海辺の旋律①
王都の港には、帝国領から交易のために訪れた船が何隻も並んでいる。帝国よりさらに南方の島国から運ばれてきた香辛料や美しい絹布と引き換えに、彼らは王国の氷石や聖水を持ち帰る。
積荷を下ろす船乗りたちに混じり、ふたりの人物が船から降りてくる。
前を行く人物は魔術師風のゆったりとしたローブに身を包んだ老爺である。帝都から乗ってきたならば結構な長旅だろうに、特段疲れた様子も見せずにしゃきしゃきと歩いている。
それとは対照的に、老爺に続いて現れた青年は、今にも行き倒れそうな表情で甲板から降りてくる。ローブの下から覗く髪は見事な銀髪だが、その下の顔はまだ若い。長身の痩せた体躯に、色の白い細面の顔は、いかにも苛酷な船旅には不向きなように見える。
老爺は、にこにこと笑みを浮かべたまま青年を振り返る。
「おや、まだ船酔いが治らんのかい? 魔術師たるもの海上の揺れくらい、ただちに順応できなくてはいかんよ」
「いえ、船酔いはだいぶマシになってきたのですが、先ほどの大烏賊の襲撃の余韻がまだ残っていまして……」
「ああ、あったなあ。近頃は大烏賊もあまり姿を見かけなくなったし、運が良かった」
「……そうでしょうか。危うく、船が沈みかけましたが」
「そうだったかね? だがおかげで、かの有名な人魚の傭兵隊に助けてもらえたじゃろ?」
「それはそうかもしれませんが……うっ」
酔いがぶり返してきたのか、青年は口元を抑えて呻く。
「まあ、アインは昔から体が丈夫なほうではないからのう。今日は体を休めて、本格的に動くのは明日からにするか」
「すみません……」
「それじゃあ宿を取って軽く休憩したら、観劇と洒落込もうかの」
「……観劇?」
「王都といえば、劇の街。王都に来てまずすべきこととはすなわち、観劇じゃよ」
「お言葉ですがラジン様、本格的に動くのは明日からなのでは?」
「それはそれ、これはこれじゃよ。老い先短い身の一日は貴重だからね」
ラジンは意気揚々と歩きだし、アインはよろよろとそれに続く。
「それでは、王都到着を祝して乾杯!」
師匠の音頭に合わせ、アインはビールの注がれたコップをよろりと持ち上げる。
「なんじゃい、まだ船酔いが残っとるのか?」
「いえ、そちらはだいぶ良くなったのですが、まだ劇場の大歓声が耳にこびりついていまして……」
「帝都っ子なら、劇場の歓声やら鳴り止まない拍手やらは聞き慣れとるじゃろ?」
「生憎、日常的に観劇に行けるような家庭環境ではありませんでしたので……ああ、ですが」
アインはふと思い出したように、青白い顔を上げる。
「今日の劇は、以前に観た覚えがあります。皇女の結婚という題目だったと思いますが」
今日観た劇の題は王女の結婚だった。主人公の皇女が王女になり、相手役の吟遊詩人が獣人の旅芸人になってはいたが、おおまかな筋書きはほとんど一緒のようだった。
「あれは帝国の劇を王国向けに翻案したということなのでしょうか」
「いや、王女の結婚は王国の脚本家ホズリーの作品で、初演は旧帝国暦一一二七年。対して皇女の結婚は帝国の作家アラムスの作で、初演は一一九五年だったかの」
さらさらと述べあげるラジンに、アインは内心舌を巻く。魔術に限らず、彼の師はありとあらゆる分野について深い見識を備えている。
「王女の結婚のほうが古い……ということは、皇女の結婚が王女の結婚の翻案ということでしょうか?」
「いや、アラムスは皇女の結婚について、彼の地元に伝わる民話を下敷きにしたと書いている。実際それらしき話が、エイスター地方の司祭が編纂した民話集に収められておる。あれが編まれたのはたしか……八百年頃だったかの」
「ということは、王女の結婚もその話を下敷きに?」
「いや、エイスター地方の民話と瓜二つの話が王国にも伝わっているんじゃよ。ホズリーはこの話を基にして劇を書いたそうじゃ。ちなみにこの話の主人公は皇女で、相手役は獣人の下級貴族ということになっておるな」
アインは釈然としない顔で首を傾げる。
「結局、皇女の結婚と王女の結婚の間には、何の関係もないということですか」
「直接的な関係はなさそうじゃが……言うなれば、生き別れた双子のそれぞれに生まれた子どもと言ったところかの」
「生き別れた双子……というのはつまり、ふたつの民話のことでしょうか」
ラジンはビールに口をつけつつ、頷く。
「おそらく、まず最初に全ての母親となる話があって、そこから双子が生まれてきた。双子のそれぞれが子を成して、それが今日ふたつの都の劇場で演じられているということなんじゃないかね」
「なるほど。しかしそうすると、最初の話は誰が作ったのでしょうね?」
ふたつの国に産み落とされた双子。その母親は、一体どこから生まれ出でてきたのか。
「さての」
ラジンは人の良さそうな笑みを浮かべて、アインを見る。ようするに、まずは自分で考えてみなさいということだろう。
「ちなみに、帝国と王国で瓜二つの劇が演じられている例はまだあるんじゃよ。サンバートの仮面舞踏会とエムダの仮面の悲劇、ヘルムホークの死神の家とダダールスの……ええと、なんじゃったっけな」
「―呪い仕掛けの家、ですか?」
その声はすぐ背後から聞こえてきた。振り返ると、そこに立っていたのはまだ若い帝国人の女性だった。
「あ、ごめんなさい。いきなり話に割りこんでしまって」
「いやお嬢さん、まさにあんたの言う通りじゃよ。しかし、ダダールスなんぞよく知っとったの」
「実は、つい最近観たばかりなんです。それが昔帝都で観た死神の家にそっくりだったので……あ、女将さんすみません、すぐ行きます!」
女性はぺこりと頭を下げ、厨房へと小走りに駆けていった。
「ふうむ、ヘルムホークにダダールスとはたいしたお嬢さんじゃな。今度空いてる時間を見計らって、また話してみようかの」
「帝国人の女性が、王都の酒場で働いているのですね」
うむ、とラジンは頷く。
「わしが以前訪れたときには見られなかった光景じゃな。帝国人が王都で働いているのは意外かね?」
「そうですね。帝都で魔族や獣人が働いているところは見た覚えがないので」
アインが淡々と言うと、ラジンはふっと笑みを浮かべる。
「いずれそれもきっと、普通になるさ」
「そうでしょうか」
「そうだとも。時代は変わっていくのだからね」
翌朝、アインは久方ぶりの揺れない寝床で気持ち良く寝入っているところをラジンに叩き起こされた。
「ほれ、しゃっきりせんか。早く支度せんと遅刻じゃよ」
「……と、言われますと」
アインは今日の予定について、特に何も聞かされていなかった。そもそも、師が突然王都行きを決めた理由からしてアインにはよくわかっていないのだが。
「教会じゃよ。日曜の説教は九時から。これは帝国も王国も共通だからね」
宿の近くの区教会には、大勢の信徒が詰めかけていた。大半は獣人で、魔族やそれ以外の種族の姿はちらほら見かける程度だ。
「昨日から思っていたのですが、王都の住民は圧倒的に獣人が多いのですね」
「王都に限らず、王国の人口の大半は獣人じゃよ。まあ、ここまで獣人の比率が多いのは、魔族はあまりこういう地域の教会に来たがらないから、というのもあるだろうがね。彼らは家に備えつけた小聖堂で祈るのを好むんじゃよ」
「魔族には、家に聖堂を付設するだけの余裕があるということですね」
「王国の貴族階級の八割方は魔族に占められとるし、その中でも高位貴族となるとほぼほぼ魔族じゃな。おっと、そろそろ始まるかな」
奥に取付けられた小さな扉から、それなりに年を召した様子の獣人の司祭が姿を見せる。壇上に登る足取りもどこかおぼつかなかったが、ひとつ咳払いをしてから発せられた声には艶やかな張りがあった。
「今日は皆さんに、聖祭の起源についてお話しさせて頂きます」
聖祭。八月の最終週に行われる、王国で最大の祝祭である。
「聖祭ではたくさんの出店が開かれたり、催し物が行われたりしますから、ついついその本来の目的を忘れがちです。しかし聖祭とはそもそも、かつて英雄リュピアがこの地を大いなる災厄から救い、仲間たちとともに国を拓いたその日を祝するための祭りなのです」
「……ようするに建国記念日ですか」
「まあ、建前としてはそうじゃな」
「実際には違うということですか」
「その辺の話は、おいおいな。ほれ、今は司祭殿の話に集中せい」
アインが壇上に視線を戻すと、司祭は遠き時代の伝承を手繰り寄せるように、両の腕を頭上に伸ばしていた。
「リュピアは、現在はガルプ伯が治める北部地方の小村に生まれたといいます。彼女は幼い頃から目に見えないものを感じとる力を備えており、七つの誕生日に、遥か北から迫る大いなる災厄を夢に視ました。彼女はそれを大人たちに告げたのですが、誰からも信じてもらえませんでした。そこで彼女は、己の力で災厄に立ち向かう仲間を集めることにしたのです」
「七つの娘が、大いなる脅威に立ち向かうために仲間集め……」
アインは思わず呟いてしまったが、それは何も話の内容が荒唐無稽だったからではなかった。
「リュピアの元に集った仲間たちは、長きに渡る戦いの末に災厄を打ち払いました。そして民衆の声を受けて、今我々が暮らしているこの地に新しい国を打ち立てたのです。しかし国を開いたまさにその日、リュピアは戦いの中で受けた傷のためにこの世を去りました。ゆえに、聖祭は建国の日であるとともに、我らを大いなる災厄から救った英雄の命日でもあるのですね」
「……では、王国はその後誰が治めることになったのでしょう?」
「仲間たちが共同で治めたとされとるな。今の魔王陛下も、この仲間のひとりの末裔ということになっておる」
「リュピアには血族はいなかったのでしょうか」
「いなかったという話じゃの」
アインは探るような目で師を見たが、常と同じ好々爺然とした笑みからは何も読み取ることができない。
「そもそも、リュピアは本当に建国の日に亡くなったのでしょうか」
「そのへんは話の都合じゃろ」
さらりと言ってのけた師を、アインは呆れと当惑の入り混じる目で見やる。
「教会でそんなことを言ってしまって良いのですか」
「なんじゃい、自分だってケチをつけとるくせに」
「いえ、私はケチをつけたいわけではなく、単に……」
弁明しようとしたアインの耳を、静かな、しかし確かな存在感を持つ声が捉えた。
「……白き娘は北に留まり、青き蛇の亡骸が蘇ることのないよう、守番を努めることとなった」
振り返るとそこに立っていたのは、長身の帝国人の青年だった。アインと目が合うと、青年はぺこりと頭を下げる。
「すみません、いきなり割りこんで」
「ああ、いえ。まさにその一節です。その一節が記憶に残っていたから、今の話の結末に少しひっかかりを感じてしまって」
「俺もです。やっぱり似てますよね」
「ええ、そっくりです。なのに、結末だけは違う。これは一体どういうことなのでしょう」
「……のう、アイン。それからお若いの。わしも人のことは言えんが……」
司祭の嗜めるような視線を感じて、ふたりは慌てて押し黙る。
「あと、そっちのお嬢さんが置いてけぼりにされとるみたいじゃよ」
ラジンの指し示したほうに目を向けると、小柄な少女が俯き気味の顔をわずかに上げた。青年と同じく帝国人かと思った直後、犬か狼のような三角形の耳に目がいく。
「あ……悪い、ディア。後で説明するから」
説教が終わると、四人は連れ立って噴水広場へと向かった。ラジンは噴水の手前に配された長椅子に腰かけると、感心した風の顔で青年を見やる。
「しかし、白き娘のくだりなんぞよく知っとったの。あの辺りは説教でも大抵端折られるじゃろ」
「親が聖職者で、俺もここに来る前は聖職者になるつもりだったので」
「なるほど、そうじゃったか。そちらのお嬢さんは、帝国の古い言い伝えなんぞ聞いたこともないじゃろうな」
「あの、実は王国の昔話もあんまり……さっきのリュピアの話も今日初めて知りました」
ああ、とラジンは得心したように呟く。
「お嬢さんは南のほうの生まれかね」
少女は少し口籠もった後、はい、と答える。
「南に行くほど、リュピアの伝承は忘れられがちになる。北から出づる災厄を払った英雄だから、これは仕方ないことがね」
「それなのに、南の果ての帝都の教会で瓜二つの話が語られているのですか」
アインが言うと、ラジンはふむ、とアインの顔を見やる。
「お前さんは、母君からこの話を訊いたのかね」
「母から? まあ、ある意味ではそうかもしれません。母は熱心な信徒でしたので、私も母に連れられて毎日教会に通っていました」
「ほう、それは……」
ラジンは何か言いたげだったが、結局何も言わずに少女に向き直る。
「白き娘というのは、帝国の古い伝承の隅っこに出てくる脇役での。やったことは大体、今日の話で語られたことと一緒じゃな。違うのは、帝国版だと災厄は青き蛇という怪物になってるのと、戦後白き娘は国を建てず、北の端で怪物が蘇らないよう見張り番をすることになったというところじゃな」
「帝国の言い伝えのほうが、災厄の正体がはっきりしてるんですね……なんだか不思議です」
「そうじゃな。なぜ遠く離れた土地に伝わった伝承に、近場の伝承より詳しい内容が残されているのか……。ひょっとすると、王国の伝承はあえて詳細を伏せているのではないか」
あえて、と繰り返したアインと青年を、ラジンはにこにこと、試すような目つきで見やる。
「それはわしの想像に過ぎんがね。ひょっとすると帝国にいい加減な話が伝わってるのかもしれないし、そもそもリュピアなんぞ最初からいなかったのかもしれん。今となっては、何が真実だったのかはわからずじまいじゃな」
「それでも、帝国に伝わっていた話が真実だった可能性もあるわけですよね」
青年が尋ねると、ラジンは頷く。
「わしはどちらかというと、帝国の話のほうが真実に近い形を保っているのではと思っておるよ」
「そうですか……」
青年は呟いてから、照れたように笑う。
「俺、親父が教会でしている話は全部でたらめなんだと思ってたんです。だけど、今の話を聞くと一概にそうとも言えないのかなって」
「そりゃ、帝国の伝承も散々歪められて伝わっとる部分はあるだろうがね。それでも、一から十まで嘘っぱちってことはないわな。九割が嘘でも、一割くらいは本当のことが含まれとるはずじゃよ」
ラジンがそう言ったとき、教会の方角から鐘の鳴る音が聞こえた。
「あ、もうこんな時間か。すみません、この後劇を観にいく予定で」
「おお、そうかい。王女の結婚かな?」
「はい、劇なんて向こうでも滅多に観なかったので、作法も何もわからないんですけどね」
「なあに、笑えるところで笑って泣けるところで泣けばいいんじゃよ」
「ありがとうございます。……あの、もし魔王様の城に用事があったら、ちょっと面倒だけど裏門まで回ってきてください。俺たちにできる限り、便宜を図らせてもらいますから」
若者はそう言って頭を下げると、少女と連れ立って劇場のほうへと去っていった。
「仲睦まじそうなふたりじゃったのう」
「そうでしょうか」
「なんだ、嫉妬か」
「いや、そうではなく……距離があるように見えたので。物理的に」
たしかに彼らは仲が良さそうだったが、なぜだか常に一定の距離を取っているようにも見えた。
「距離を取る理由、か」
ラジンはひょこりと立ち上がると、独り言のようにぽつりと言う。
「王都で牙の民と会うことになるとはのう」
「牙の民?」
「あの犬耳のお嬢さんじゃよ」
「珍しい種族なのですか」
「もとから数が少なかったが、最近ではいっそう数が減った。正直、もう彼らに会うことはないと思っとったよ」
ラジンは言葉を切り、すたすたと歩きだす。アインも黙って後に続いたが、やがておずおずと切り出す。
「彼らは城で働いているようでしたね。リックのことを訊いてみても良かったのでは?」
アインの弟弟子であるリックは、一年ほど前に喧嘩別れのような形で師の元を離れた。その行方はわからずじまいだったが、風の噂、というかラジンがどこからか仕入れてきた情報によれば、彼は現在魔王の城で働いているらしい。
「なに、あいつは大丈夫じゃろ」
あっさりと言った師の背中を、アインは訝しむように見る。
「リックはまだまだ半人前でしょう。王都で上手くやれているか……」
「たしかに半人前じゃし肝も小さいが、存外腹が据わってるところもある。その証拠に、お前さんが何年もうだうだと足踏みしておった王都行きをひとりで決行してしまいおった」
「いや、足踏みしていたわけでは……」
アインは反論しかけて、結局口を噤む。王都行きを渋っていなかったといえば嘘になる。明確な理由はないが、それはアインにとっていまいち気乗りのしない提案だった。
「まあ、心配ならそれとなく様子を探ってみても良いがの」
「心配というか……厨房係をやっているという話でしたので。彼のやりたかったこととは方向性が異なるのかなと」
忌憚のない意見を言わせてもらえば、厨房係は彼にとって天職といえるかもしれない。しかし、資質のあるなしと本人の志向はまた別の問題だろう。
「や、そこも大丈夫じゃろ」
ラジンは拍子抜けするほど軽い口調で言う。
「……何か確信が?」
「いや、何もないさ。ただ、環境が変われば人は自ずと変わっていくもんじゃからな」
「魔王の城の環境が、あれほど戦う力を切望していたリックを変えると?」
「そういうこともあるかもしれんわな」
アインは師の横顔をじっと覗き見たが、いつもと変わらぬ笑みから読み取れるものは何ひとつなかった
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