも距離を取りましょうか?」

「それでまた転びそうになったら元も子もないでしょ。慌てず、慎重に行きましょ」

 月明かりに照らされたアンシルの横顔を、セーラは見上げる。守るべきか弱い存在ではなく、対等に並び立ち、ときに救いの手を差し伸べてくれる少女。

「大丈夫よ。わたしたちは必ず、王都に辿りつくわ」

「そうですね。必ず、ふたりで辿りつきましょう」

 セーラは頷き、立ち上がる。その瞬間、くらりと眩暈のような感覚に襲われ、体勢を崩す。

「セーラ?」

 視界に白い靄がかかり、アンシルの声が次第に遠くなっていく。そして代わりに、アンシルとはまったく異なる冷たい声が意識に割り込んでくる。

「起きろ、小娘」

 目を開けると、氷のような冷気を放つ瞳がこちらを見下ろしていた。

「皇女はどこだ」

 セーラはわずかな思考の後に、起こったことを理解する。人と人形を取り替える魔術。視線を傾けると、男の背後にあの老人の姿があった。

「答えろ」

 男はセーラの襟首に手をかける。息苦しさを覚えながら、セーラは男を睨む。

「言わないわ」

「そうか」

 男の拳が、セーラの頬を打つ。口の中に鉄の味が広がる。間髪入れずにさらにもう一発、さらにもう一発。しかし口の端に血が滲んでも、セーラは男を睨み続けたまま無言を貫く。

「あまり痛めつけると、気を失ってしまいませんかな」

「お前の術が上手くいっていれば、この小娘に口を割ってもらう必要もなかったのだがな」

「皇女殿下にはすでに一度転移の術をかけましたからな。呪いというのは、ある程度時間を置かないと失敗しやすくなるのですよ。それにあの皇女……体質的に呪いが効きにくいようです。催眠の術をかけた際も、随分苦労させられました」

「ふん、つまらぬ言い訳を。まあ良い。この娘に術が効いたということは、皇女もそう遠くない場所にいるということだろう。ならば、たかだか子どもひとり、追いつくことは容易かろうさ」

 男は背後に控える配下たちに、セーラを捕えさせる。男自身は馬に跨り、頭上からセーラを見下ろす。

「お前が皇女を誘き寄せる撒き餌になってくれればいいのだがな」

 セーラは男をねめつけ、口の端に薄い笑みを浮かべる。

「アンシル様は必ず王都へ辿りつくわ。あなたの下らない企みも、それで崩れ去る」

「その頃までお前がこの世にいられるかはわからんがね」

「好きにしなさい。私はアンシル様のためなら、この身も捨てる覚悟です」

「やれやれ、とんだ忠臣だな。あんな地味な小娘のどこにそうも惚れこんでいるのやら。帝国人の娘というのは、皆こうも愚かなのかね?」

 男に問われ、老人は首を傾げる。

「聞いた話では、皇女は脛に傷があるお生まれだとか。この娘もあるいは同じ穴の狢なのかもしれませんな」

「傷もの同士で傷を舐めあっているというわけか。浅ましい話だな」

「……何とでも言いなさい」

 セーラはそれきり俯き、男たちの言葉に耳を貸さないことにした。心を閉ざしたわけではない。主を信じると決めたのだから、彼女を辱める言葉など聞く必要はない。

 ……アンシル様は、私のおかげで救われたと言ってくれた。

 自分は主ほど立派な心根の持ち主ではない。誰をも信じようとする主の在り方は素晴らしいと思うけれど、自分にそれを真似ることはできない。ならばせめて、自分が信じると決めた人だけは信じたい。自分が信じ続けることが、主の力になるのだと信じたい。

 先ほど休んでいた辺りまでやってきたが、すでにそこにアンシルの姿はない。

「存外、尻尾を出さんな。忠実な犬とはぐれて、泣きべそをかいていると思ったが」

「見た目よりもしたたかな娘なのかもしれませんな。侍女が代わりに捕まってくれて、これ幸いと思っているのかもしれませぬ」

「そうだな……おい、お前の主人はお前を見捨ててしまったようだぞ?」

 セーラは一切口を開かず、冷静に男たちを観察する。軽い口調を装っているが、その裏から焦りの気配が滲み出ている。主が逃げおおせれば、彼らの企みは全て露見する。彼らはなんとしても、皇女を王都に辿りつかせるわけにはいかないのだ。

「仕方ない、餌を撒くか。どれほど食いつきがあるかわからんが」

 男は呟き、腰に吊るした短剣を抜くと、セーラの眼前に翳した。セーラは背筋に冷たいものを感じながらも、男をまっすぐ睨み続けた。

「呆れた忠義心だな。皇女がお前の気持ちに応えてくれることを私も願わせてもらうよ」

 短剣がセーラの頬に押し当てられる。熱を帯びたような痛みが、じんわりと広がる。

「お前の血でご主人様に手紙を書いてやろう」

 血に濡れた短剣を、男は空に翳す。するとセーラの血はするすると刃を伝い、空中へと流れていく。

 血は遥か天まで昇り、それ自体が生命を持っているかのようにうねうねと蠢く。そしてほどなく、赤々と輝く血文字が夜空に浮かび上がる。

「さて、皇女殿はどうなさるかな。もう少し血の量があればもっと長い文章も書けるが、どうするかね?」

 夜空には一言、「警告」と書かれていた。

「もっと詳しく自身の窮地を伝えたいとは思わないかね?」

「アンシル様は、来ないわ。王都に、魔王陛下の元に辿りつくまで、決して振り返らないと約束されたもの」

「そうか」

 男の短剣が、今度は腕に突きつけられる。腕を伝い、指先に流れ落ちる血を見つめながら、セーラはもう一度「来ないわ」と繰り返す。

「では全身の血を使い切るまで、皇女に呪いの言葉を送りつけてみるかね?」

「送りたければ送れば? そんなことしたって無駄だと思うけど、それであなたの足止めができるなら、私は本望よ」

 男はセーラを睨み、短剣にいっそうの力を込める。

「失血で殺さないよう、気をつけてくれますかな」

「善処しよう。何、二度と口を聞けなくなったとしても薬の材料にはなるだろう?」

 短剣の切先が首筋にひたりと当てられる。それでもセーラは男から目を逸らさなかった。そのため、闇の向こうの人影に気がつくことができなかった。

「―あれを」

 老人が指差した先には、こちらに近づいてくる小さな人影がひとつあった。

「ほう。どうやら、お前の忠義が報われたようだぞ」

……そんな。

 セーラは、胸に鈍い痛みを覚えながらその人影を見つめる。

「セーラ、ごめんね。遅くなっちゃった」

「……アンシル様」

 どうしてですか、と問いかけかけて、セーラは口を噤む。そんなのは、わかりきった問いだ。アンシルがこの場に戻ってくる理由など、ただひとつしかありえない。

「……皇女の責務を、投げ出されるおつもりですか」

「そうよ」

 一分の躊躇いもなく、アンシルは言った。

「皇女の務めを果たしたいとおっしゃったのは、嘘だったのですか」

「ううん、それは本当。でもね、わたしはやっぱり半端者の皇女なの。だから、わたしのことを世界で一番信じてくれてる人を見捨てて、皇女の務めを果たすことはできなかったのよ」

 アンシルはセーラの背後に立つ男に視線を向ける。その瞳には、セーラが今まで見たことのないほど冷徹な色が浮かんでいる。

「セーラを離しなさい」

 男は呆れたように肩をすくめる。

「いいでしょう……と言いたいところですが、この娘は私の顔を見てしまいましたから、このまま逃すわけにはいきませんな」

「そう」

 風が吹き、扇のように広がった栗色の髪が、月の光を浴びて輝く。その眺めに、セーラはなぜだか空恐ろしいものを感じた。固く閉ざされた重たい扉が静かに開き、そこから何かが這い出してくるような。

「それならわたしは、セーラを力ずくで奪い返す。それでいいのね?」

 男は一瞬、何を言われたのか理解できていないような顔をした。それから嘲笑を浮かべながら「どうぞご自由に」と返した。

「わかったわ。それじゃあ、好きにさせてもらうから」

 アンシルがそう言った瞬間、周囲の温度がすっと下がったような感覚を、あるいはそう錯覚させるような寒気を、セーラは感じた。

 そして次の瞬間、眩い光が周囲を包んだ。

「なっ……! ぐっ……うおぉ……!」

 光を浴びた男は短剣を取り落とし、頭を押さえながら呻き始める。男の配下たちも、皆同じように辺りをのたうち回りはじめる。

 セーラは光源へと、左のこめかみの辺りから眩い光を放つアンシルの元へと駆け寄る。アンシルはセーラの手を取ると、踵を返して走り始める。ふたりは並んで夜の草原を駆け抜けていく。

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