罪と誓い④

 夜更けには細かい雨が降っていた。石壁を叩く雨音を聞きながら、ダナモスは椅子に凭れかかって目を閉じていた。

 もとより眠りは浅いほうだが、こちらに来てからいっそう眠らなくなった。こうして目を閉じて考えごとをしているうちに、夜が明けていることもしばしばだ。もっとも考えごとの種も、もうそれほど残ってはいないのだが。

 雨音に耳を傾けるうちに、少しずつ意識が遠のいていく。この調子なら、日が変わる前には眠りに落ちているだろうか……。

「ちょっと、何寝てんのよ」

 突然降って湧いた声に、ダナモスは体を大きく前後させる。

「後で来るって言ったじゃない」

 部屋の灯りは消してあったが、声の主は明らかだった。

「一体どこから湧いてきたのです。扉を開けた覚えはないのですが」

「鼠か何かみたいな言い方しないでよ。扉が閉まってたなら、窓から入ってきたに決まってるでしょ」

「窓……」

 ダナモスは訝しむ目で部屋の奥の窓を見やる。たしかに鎧戸は閉めていなかったし、人が通れるだけの幅もあるが、そもそもここは四階である。

「魔族は蛙のように壁にへばりつくものなのですか」

「そんなわけないでしょ。地道に登ってきたの。だけどやんなっちゃうわ、ここ数日ずっと晴れてたのに、なんで今日に限って……」

 メルは濡れた髪を手で梳きながら言う。

「だけど小雨なのが幸いね。これが大嵐だったら、流石にあんたを連れて出るのは無理だもの」

 メルがそう言うや、ダナモスの眉間に皺が刻まれる。

「今、何と?」

「聞こえなかった? あんたを連れて出るには……」

「それは聞こえましたが、そもそもそれはどういうことなのです」

「あたし、いよいよこの城に愛想が尽きたから出て行ってやることにしたの。だからついでに、あんたも連れてってあげる」

「意味がよくわからないのですが」

「つべこべ言わずに、さっさと荷物まとめなさい。雲で月が隠れてるうちに動くわよ」

「特に荷物はありませんが。元々行き倒れですので」

「そういやそうだったわね。それじゃ行きましょうか」

「……どこへ?」

「それは追々話すから。まずはここから脱出するのが先決」

 ダナモスは呆れと当惑の入り混じる目で、目の前の少女を見る。あまりものを深く考えない王女だとは思っていたが、ここまで考えなしだとは。王妃に似ていると先日感じたのは思い違いだったらしい。

「殿下。失礼ですが、家出ごっこならまた今度にされては?」

「ごっこじゃないっての。こんなドブ溜まり、もう二度と帰らないんだから」

「ですから、そのような戯言を申されましても……」

「とにかく、さっさと動くわよ! 怪しまれてからじゃ全部が台無しだもの。ほら」

 メルはダナモスに詰め寄り、右手をすっと差し出す。 

「あんたも、こんなとこにいたら殺されちゃうわよ。死にたくなければ黙ってついてきなさい」

 ダナモスは差し出された小さな手を、手を差し出した少女の静かに揺らめく篝火のような瞳を見下ろす。どうやら考えなしなりに、彼女は本気で自分の身を案じてくれているらしい。

「私は、とうの昔に死を覚悟しています。それに、生に対する執着もさしてありませんから」

「煩いわね。あたしはお母様にあんたを頼むって言われたんだから、あんたを危険から守る義務があるの。わかった?」

 返事をする前に、メルはダナモスの手首をぐいと掴んで歩きだす。小さな体に見合わぬ力に、ダナモスは否応なしに引っ張られる。

 メルは窓際で立ち止まり、足元に置かれた麻袋から縄を取り出す。

「それは?」

「見ての通り、縄よ。これがあれば、あんただって下まで降りられるでしょ?」

「私は文官志望だったのですが」

「だったら何よ。文官だって壁伝いに降りるくらいのことはできるでしょ?」

 メルが無邪気に言うと、ダナモスは息を吐く。

「わかりました。ひとまず城下町まではお供しましょう。以前から少し興味がありましたので。もっとも、城下町に着く前に捕らえられる可能性のほうが高いとは思いますが」

「大丈夫、あたしに任せて。作戦があるの」


 細長い地下通路を、ダナモスはしきりに見回す。メルの手元の炎に照らされる石壁には、微細なヒビがいくつも刻まれている。

「そんなに面白い?」

「面白いというか、興味深いですね。古びていますし定期的な管理もされていないようですが、状態は決して悪くない。王都の職人の石工技術が優れていたというのは、どうやら本当のようです」

「そんな話、一度も聞いたことないけど」

「元々王都近辺では建築向きの木材が手に入りにくかったため、石工の技術が発展したそうです。帝国の石造建築にも王国から渡ってきた技術が使用されていると聞きます」

「こっちの技術が帝国に真似されてたの?」

「数世紀前までは、王国のほうが帝国よりも秀でている分野は少なくなかったのですよ。特に石工技術に関しては、帝国は長い間王国に水をあけられていたそうです」

「そうなんだ……それなのに、どうして今はこんな有様なのかしら」

「職人の多くが中立領主の所領に流入してしまったことが一因のようです。腕の立つ職人は大半が獣人ですから、魔族びいきの魔王の下では正当な評価がされにくかったのでしょう。特に当代魔王の治世になってからは、その傾向が加速したようです」

「自分で自分の首を絞めてるのね……。本当、お父様も取り巻きのやつらも馬鹿ばっか。あいつら、あたしがいれば戦争に勝てると思ってるのよ。あたしは史上最強の魔王になるんですって」

 メルは自身の手元で揺らめく紫の炎を見つめる。歴代の魔王に受け継がれてきた、全てを燃やし尽くす冥府の炎。この国を統べる支配者の証。

「だから逃げてやることにしたの。頼みの綱がいなくなったら、あいつらどんな顔するのかしらね」

「逃げて、どこへ行くのです」

「色々考えたけど、やっぱりおじい様のところへ行くのが一番だと思う。で、あたしをダシにして、上手いことお父様を説得してもらう」

「魔王は説得に応じるでしょうか」

「わかんないけど。妻と娘に愛想を尽かされたら流石に心変わりするかも……と娘としては思っておきたいわね」

「王妃殿下にも協力をお願いするのですね」

「うん。お母様も、これ以上不毛な戦いなんて望んでいないはずだもの。まだもうしばらくは向こうに滞在する予定のはずだし、上手いこと合流できるといいんだけど」

「わかりました」

 ダナモスはそれきり黙りこみ、メルはなんだか無性に落ち着かない気持ちになる。

「もうちょい、なんか言ってほしいんだけど」

「なんか、とは」

「いいと思いますとか、全然駄目ですとか」

「それ次第で、あなたは自身の行動を変えるつもりなのですか」

「そういうつもりはないけど……参考意見がほしいなと思って。あんまり認めたくないけどあたし、考えごとは得意じゃないし。その点、あんたはそういうの得意でしょ。文官だけあって」

「あくまで文官志望だったのであって、まだ試験を受けてすらいなかったのですが」

「試験とかあるんだ。でも、あんたなら楽勝でしょ。なんでも知ってるじゃない、あんた」

「私の知識など、実践を伴わない浅薄なものばかりです」

 ダナモスの声に珍しく感情らしきものが滲んでいることに、メルは気づく。

「あんたのお母上も文官なのよね」

「そうですが」

「じゃああんたが文官になろうとしたのも、お母上に憧れて?」

「……ひらたく言えば、その通りです」

 メルはくすりと笑みを浮かべる。

「あんたって腹立つくらいの愛想なしだけど、意外と可愛らしいところもあるのね」

 ダナモスは渋い顔で黙りこんでいたが、やがてほとんど独り言のような静かな調子でこう呟いた。

「母は、帝都の人々の暮らしを変えようと奔走しておりました」

「帝都の人々の暮らしを? でも帝都の人って皆優雅で洗練された生活をしてるんじゃないの?」

「それは一部の貴族や裕福な商人に限った話です。ここ百年で帝都の生活水準は向上しましたが、貧困に喘ぎ、住む場所やその日の食事すら得られない者の数は減るどころか、むしろ増えています」

「……そうなんだ」

「母はそういった、最下層でもがき苦しむ人々の生活を変えたいと願っておりました。そのために既得権益者……すなわち、先ほど述べた一部の上流階級の反感を買うことも少なくありませんでしたが、母は誰が相手であろうと臆することなく、自身の信じる道を貫こうとしておりました。だからこそ」

 ダナモスの声の調子が少し変わる。あの日と同じだ、とメルは思う。きっと今横は向いたら、彼はあの日と同じ、ひどく寂しげな顔をしているに違いない。

「自分の出生について聞かされたとき、私は母に対して、どうしようもなく怒りを覚えてしまったのだと思います。なにせエイスター公といえば、既得権益者の代表のような人物ですから。たとえ母が公に対して慕情を抱いていたにせよ、そうでないにせよ、私は彼女を許せないと思ったのです」

「そっか」

 メルは視線を上げて、ふっと笑む。

「あたしたち、ちょっと似てるかもね」

「どこが、ですか」

「あたしにとっては、お母様が道標なの。馬鹿みたいなやつらに囲まれてても、お母様がいてくれたから、あたしはぎりぎりおかしくならずに済んだんだと思う。お母様の示してくれる道が、あたしの歩く道だった。あんただってそうなんじゃないの? 信じる道を行くお母上を見て、自分もああなりたいと思ったんでしょ」

「……」

「ま、真面目に勉強してたあんたと違って、あたしは生まれてこのかただらだらしてただけだけど……」

 メルはふと思いついたように、ダナモスを振り返る。

「あんた、もしどうしても帝国に帰りたくないなら、あたしの下で働きなさいよ」

「はい?」

「あたしの、なんて言うのかしら……右腕として? 王都に住んでる人たちの暮らしとか、帝国との付き合いかたとか、そういう諸々を相談できる相手みたいな」

「はあ」

「嫌?」

「嫌と言いますか……」

 ダナモスは当惑の滲む声音で言う。

「王妃殿下も、以前同じようなことをおっしゃられていたので」

「お母様が?」

「はい。自身の身に何かあったときは娘を助けてやってほしいと」

「ふうん……そんなこと、いつ言われたの?」

「ザヌド伯の城で軟禁されていたときです」

 その言葉で、そういえば結局聞かずじまいとなっていた疑問を思い出す。

「あんた、どうしてお母様と一緒に来ることになったの?」

「王妃殿下のご意向です」

「いや、それはわかるんだけど……」

 ダナモスはしばし言い淀み、諦めたように息を吐いてから再び語りだす。

「王妃殿下はある日ふらりと、城の一室に閉じこめられていた私をお尋ねになりました。魔王の妃が一体何の用だろうと訝しみましたが、その日は結局たいした話を交わすこともなく殿下は去っていかれました。そして殿下は翌日も、その翌日も、私のところにいらっしゃいました。話の内容は相も変わらずとりとめなく、帝国と王国の違い、政治、交易のことと多岐に渡りました。暇つぶしの相手として使われているのだろうかと思いましたが、ある日王妃は私を城の外まで連れ出しました」

「城の外へ?」

「私は馬車に揺られて、どこかの庭園まで連れていかれました。そこにはひとりの年老いた貴族が待っていて、彼はベンディット伯と名乗りました」

「ベンディット伯が?」

 意外な名前にメルは目を丸くする。王国北東を治める領主であり、稀代の魔術師としても知られるベンディット伯は、他の領主とあまり交流を持たないことで有名だった。

「伯は殿下と同じように、とりとめのないことを幾つか尋ねてきました。その後で、私よりも彼のほうが適任でしょう、とおっしゃったのです」

「適任……」

 メルは怪訝そうな顔で呟いた後、「あっ」と声を発する。

「それってつまり、あたしの……」

 ダナモスは無表情に頷く。

「補佐というか、相談役のようなものになってくれないかというご提案でした」

「それで、なんて答えたの?」

「そんなご提案をなさる意味が理解できませんでしたが……捕虜として捕らえられている以上、命令には従うと」

 ダナモスが答えるや、メルの瞳はきらきらと輝きを帯びる。

「つまり、助けてはくれるんだ?」

「命令ですので。できる範囲で助力はさせて頂くつもりですが」

「なるほど、なるほど」

 くっくっと笑うメルを、ダナモスは薄気味悪げに見やる。

「そこまで言ってくれるなら、あたしも頑張らないとね。こんな下らない戦争さっさと終わらせて、平和で素敵な世界を作りましょ」

「……そうですね。幸い私には、適性もあるということでしたから」

 ダナモスのか細い呟きに、前を歩いていたメルが振り返る。

「なんか言った?」

 ダナモスは「いえ」と小さく首を振る。


 ガコリと音を立てて、地下通路の天井が外れる。

「ここは……」

「城下町の教会の倉らしいわよ。あたしも来たのは初めてだけどね」

 外に出ると、たしかにそこは教会の中庭らしかった。木が一本生えているだけの殺風景な眺めだが、正面に位置する背の高い建物が礼拝堂だろう。

「隠し通路の先が教会というのも奇妙な話ですね。司祭はこのことを知っているのでしょうか」

「代々の秘密らしいわよ。ま、でも」

 メルは礼拝堂の横に付設された、民家風の建物の窓を覗く。

「やっぱりいないみたいね」

「自分の家に帰っているのでは?」

「こういう教会って、大抵礼拝堂と一緒に司祭様や見習いの人たちの住むところがくっついてるのよ。だけど、見た感じは誰もいない」

「それは……どういうことでしょうか」

「戦争に駆り出されたんでしょ。司祭なら治癒魔術のひとつも使えるだろうし、若い男なら急ごしらえの兵士になるし」

「神に仕える者たちを戦に駆り出しているのですか」

「だって、もう兵士がいないんだもの。味方してくれる領主も自分の傘下の兵もどんどん少なくなってるんだから、この際なりふり構ってられないでしょ」

 ダナモスは建物に近づき、窓の向こうの闇を覗く。

「女性も戦地に駆り出されたのでしょうか」

「うーん……女の人は、たぶん逃げちゃったんじゃない?」

「逃げる?」

「北のガルプ伯領とか、おじい様のところとか……周辺の中立領にどんどん王領から人が流れこんでるらしいわよ」

「家も職も捨てて逃げているということですか」

「らしいわよ。まあ、仕方ないんじゃない? 何を生業にしてるにせよ、こんな都じゃ商売上がったりだろうし、家はお父様に燃やされちゃうし」

「家を燃やされる?」

「戦に勝つためには、都そのものを贄として捧げる必要があるんですって。あたしには燃え滓が無駄に増えてるだけとしか思えないけど」

 通りに出ると、辺りは奇妙なほどの静寂に包まれていた。皆寝静まる時刻だから、というだけでは説明できない、時が止まったかのような無音の世界。

「この通りも、昔お母様と一緒に来たときは結構賑やかだったんだけどね。酒場とかがたくさんあって……教会のすぐ近くに酒場って、それもどうなのって思ったけど、こんな風景よりは百倍マシよね」

 見渡す限り、開いている店はひとつもない。家主が長い間帰っていないのか、半ば朽ち果てたような家屋も目立つ。細い月明かりが寒々しい印象をいっそう引き立てる。

「どう?」

 メルはダナモスを振り返ると、客人を歓迎するように優雅に一礼する。

「これが王都。魔王の治める都よ。さあ、帝都からのお客人のご感想は?」

 ダナモスは痛ましげな視線を周囲に投げかける。

「率直に言って、ここまでひどい有様だとは思っていませんでした」

「ここと比べれば、お城の中は天国でしょ? あたしは天国からこの地獄を遠巻きに眺めて、あたしはちゃんと見てる、逃げてないって自分に言い聞かせてたの」

 メルの口調は、あくまで穏やかだった。

「ずーっと昔から……ダナモスが生まれるよりずっと前から、あたしはそうやって逃げ続けてた。どうにかしてお父様を止めなきゃいけないってわかっていながら、ずっとお城でぐだぐだしてた。そのツケがこの景色なんでしょうね。……あら」

 メルは呟き、通りの隅にぽつんと置かれた、ボロ切れをつぎはぎしたような包みに近づく。

「あなた、何してるの?」

 それは包みではなく、人だった。薄汚れた布で体を包んだ、まだ年端もいかない獣人の子ども。獣人の子どもは男女の区別がつきにくいが、おそらく少年だろう。

「どうしたの? こんな時間に、こんなところで」

 子どもは丸く黒い瞳でメルをまじまじと見る。清潔な薄灰色の外套に身を包んだメルは、彼の目にはさぞかし奇異に映っていることだろう。

「お姉さんはどこから来たの?」

「あたしたちはね……ええと、北のガルプ伯が治めていらっしゃるところから来たの」

「これから王都に住むの?」

「ううん、東のほうにある町へ行くのよ」

「ふうん。じゃあ、お母さんとおんなじだね」

「お母さんとおんなじ?」

「お母さんはちょっと前に、お兄ちゃんと一緒に出ていったんだ。行き先は教えてくれなかったけど、あっちに歩いていったから、きっと東門を出て東の領主様のところに行ったんだよ」

 メルは地面にしゃがみこみ、子どもを見つめる。

「あなたはどうして、ついていかなかったの?」

「ぼく、あんまし脚が良くないんだ。だからお母さんは、ぼくを置いてったんだと思う」

「そっか……。食事や水はあるの?」

「水は大丈夫。井戸もあるし、ちょっと歩けば泉に着くし。食事はもう、あんまりない」

「じゃあお姉さんたちのを、ちょっとだけ分けてあげる」

 メルは麻袋から干し肉やチーズを取り出し、子どもに差し出す。

「ちまちま食べれば数日ぐらいは保つと思う。ごめんね、ほんのちょっとだけで」

「ううん、ありがとう。お母さんは、食糧をたくさん持ってすぐ戻ってくるって言ってたから。だからぼく、毎日ここで待ってるんだ」

「そう。お母さんが無事に戻ってこられるといいね」

「うん。お姉さんたちも気をつけて」

 子どもに別れを告げて、メルとダナモスは通りを下る。少し歩いてから振り返ると、子どもはまだこちらを見ていた。

「ごめんね。持ってるだけ全部、渡しちゃった」

「狩りでもして、現地調達しますか」

「狩りなんてやったことあるの?」

「いえ」

「そうよね。あたしも経験ないわ。それに、何か捕まえることができても生じゃ食べられないでしょうし。火は魔術で用意できるけど」

「魔王の炎で調理された料理ですか。あまり食欲が湧きそうにないですね。それより」

 ダナモスは背後に視線を向ける。

「今の子ども、放っておいて良いのですか」

「食糧は渡したじゃない」

「たしかに、あれで当面は凌げるでしょうが……」

 ダナモスは言いにくそうに、眉を寄せる。

「あの子の母親は、もう戻ってこないでしょう」

「そりゃそうでしょ。あんな小さな子だけ残して遠出なんてありえないもの」

「あの子も連れていけないでしょうか」

「無理よ。脚が悪いって言ってたでしょ」

「私が背負っていきますので」 

「その分、足が遅くなるでしょ」

「殿下には先行して頂いて……」

「あんた、王国の土地勘なんてないでしょ。ふらふら迷ってるうちに、お父様の追手に捕まるのがオチよ」

 メルはそう言い放ってから、ダナモスの表情に気がつく。

「そんな顔、しないでよ」

 一見すると冷静な、いつもの彼と何も変わらぬ顔。しかしよくよく見ると、今にも雨が降りだしそうな、深い悲しみの滲み出ている顔。

「あんたっていつもつまんなそうな顔してるくせに、案外表情がわかりやすいのね」

「そうでしょうか」

「そうよ。優しいのね、ダナモスは」

 メルは少し歩調を速める。

「あたしだって、あの子を助けたいと思う。だけどあの子と一緒だと、どうしても足が遅くなる。あの子を助けた結果、おじい様のところに着くのが遅れちゃ本末転倒よ」

「……はい」

「だから少しでも早く、死ぬ気で突っ走っておじい様のところに向かうの。そうすればあの子が死んじゃう前に、ここまで帰ってこられるかもしれないでしょ。んで、あの子と同じように苦しんでる人たちも皆助けてあげて、一件落着……っていう風に、とんとん拍子で進んでくれるといいんだけど」

 メルはため息を吐いてから、首を左右に振る。

「弱音吐いてても始まらないわね。ちょっと突っ走るわよ。まだ気づかれてないと思うけど、夜が明ける前に東の森に入っちゃいましょ」

「と申されましても、この暗闇の中を走るのは無謀では」

「大丈夫よ。あたし、わりかし夜目は利くほうだから」

「殿下が良くても、私がですね……」

 言い終える前に、ダナモスの体はふわりと宙に浮く。

「ちょっと黙ってたほうがいいわよ。危ないから」

 ダナモスを小脇に抱えたまま、メルは軽く腰を落とす。そして地面を蹴ると、疾風のごとき勢いで夜の通りを駆け抜けていく。

「……あの」

「だから黙ってなさいって。舌、噛むわよ」

「はい。ただ、ふと……これならあの子も連れていけたのでは、と思ってしまったのですが」

「あたしのこと、なんだと思ってるの? か弱い乙女が両手に大荷物抱えて旅なんてできるわけないでしょ」

「はあ」

 稲妻のように通りを抜け、東門が間近に迫る。巨大な棺のような門は、重く閉ざされている。門の脇では篝火が揺らめいている。

「流石に中身がこんな有様でも、ちゃんと見張りは立ってるみたいね。仕方ない、少し迂回して街壁を越えるか……」

 そう呟いた直後、門が開く鈍い音が空虚な通りに響いた。

 メルは慌てて物陰に身を隠し、辺りの様子を伺う。

「こんな時間に訪問者? でも、門は夜中の間は閉ざされてるはずなのに……」

 開いた門の向こうから、馬車が姿を現す。

メルは目を凝らすが、流石に距離があるので朧げな輪郭以上のものは捉えられない。

「この時間でも門を開けさせられるほどの要人、ということでしょうか」

「そうね。紋章か何かが見えればいいのだけど」

 どのみち今の王都を訪れる者など、父のお仲間に決まっている。なんとしても見つかるわけにはいかない。

「じっとして、なるべく息を潜めてて。あんたでかいから、地面にへばりついたほうがいいわね」

「はい。どのみち、メル様に押さえつけられてるので動けませんが」

「あ、ごめん……」

 呼吸を殺し、近づいてくる車輪と蹄の音が通り過ぎるのを待つ。音が間近に迫り、眼前の通りを行き過ぎんとしたそのとき―馬車はぴたりと、動きを止めた。

 ……嘘でしょ。

 茫然としたのもつかの間、メルはダナモスの腕をすっと掴み取る。こうなれば、強行突破するしか―。

 馬車の扉が開き、中から人影がふわりと躍り出る。

 メルは思わず顔を上げ、目にした姿に言葉を失う。

「お転婆が過ぎるわよ、メル。あら、ダナモスも一緒なのね。丁度良かったわ」


 ガタゴトと音を立てながら進んでいく馬車に揺られながら、王妃だけが涼しい顔をしている。

 メルは思いつめたように顔を伏せている。ダナモスは相変わらず無表情ながら、その眉間には常よりも深い皺が刻まれている。

 メルは俯いたまま、ぽつりと口を開く。

「ジーナが殺されちゃったの」

 王妃は口を挟まず、ただ頷く。

「ダムラも……辞めさせられたって聞いたけど、きっと殺されたんだと思う。城で働いてた人を、無事に外へ出すとは思えないもの」

 メルは顔を上げ、正面に座る母を見据える。

「お母様、お願い。今から引き返して。あたしとお母様がいなくなれば、お父様もきっと目を覚ますはずだから」 

 母は穏やかな顔で、首を横に振る。

「お父様は、変わらない。百年以上あの人と連れ添った私が言うんだから、間違いないわ」

「……そんなこと」

「あの人はね、根がとっても真面目なの。だから、誰よりも魔王に相応しい人物であろうとしてる。たとえ周りに誰もいなくなったって、あの人はあの人の信じる魔王の在り方を貫くわ」

「馬鹿な格好して、愚かな振る舞いをするのが魔王なの?」

「ずっと何代も受け継がれてきた、魔王の在るべき姿がそれなのよ。あの人はただ、その理想に忠実であろうとしてるだけなの」

「だからって罪もない人たちを苦しめていいの? ……あたしは、そんな魔王には絶対ならない。もし万が一、あたしに機会が与えられるなら、そんなくだらない伝統は粉々にぶち壊して、皆が幸せに暮らせる国を作る」

「そうね。メルなら、きっとできるわ」

「あたしひとりじゃ無理よ。お母様も手伝って」

 王妃はゆっくりと、想いを込めるように頷く。

「ええ、約束する。私は必ず、あなたを見守り続ける」

「本当に?」

「ええ。たとえこの身が朽ち果てようと、私はメルの味方だもの」

 ダナモスは王妃から目を背けるように、じっと俯いている。

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