罪と誓い⑤
メルとダナモスは、馬車の中に身を隠したまま城に帰還した。
「ふたりでしばらく、人目につかないところに隠れてなさい。また逃げたりしちゃ駄目よ」
「お母様、どうするつもりなの? 結局おじい様はお父様に加勢することに決めたの?」
王妃は首を横に振る。
「おじい様は決して戦争を支持することはないわ。これ以上の戦いが無益だと理解してらっしゃるもの」
「じゃあお母様はお父様を、降伏するよう説得しに行くの?」
「そうね……お父様がどれだけ聞く耳を持ってくれるかわからないけど、あの人と話してみる」
「それで、もしお父様が考えを変えなかったら?」
「そのときは、メルの番ね」
「あたしの番?」
「そう。だから、そうね……あの月が空の天辺を過ぎた頃に、雪竜の間に来なさい」
「雪竜の間……」
そこは魔王とその縁者以外は立ち入りを禁じられた、城で最も神聖な場所だった。
「どういう結果になるにせよ、その頃には私の話は終わってると思うから」
「わかった。頑張ってね、お母様」
「ええ。それと、来るときはダナモスも一緒にね」
「ダナモスも? 雪竜の間なのに?」
「彼にお願いしたいことがあるの。……来てもらえるかしら?」
王妃に視線を向けられ、ダナモスは顔をわずかに逸らした。それでも彼はかすれた声で、「わかりました」と答えた。
「それじゃあ、また後でね」
ふわりと軽い笑みを浮かべた母を、メルはどこか釈然としない気持ちで見送った。これからこの国の命運を決する話をしにいくというのに、あの軽やかさは何だろう。まるで、すでに結末を知っているかのような。
ふと我に帰ると、すでに母の姿は見えなくなっていた。
妙な考えを払うように首を振り、メルは歩きだす。
「行きましょ。お菓子でも食べながら呑気に待ってれば、すぐに良い知らせが飛びこんでくるわよ」
メルは窓際の椅子に腰かけ、黒い空を見上げていた。その唇は、傍にいる者にだけ聞き取れるほど小さな声で歌を口ずさんでいる。
「……その歌」
メルは、すぐ横に控えるダナモスを振り返る。
「聞き覚えがあります。岬の歌と言いましたか」
「たしかに、岬についての歌だけど」
じろりと見据える瞳に、ダナモスはたじろぐ。
「なんですか、その目は」
「いや、だって。あんたがこの歌のこと、知ってるとは思わないじゃない? お母様の故郷の歌よ、これ」
「そうなのですか。ですが、妙ですね」
「何がよ」
「私の記憶が正しければ、その歌は私の母の故郷の歌だからです」
「……あんたのお母上の?」
「はい」
メルはふうんと呟き、椅子に体を凭れかけさせる。
「まさかとは思うけど、あんたのお母上、魔族ってことはないわよね」
「魔族が帝都の官吏になれるわけがないでしょう」
「そうよね。じゃあ、なんだって」
「私の母はエイスター公領の北部、ファロールの森に程近い土地の出身です」
「へえ。てことはつまり、おじい様の領地とは森を隔てたお隣ってこと?」
「そうなりますね」
「じゃあ、死霊の彷徨う森を伝って歌が届いたのかしら。―ああ、それか」
メルはぽん、と軽く手を打ち合わせる。
「死霊の声だと思ってたものは、実は森の向こうに住む人たちの声だったりして。森の向こうの人には、こっち側の声が死霊の呻きみたいな恐ろしい声に聞こえちゃうの」
「おかしなことを考えますね。ですが、そう考えると納得がいくこともあります」
「納得?」
「今しがたの歌です。大筋は記憶の通りですが、ところどころの音程がずれていた。きっと今の歌を森の向こうから聞くと、私の記憶通りの歌になるのでしょう」
「遠回しに音痴って言ってるでしょ」
「いえ、決してそのようなことは」
真面目な顔で言うダナモスを、メルは軽くこづく。
「……下手な冗談は置いておくとして、あんたのお母上、今の話からするとあれじゃない」
「あれとは」
「エイスター公領の出身ってことは、地元であんたのお父上と出会ったんじゃないの?」
「おそらくは。母の故郷の近くには、公爵家の所有する屋敷がありますので」
「そうしたらふたりが出会ったのって、あんたが前言ってた理由じゃないんじゃないの? その……仕事のためだとかどうとか、言ってたでしょ」
「ああ。そうですね、あれは私も本気で言ったわけではありません」
「……あんたね」
「エイスター公は生まれつき体が弱く、成人する頃までは森の近くの屋敷で静かに暮らしていたそうです。母が語ったところによれば、公は周囲の村人からも慕われる優しい人柄の持ち主で、常に平民の味方であらんとする人だったと」
「それがなんで、悪徳権力者の代表みたいな人になっちゃったのかしら」
「さて。そこについては母も言葉を濁しておりました。ですが」
ダナモスは椅子の背凭れに寄りかかり、瞳を閉じる。
「今にして思えば、母は昔から公の話をよく口にしておりました。その大半は彼を批判する言葉でしたが、少なくとも彼を強く意識していたのは事実でしょう」
「今でも、愛していたのかしらね」
「どうでしょうね。どのみち、もはや知りようもないことですが」
「そんなことないでしょ。国に戻って、お母上に聞いてみればいいじゃない」
「もう国に戻るつもりはありません。私は死んでいたほうが、母は安全です」
「そりゃそうかもだけど……あ、なんだったらお母上をこっちに呼ぶ?」
「母には帝国で為すべき使命があります」
「あっそ。強情ね。でも、そのうち……なんならあたしが取り計らってあげるから、会いに行ってきなさいよ。あんたもお母上もまだ生きてるんだから、ちゃんと会っとかないと損よ。それまではあたしがこき使ってあげるから」
「またその話ですか」
「またって何よ。あたし、本気で言ってるんだけど」
「帝国人など、数十年もすれば物言わぬ屍と化しますよ」
「それならそれでいいわよ。この国に住んでる人のほとんどは、あたしより短い時間しか与えられてないんだから。阿保な魔族ばっかりじゃなくて、あんたみたいなのが身近にいてくれたほうが皆の心に寄り添えると思うの」
「左様ですか」
ダナモスの口調は変わらず淡々としていたが、その声には最初に出会った頃のような棘はもうなかった。
「どのみち、今の私は生ける屍のようなものです。使いたければ、お好きなようにお使いください」
「ほんとに?」
煌々と目を輝かせるメルから、ダナモスはふいと目を背ける。
「そんなにたいしたことはできませんし、あなたがこの国を治める頃に私が生きているかも定かではありません」
「そうね。そもそも、そんな日が来るのかも怪しいし」
メルは窓の外に目をやり、暗闇に包まれた地上を見下ろす。たとえ朝が来て太陽が昇っても、この町には暗い影が降りたままだ。父と、父を止めることのできなかった自分たちがこの光景を生みだした。
それでも、もしあと一度だけやり直す機会を与えてもらえるなら、傷ついたこの町を甦らせたい。帝都に負けないくらい、華やかで美しく、そして誰もが温かな暮らしを送ることのできる、そんな場所を創りたい。王都のみならず、国のあちこちにそんな場所を創りたい。
想いを抱えて、メルは空を仰ぎ見る。
その視界を青白い光が横切っていく。
「え……」
それはほんの一瞬の、目の錯覚かと思うような煌めきだった。すでに視界は黒い雲に覆われ、一粒の光も見当たらない。
それでもメルはたしかに、その光の筋を見た。それは東塔の最上階―すなわち、雪竜の間のある場所から現れたように見えた。
メルは窓から飛び出し、跳ぶように外壁を駆け上がる。
窓から雪竜の間に飛びこむと、見慣れた柔らかな笑顔がメルを出迎えた。
「ああ、やっぱり気づかれちゃったのね。できるだけ静かに済ませたつもりだったんだけど」
「……お母様?」
焦点の合わぬ目で、メルは母を見る。目の前の光景を理解することができない。目に映るのはただ、薄闇の中に立つ母。母の手元の何か。そして、母の足元に転がる何か。それだけだ。
「メル」
名前を呼ばれ、メルは顔を上げる。
「ごめんなさい。前もって告げもせず、こんなものを見せてしまって」
母は腰を落とし、手元にぶら下げたものを足元に置く。床に置かれた灯りが、否応なしにその輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。メルの視線は、嫌でもそれに吸い寄せられていく。凄絶な笑みを浮かべた父。まるで自分の身に何があったのか理解できぬまま、首を撥ねられたかのような。
「この人はね」
父の亡骸を見下す母の目は、奇妙なほど優しく、父に対する慈しみに溢れているように見える。
「さっきも言ったけど、根がとっても真面目なの。魔王の名を受け継いだ以上、誰よりも魔王に相応しい人物であろうとしていた。誰よりも恐れられ、誰よりも強い存在。だからきっと、魔王の妃の方が魔王よりも強い、なんて状況は到底耐え難いことだったでしょうね」
母は、父の瞼をそっと閉じる。
「じゃあ自分より強い相手と結婚するなって話なんだけど、そこもこの人は馬鹿みたいに真面目で、最強の魔王を生みだすために結婚してほしい、なんて言うのよ。まったく、もう少しマシな口説き文句はなかったのかしらね」
「……お母様。教えて」
尋ねる声には、当惑や怒りよりも、ただ悲しみが滲んでいた。
「どうしてこんなことをしたの。これがお母様の答えなの? それとも、おじい様に命じられたの?」
母は、父から目を離さずに首を横に振る。
「これは、私自身の答え。私が考える、一番犠牲が少なくて済むやり方なの。この人はね、たとえ全てに見放されようと、自分のあるべき姿を頑なに貫こうとするはずだから。そんな人が今更説得を聞き入れてくれると思う?」
「それは、そうかもだけど」
「だからね、こうやってすっぱり終わらせてあげるのが一番なのよ。そうすればこの人を殺すためにたくさんの帝国の兵士が犠牲にならずに済むし、戦争が早く終われば、それだけこの国の復興も早まるわ」
「だからって、なんでお母様がお父様を殺さなくちゃならないの。他にもっとやりようがあったはずよ。お母様は、こんな結末でいいの?」
「もちろんよ」
躊躇いなく言い切った母を、メルは怯えた瞳で見つめる。
「お母様は、お父様を殺したいほど憎んでいたの?」
「いいえ。私はこの人を」
母は、躊躇うように目を伏せる。
「憎んではいなかったわ。愛していたかはわからないけど、この人の傍にいることが、決して嫌ではなかった。だけど、なんというか、申し訳なかったのよ。私が傍にいるせいで、どんどんこの人は壊れていって、私にはそれを止める力がなくて。……ううん、違うわね。止めることができたのに、私はずっとそれを躊躇ってきた。だから私も結局、この人と同罪なのよ」
母が立ち上がるのとほぼ同時に、階段を駆け上る音が聞こえてきた。
「ああ、これでふたりとも揃ったわね」
ほどなくして、息を切らしたダナモスが部屋に飛びこんでくる。彼は部屋の中の光景を見るなり、愕然と目を見開く。
「殿下……これは」
「ねえ、ダナモス。いつかお願いしたことの答えは決まったかしら?」
ダナモスは痛ましげな表情で王妃を見つめていたが、やがて頷く。
「はい。私は……」
ダナモスはそこで、一拍を置く。
「もし許して頂けるなら、私は王女殿下のお側に仕えさせて頂きたいと考えています」
そして間髪入れず「しかし」と続ける。
「私はあくまで、今の私のまま、この方に仕えたいと願っています」
メルの耳に、ダナモスのその言葉はひどく奇妙に響いた。
……今の私のまま?
王妃は微笑みを浮かべたまま、きっぱりと首を横に振る。
「残念だけど、それは無理よ。この国はまだまだ、あなたのような人が生きていくには物騒すぎるもの。降りかかる火の粉を払えるだけの力があなたには必要よ」
「ねえ、お母様。一体何を言ってるの? ダナモス、今の私のままってどういう意味? 今のあんたのまま以外に、どんな仕え方があるっていうの?」
母はメルに、静かな笑みを向ける。
「メル。ダナモスには、魔族としてあなたに仕えてもらいます」
母の言葉の意味を、メルは理解することができなかった。
「……魔族として?」
「ええ。帝国人の身でありながら、魔族の力を併せ持つ者。そういう存在に、これからなってもらうの」
「何よ、それ。そんなことできるわけ……」
「できるのよ」
王妃は腰に提げた短剣を、すらりと抜き放つ。一切装飾のない、一見してなんの変哲もない短剣。しかしよくよく見ると、その刀身には無数の文字が刻みこまれている。
「継承儀と呼ばれる魔術があるわ。力を、ある者から別の者に受け渡す術よ。成功のためには、魔術の技量よりも生まれ持った素養が重要なのだけど、幸いダナモスには適性があった」
王妃は短剣をダナモスに差し出す。
「さあ、ダナモス。この短剣で私を殺しなさい。そうすれば、私の力はあなたに受け継がれることになる」
「何言ってるのよ、お母様」
ふつふつと、静かに煮えたぎる声でメルは言う。
「わからない? この剣で私を殺せば……」
「お母様」
母は依然として笑みを浮かべたまま、かすかに眉を寄せる。
「黙っていてごめんね、メル。でも、ずっと前から決めていたことなの。あなたを託せる人が見つかったら、私はこの人とともにこの世を去る。それが私にできる、唯一の贖いだから」
「お母様が死ぬ必要なんて、ないじゃない」
メルは幼子のように、弱々しい声を漏らす。
「お母様がずっと、あたしの傍で、あたしを見守ってくれればいいじゃない」
母は視線を落とし、伴侶の亡骸を見やる。
「私は魔王を殺したわ。すでに多くの人から見放されていたとはいえ、この人はこの国の王だったのだもの。この人に付き従っていた者たちを納得させるために、けじめはつけないといけない。それに、この人をひとりで逝かせてしまうのは、流石に偲びないもの」
王妃は柔らかく毅然とした表情で、メルとダナモスに向き直る。
「だから、あなたたちにお願いしたいの。壊れてしまったものを直してほしい。壊れる前よりもっと素晴らしいものを生みだしてほしい。その手始めに、反逆者を誅する。メル、それがあなたの、魔王としての最初の使命よ」
「勝手なこと、言わないでよ」
メルは俯きながら、わなわなと肩を震わせる。
「ダナモス。あんたはどうなのよ。お母様を殺してまで、力を得たいなんて思うの?」
「……私は」
ダナモスは王妃の差し出した短剣に目を落とし、呟く。
「自分の生が、少しでも世の在り方を変える糧になれば良いと、そう願っておりました。あの森で生死の境を彷徨い、王国へ流れ着き、その願いは完全に潰えたと思っておりました。ですから、もしもう一度機会が与えられるなら、私は喜んでその機会を掴み取ります」
ダナモスは顔を上げて、王妃を見据える。
「決意は変わらないのですか」
「ええ。こんな言い方は卑怯かもしれないけど、私は、私の罪を裁く者がいないなら、自身の手で私を断罪するわ。私は王妃として、そしてこの人の伴侶として、犯してはいけない罪を犯したのだもの」
王妃は少しだけ表情を緩めて、メルを見る。
「この子をひとりにしないでほしいの。だから、お願い」
「左様ですか」
かすかに呟き、ダナモスは腕を上げる。
「でしたら私にできることは、あなたの想いに応えることだけです」
メルはダナモスに駆け寄ろうとしたが、突然強い力を身に受け、壁に叩きつけられた。すぐに体勢を立て直そうとするが、見えない糸が体に張り巡らされているかのように身動きが取れない。
「お母様っ! こんなのって……」
「メル。あなたは、きっと誰よりも素晴らしい王になる。私の目でそれを見届けられないのは残念だけど、代わりにダナモスが全て見ていてくれるわ。だから、何も怖がることなんてないのよ」
眩い光が視界を覆う。その瞬間、メルは驚くべき変貌を目にした。ダナモスの灰色の長い髪が、光に染まるように輝きだし―。
そしてその変貌は、突然止まった。
メルは唖然と、薄れゆく光の向こうの光景を見る。
「ダナモス」
穏やかな表情を崩さぬまま、王妃は言う。
「まだ儀式は完了していないわ。最後まで、きちんとやり遂げて」
「……できません」
ダナモスは血に濡れた短剣を手にしたまま、震える声で言う。
王妃は血に染まる口元に、くすりと笑みを浮かべる。
「ついさっき、できるって言ってたじゃない」
「できると思いこんでいたのです。これが私に与えられた使命なのだと、私が今日まで生き永らえてきたのは今このときのためなのだと、そんな風に自分に信じこませて、この短剣を振りかざしました。ですが、それが私にできる精一杯でした。私は、母を娘の目の前で殺めることができるほど強くはありません。私は王妃が期待されているよりもずっと弱い者なのです」
「弱いんじゃなくて、優しいのよ。それがあなたの、あなたたちの素晴らしいところ。これからこの国を治めていくために必要な、大切なもの。だけど今このときは、その優しさを捨てなさい。その優しさは、傷つき倒れた人たちのために取っておきなさい。―メル」
母に名を呼ばれ、メルは弾かれたように顔を上げる。
「お父様は、代々の魔王はただただ壊し続けた。周りの人を壊し、焼き払い、そうするうちに自分自身をも壊していった。あなたはそうじゃない。壊れたものを癒し、美しいものを生みだす。それがあなたの願いでしょう? そのためには何が必要?」
「……あたしは」
メルはよろよろと、小鳥の雛のように覚束ない足取りで立ち上がる。
「あたしは……素敵な国を創りたいけど、どんな国が素敵な国なのか、どんな国を創れば皆が喜んでくれるのか、よくわからない。あたしには、いろんなことを教えてくれて、あたしが間違ってたら遠慮なく意見してくれる、そんな人が必要」
メルは今にも泣きだしそうな瞳で、王妃を見つめる。
「お母様は、そういう人にはなってくれないの?」
王妃はゆっくりと頭を振る。
「私の役目はここまで。私たちの罪は、私たちが背負う。メルには別の役目があるから、もう一緒にはいられない。だけど私の瞳は、これからもあなたを見守り続ける」
「……そっか」
メルは俯き、やがて再び顔を上げる。
「ダナモス」
静かに波打つ夜の海のような、月と星が浮かび上がる夜の空のような声。
「もう一度、答えを聞かせて。あなたは、あたしを助けてくれる? 光の差さない闇の底で、あたしを導く灯火になってくれる?」
「……私は」
ダナモスは俯き、黙りこみ、それでも最後には再びメルを見据えて言った。
「私にその役目が務まるのか、今の自分には何の確証もありません。私はあまりにも無力で、未熟で、あなたが求めるものを何一つ備えていないかもしれません。それでもよろしければ」
ダナモスの視線が揺れると、王妃は笑みを湛えて頷いてみせる。
「私はあなたに、生涯の忠誠を誓います」
「ありがとう」
メルの菫色の瞳が、王妃をまっすぐ見据える。王妃は赤子を抱き寄せるように、柔らかな微笑みのままそれを受け止める。
すう、と息を吸い、メルはその言葉を告げる。
「第七代魔王イシュルメールの名の下に、臣下ダナモスに最初の命を下すわ」
「……かくして、黄昏の世は終わり、新たな世が産声をあげたのです」
歌い終わると、メルはぺこりと頭を下げる。それを合図に、客席―たった三人の客だが―と背後のカウンターから拍手が上がる。
「や、良かったよ。お姉さん、良い声してるね」
「よく見りゃ美人だし、舞台役者もいけるんじゃないかい?」
メルがぺこぺこと頭を下げ続けていると、客のひとりが何気ない調子で呟いた。
「しかし、そうするとやっぱり、王妃が魔王を殺したってのは本当だったのかね」
メルは商人たちに向き直り、にこりと笑む。
「諸説あるのですが、王妃が魔王とともに死んでいたというのは事実のようです」
「しかし、いくら王妃も魔族とはいえ、ひとりで魔王の息の根を止めるなんてことが本当にできたのかね?」
「一説には、王妃は魔王をも上回る力を持っていたとも言われています」
「王妃が?」
「そのことが、よりいっそう魔王の狂気を深めることになったとも。全て噂話の域を出ませんけどね」
「なるほどなあ……しかし、夫婦で殺し合うたあ、酷い話だよな。それだけ王妃も思い詰めてたってことなんだろうが」
「そうさな。まあ、一緒に天に召されたのがせめてもの救いだが……考えてみりゃ、そこもどうなんだろうな」
「どうっていうのは」
「や、さっきの歌だと魔王と王妃は相討ちだったがよ。もし王妃のほうが強かったなら、王妃だけが生き残っちまったっていう可能性もあるんじゃないかい?」
「じゃ、あれかい。生き残った王妃は、今もどこかでひっそり暮らしてるとか?」
「それか、夫殺しの罪に耐えかねて自ら命を絶ったか……お姉さん、なんか知ってるかい?」
「色々な噂がありますが、今となっては真実は闇の中……それこそ、魔王その人の胸のうちにしまいこまれているのではないでしょうか」
メルが城に帰ったのは、月が天の頂をとうに越えた頃だった。
倉庫の隠し出口からそろそろと這い上がると、眼前に背の高い人影があった。
「あら、出迎えご苦労様」
「なかなかお戻りにならないので心配しましたよ。罪なき民にくだを巻いてるのでないかと」
「ちょっと昔話をひとくさりね」
「昔話?」
問いかけに答えるように、メルはその歌の最初の一節を口ずさむ。
「ああ、随分と懐かしい歌ですね」
「本当にね。歌ってるうちにいろいろ思い出しちゃった」
「いろいろ、ですか」
「たとえば、そうね……あなたって、昔はもっと堅物だったわよね。いつの間に、こんなちゃらんぽらんになっちゃったのかしら」
闇の向こうで軽い笑い声が立つ。
「異国の都で百年も過ごせば、人も変わります。なにせ本当なら私など、とうに物言わぬ骸と成り果てていますからね」
「……そうよね」
通説では、王妃は魔王を殺し、自身も魔王から受けた傷が元で命を落としたということになっている。異説も幾つかあるが、それがこの国の正史である。狂気に取り憑かれた魔王は断罪され、下手人たる王妃もともに斃れた。血に濡れた時代は終わり、終戦とともに新たな魔王の世が始まった。
「さ、気分転換できたなら、さっさと寝てください。明日も朝から予定がぎゅうぎゅうですよ」
「はーい、わかったわよ。おやすみ」
「はい、おやすみなさいませ」
軽く頭を下げたダナモスと一瞬目が合いそうになり、メルは無意識に目を逸らす。メルは、ダナモスの瞳をまっすぐ見ることができない。だから馬鹿げた仮面を着けさせて、美しい藍色の瞳を視界から遠ざけている。そんな風にしてここ百年というもの、彼女はずっとその瞳から、昔から変わらず彼女を見守り続けている瞳から目を逸らし続けている。
メルは顔を覆う布と帽子を取り、長い翠色の髪を外気に晒す。窓から忍び込んだ夜の風が、その髪をたなびかせる。
「夜の通りに人はなく……」
陰鬱な旋律を口ずさみながら塔の上階へと昇っていくメルの足取りは軽やかで、その心は仄かな火が灯ったように温かだった。それはおそらく、酒のせいばかりではない。あまり認めたくはないが、ダナモスと話していると妙に心が落ち着く。彼がいてくれなかったら、今頃自分はどうなっていただろうと思うときがある。
「あるのは、子らの啜り泣き……」
メルは塔の最上階の窓から顔を出し、暗闇に包まれる町を見下ろす。闇の中にはまだ、ぽつぽつと明かりがある。耳をすませば、夜の町を行く人々の陽気な笑い声が聞こえてくる気がする。
「父は帰らず、母も今や物言わぬ屍……」
もちろん、問題は山積みだ。その日食うものにも困るような暮らしをしている人々は、今も多い。帝国との関係も、綺麗事ばかりでは立ちゆかない。肝心要の魔王は、未だに自身の罪を直視することすらできていない。
「魔王の都に、光は差さぬ……」
そう歌うメルの瞳には、冬の夜空を照らす星のように強い光が宿っていた。
「寝よっと」
そう呟き、廊下を進んでいくと、寝室の手前に小柄な人影を見つけた。
呆れ顔で主の帰りを待っていた少女に、メルは許しを乞うように手を打ち合わせながら、とてとてと駆け寄っていく。
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