南の客人⑤

 喉がからからになるまで走り、セーラは肩で息をしながら、同じく息を切らしているアンシルを見やる。

「少し休みましょうか……?」

「ううん、帝都に辿りつくまでは……」

 そう言った瞬間、アンシルはふらりとよろめき、その場に崩れ落ちる。

「アンシル様!」

 抱え起こそうとして触れた主の肌の熱さに、セーラは愕然とする。

 アンシルは目線だけを動かし、荒い息を吐きながらセーラを見上げる。

「ごめんなさい……わたしはやっぱり半端者だから、最後まで上手くはできないみたい」

「そんなことはありません」

 アンシルの乱れた髪の隙間から、目を凝らさなければ気づかないような、ほんの小さな突起のようなものが覗いている。

 左のこめかみの少し上の辺りから伸びる、小さな角。セーラの小さな主が抱える、大きな秘密。

 セーラがそれに気づいたのは、ほんの偶然からだった。仕え始めた最初の頃、アンシルは身の回りのことはほとんど自身で済ませ、セーラには髪を結うことすらさせようとしなかった。

 きっかけは、そう―花瓶だった。

 人気のない離宮の寂しさを紛らわせるように、おそらくは侍従長の心配りで、離宮のあちこちに美しい花が生けられていた。

 あるとき、何かの拍子でその花瓶のひとつがアンシルの傍に落ちてきた。セーラは主を庇うために駆け寄り、結果としてアンシルとともにその場に転がる羽目となった。

 床に倒れたアンシルの髪の隙間に、セーラはちかりと煌めく何かを見出した。

 その日一日はアンシルと口を聞かず、次の日の朝、何も聞かないでほしいと言われたことを覚えている。

 セーラは約束を守り、それから何も聞かずアンシルに仕え続けてきた。だから、セーラは主の出自について何も知らないと言ってもいい。

 そしてそんなことは、セーラにしてみれば些事に過ぎない。

 セーラはアンシルを背負い、立ち上がる。

「とても苦しいでしょうけど、今はどうかお耐えください」

「……ごめんなさい、セーラ」

「謝って頂く必要などありません。私はアンシル様のお役に立てれば、それでいいんです」

 譫言のようにごめんなさい、と呟き続ける主を背に、セーラはまだ遠い王都に向けて一歩を踏みだす。

 それと同時に、背後から近づいてくる足音が聞こえてくる。

 セーラは歯を噛み締め、少しでも距離を取ろうと前進するが、みるみるうちに足音はすぐ傍まで迫ってくる。

「やれやれ、随分手間をかけさせられたものだ」

 冷たい声の主は、ゆっくりと距離を詰めてくる。もうひとつの足音がそれに続く。

「しかし、皇女殿。私はあなたに、俄然興味が湧いてきましたよ。どうやら、なかなか面白い血を受け継がれているようですな」

「いや、まったく……たしかに昔、帝都でそんな噂を聞いたこともありましたが、どうせ根も葉もない与太話だろうと思っておりましたわ」

「無理もなかろう。まさか帝国で最も尊ばれる血に、やつらの憎み蔑む血が混じりこんでいたなどと知れたなら―」

 男はセーラの横に並び、酷薄な笑みでアンシルを見下ろす。

「あなたは思ったよりもずっと利用価値がありそうだ。半分は我らの血を引く者として、我が理想の実現に協力して頂けますかな?」

「……残念だけど」

 アンシルは荒い息を吐きながら、男を見上げる。

「あなたの願いは、わたしの願いとは相容れないと思う。わたしは、手を差し伸べたい。だから、あなたが望むことが破壊なら、わたしはあなたの力にはなれない」

「破壊など望んでおりません。私の望みは世界をあるべき姿に戻すことです。そのために、多少の血が流れるのは致し方ありません」

「今日セーラが流した血も、あなたの望みのためには致し方ない犠牲なの?」

「はい。帝国の民の血は、我らの理想を地上に築くための礎となるのですよ」

「なら、やっぱり、あなたとわたしは相容れない」

 アンシルの髪に隠れた角から、再び光が放たれる。男は顔を顰め、嗚咽をもらしながらも、アンシルをセーラの背から引き摺り下ろそうとする。

「この……汚らわしい血の小娘めが……!」

「アンシル様に触れるなっ!」

 セーラはよろめきながら男に蹴りを入れ、アンシルをおぶったまま、よたよたと走り出す。

「くそ、卑しい帝国人の娘ごときがよくも……おい、ぼさっと見てないであれを捕らえろ!」

「念のための確認ですが、皇女も役目を果たされたら、わしの好きにして良いのですな?」

「ああ、煮るなり焼くなり好きにしろ!」

「わかりました、手を貸しましょう。あの皇女からどんな薬が作れるのか、わしとしても俄然興味が湧いてきましたのでな」

 老人はゆらりと腕を上げ、セーラに狙いを定める。

 しかし、そのままの姿勢で、金縛りに遭ったようにぴたりと老人の動きは止まる。

「何をしている? さっさとやつらを……」

 老人はふいに大きく身を震わせる。そのままするりと腕を下ろすと、セーラたちとは真逆の方角へと去っていく。

「おい、何のつもり……」

 男は振り向きかけて、口を噤む。そして再び正面に顔を向けるが、その視線の先に在るのはセーラたちではなかった。

 セーラもまた、大きく目を見開いてその姿を見つめる。王都の方角からゆったりとした足取りで近づいてくる、ひとつの影。美しくたなびく翠色の髪。月の光を受けて輝く、二本の湾曲した角。

 セーラとすれ違う瞬間、その人物は口の端にかすかな笑みを浮かべた。そのまま立ち止まらず、柔らかな表情のまま、男の元へと近づいていく。

「こんばんわ、良い夜ね。あなたは、えーと、ベイル副伯だったかしら」

 副伯と呼ばれた男は、恭しく礼をする。それはあながち、表面を取り繕っただけの儀礼ではないようだった。

「いかにも、直轄領のユラ川以北を任せて頂いております、ベイル副伯ラースでございます」

「そうよね。さて、何か言い訳はある?」

 男は正面から、声の主の視線を受け止める。真摯な印象すら与える、どこか熱を帯びた瞳。

「私は、あなたのためを……この国のためのことを思って行動した。それだけはご理解頂きたい」

「わかった、その言葉は信じてあげる。だけど、やってることが女の子の誘拐じゃ、どんなに立派な理念も台無しよ」

 次の瞬間何が起こったのか、セーラの目では捉えることができなかった。旋風が巻き起こり、気がつくと男はその場に倒れ伏していた。

「もうひとり、近くにいるわね?」

「え……」

 セーラの返事を待つことなく、再び旋風が巻き起こる。ほどなくして、気を失った老人がどさりと地面に投げ出される。

「少し離れたところに、呻きながらのたうち回ってる集団がいるみたいだけど、あいつらはあたしの部下に任せとけば良さそうね」

 その人物、翠の髪の美しい女性は、セーラの背のアンシルを見下ろして表情を険しくする。

「ひどい汗ね。熱も随分あるみたい」

 女性はセーラに指示を出し、アンシルを草の上に寝かせる。女性がアンシルの額に手をかざすと、その手のひらから淡い光が発され始める。

「あたしの治癒魔術なんかじゃ気休めにしかならないけど……あっ、あなたも怪我してるじゃない。ちょっとだけ待っててね」

「あ、いえ。私は……」

 セーラは淡い光に包まれる主の顔を覗きこむ。心なしか、先ほどより熱が引いているように見える。

 苦しそうに閉じられていたアンシルの瞼が開く。アンシルはまずセーラを、それから突然現れた謎の女性を見る。

「……ありがとうございます。まさか、魔王陛下自ら助けに来てくださるなんて」

「……魔王陛下?」

 セーラが思わず聞き返すと、女性はぺこりとお辞儀する。

「はじめまして。この国を預からせて頂いている、イシュルメールと申します。あなたはアンシル皇女のお付きの子?」

「あ、はい……セーラと申します」

「よろしくね、セーラ。それから……アンシル皇女」

 魔王はアンシルに対して、深々と頭を下げる。

「まずは、せっかくいらしてくださったのに、危険な目に遭わせてしまったことをお詫びさせてください。こちらの不手際でこんなことになってしまって、本当にごめんなさい」

「そんな、陛下は何も……」

「ううん、あたしが悪いの」

 魔王は駄々っ子のようにぶんぶんと首を振る。

「ベイル副伯……そこでのびてるやつが妙な動きをしてるのは薄々勘づいてたのよ。だけど尻尾を掴みきれなくて、結局行動を起こすのを許してしまった。それに、そっちのじじいは元々帝国のお尋ね者で、近頃こっちに流れてきて人攫いをしてるって情報が入ってたんだけど、こいつもなかなか尻尾が掴めなくて、まさかベイル副伯と結託してたなんて……」

 一気にまくしたてて、魔王は盛大なため息を吐く。

「友達が手伝ってくれなかったら、あなたたちを見つけることもできなかったし、ほんと自分が情けなくて情けなくて……」 

「……やっぱり魔王様は、お優しいですね」

 アンシルは口の端に、くすりと笑みを浮かべる。

「わたし、ずっと魔王様にお会いするのを楽しみにしていたんです。噂を聞いたりしながら、魔王様はどんなお方なんだろうと想像していました」

「え、そうなの? そしたら今、想像と比べてどんな感じ?」

「想像通りに優しくて、だけど想像よりちょっぴりとぼけた雰囲気のお方かも、と思ってます」

「あー……それはまあ……そうねえ」

 歯切れ悪く言う魔王を、アンシルはくすくすと笑いながら見上げる。そんな主の様子に、こわばっていたセーラの心も、次第にゆるゆるとほどけていく。


 セーラは馬車の中で、ふと目を覚ます。顔を上げると、すぐ横の主と目が合う。

「あ……申し訳ありません、ついうとうとと……」

「いいのよ。王都に着いたらやることがたくさんだし、今のうちに眠っておきましょ」

 夜明け前の街道を、馬車はがたごとと音を立てながら走っていく。窓越しに、北の国の未明の冷たい空気が入りこんでくる。

 主の言葉に甘えて、セーラは再び瞼を閉じる。今にも眠りの底に落ちていきそうな、そのくせ妙に頭が冴えわたっているような奇妙な心地。

「明日になったら……ううん、もう今日だったわね。今日の朝になったら、王都に着いてるのね」

「そうですね」

「楽しみ?」

 ふいに問われ、セーラはまばたきをする。

「どうでしょうか」

 見知らぬ町。見知らぬ人々。見知らぬ景色。見知らぬ香り。得体の知れぬ、いつこちらに牙を向けるかわからない未知のものたち。

「素直に楽しみ、と言える感じではないと思います。初めての人や初めての場所は、やはり怖いです」

「そうよね。どんな人にどんな目を向けられるかわからないし、上手く仲良くなれるかもわからないし」

「ですけど、アンシル様は王都に行くのを楽しみにされているのでしょう?」

「ええ。怖いけどね。それともひょっとしたら、怖いから楽しみなのかしら」

「アンシル様のおっしゃることは、ときどき本当にわかりません」

 言って、再び目を閉じる。

「あの日もね、本当はとても怖かったの」

 目を閉じたまま、セーラは頷く。

「侍女なんていらない。わたしはひとりで大丈夫。そう言ってつっぱねてしまおうかとも思ったわ」

 セーラは、あの日初めて出会った少女の姿を、その透明な眼差しを思い出す。小さな獣のような、あどけなく、それでいて何もかもを見通しているかのような瞳。きっと彼女は、目の前に現れた見知らぬ少女の正体を見定めようとしていたのだろう。

「だけどセーラをひと目見て、そしてあなたの言葉を聞いて、すぐに考えを改めた。この子に傍にいてほしい。すごく素直に、そう思えたの」

「どこの馬の骨とも知れない私を、すぐ信用してくださったのですか」

「信用とは少し違うかも。わたし、あなたの言葉を聞いた後も、やっぱりまだ怖かったの」

「なのに私を傍に置きたいと、そう思ってくださったのですか」

「セーラに勇気づけられたのよ」

 セーラは目をぱちりと開き、アンシルを見る。アンシルは瞼を伏せ、穏やかな夢を見ているような表情をしている。

「あなたをひと目見て、すぐにわかった。この子はわたしと同じ、捨てられた子だってね。だけどセーラは、わたしに手を差し伸べてくれた。深く傷ついているはずなのに、また傷つけられるかもしれないのに、わたしに手を伸ばしてくれた」

「それは、他に行く場所がなかったからです。私は藁にも縋る気持ちで、アンシル様に縋った。ただ、それだけのことなんです」

「でも、わたしの噂は聞いていたでしょ?」

 姿を見せない皇女については、様々な噂が飛び交っていた。その中には、真面目に捉えている者はほとんどいなかっただろうが、第三皇女の母は王国から来た化け物というものもあった。

「あの日、あなたは怯えていたわよね。得体の知れない宮廷の世界にも、得体の知れないわたしにも、あなたはとても怯えていた。それでもあなたは、わたしに手を伸ばした。だから、わたしも勇気づけられたのよ。たとえ怖くても、あなたの手を取らなくちゃってね」

「随分と良い方向に取ってくださったのですね」

 セーラはアンシルから目を離し、まだ暗がりの窓の外を見る。

「私は臆病で、自分勝手です。周りの人たちのことも、私たちのために駆けつけてくださった魔王陛下のことも、未だに心の底から信じることができないでいます」

「別に信じてなくたっていいじゃない」

 さらりと発せられた一言に、セーラは目をぱちくりとさせ、それからふっと笑む。

「そうですね。別に、心から信じている必要はないのかもしれません」

「そうよ。ぶるぶる震えながらでも、手は伸ばせるんだもの」

 セーラはまた瞼を閉じ、冷たく胸の空くような夏の朝の空気に身を委ねる。

 そうするうちに、暗闇の世界に仄かな色が灯る。

 瞼を上げ、セーラははっと息を呑む。

「アンシル様、見てください―王都です!」

 曙光を背に、姿を浮かび上がらせる二柱の塔。セーラは目を輝かせ、次第に明らんでいくその光景を見つめる。

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