悔恨④
王都の玄関口と言うべき巨大な南門は、見るからに屈強な衛兵たちに守られていた。皇家の紹介状を見せると、跳ね橋が下ろされ、王都に至る扉が開かれた。
「これが王都……」
ランダルトは呟き、周囲の景色を見回す。町の規模は、遠景で見たときの印象通りという感じだろうか。一昔前の、帝国の地方都市のような雰囲気。通りはここまでの街道と同じく、一部を除いて舗装されていない。一国の都にしては随分とこじんまりした、しかし和やかで活気のある空気の流れている町。
「また顔に出てますね」
ソフィがくすくす笑いながら言うと、ランダルトは気恥しげに眉を寄せる。
「申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ。それに、結構気に入ってくださったんですよね?」
「そう……ですね。どこか懐かしい雰囲気の町です。子どもの頃によく訪れた、ダフィール伯の城下町に似ているような気がします」
ランダルトは道を行く獣人や魔族たちに目を向ける。彼らのほうも、ちらちらとランダルトたちを見てはいるが、わざわざ足を止めたり、道中でままあったように敵意の籠った目で見られたりといったことはない。それに―。
「帝国人の姿も、ちらほらと見えますね」
「そうですね。主に交易に携わっている方たちだと思いますけど。隊商が列をなしていらっしゃることも多いですし、これくらいの人数だとそう驚かれることはないかもしれませんね」
「想像していたよりも帝都と王都の距離は近いのですね」
「そうですね。まだまだ遠い部分もたくさんありますけど、魔王様ならきっと、あたしたちの距離をもっと縮めてくれると思います。―あたし、いつか帝都に行ってみたいんですよね」
「帝都に、ですか」
「はい。噂話や小説でしか知らないですけど、絶対素敵なところなんだろうなと思って。それから、ランダルト様の地元にも行ってみたいです」
ソフィの言葉に、ランダルトは当惑する。
「道中見てきた村と大差ないところですが」
「でも、きっと素敵なところなんでしょう?」
「素敵というか、私は嫌いではありませんが……」
「ですよね。ランダルト様みたいな方の育った場所なんですから、良いところに決まってます」
「褒めているのですか、それは」
「もちろんです」
屈託なく笑うソフィから、ランダルトは目を逸らす。
「そういえばランダルト様、三日目の夜はどうなさいますか?」
「三日目の夜?」
「祭の最後は、大聖堂前の広場で踊るのが慣わしなんですよ。良ければ、一緒に踊りませんか?」
「いや、私は踊りは昔からまったく駄目で……」
「大丈夫ですよ、皆好きなように飛んだり跳ねたりしてるだけですもの」
「殿下の護衛を任されている以上、勝手なことは……」
「ならば、私が広場に出向けば万事解決だね?」
ひょこりと登場したウィザーヌを、ランダルトは呆れた目で見やる。
「ウィザーヌ様。流石に見知らぬ者が大勢詰めかける場所に出向いて頂くわけには……」
「何、帝都一の剣士がいてくれれば何も問題はないさ。というわけで決まりだ、三日目の夜は広場でダンス!」
そんな風に、王都に辿りついてからずっとおちゃらけたはしゃぎぶりを見せていたウィザーヌだったが、いざ城に到着すると別人のような落ち着きぶりで出迎えの者たちに完璧な挨拶をしてみせた。
ウィザーヌが魔王に謁見する間、用意された部屋へ積荷を運びこむよう頼まれたランダルトは、これでは護衛ではなく付き人だと思いつつ、ウィザーヌの無意味に膨大な荷物を両腕で抱えながら廊下を往復していた。
そこへ、ひとりの男が近づいてきた。
「わかっているな」
男に潜めた声で尋ねられ、ランダルトは頷く。
「三日目の夜だな」
「そうだ。くれぐれも、しくじるなよ。お前の剣に帝国の未来がかかっている」
わかっている、とランダルトは短く返す。
作戦の決行は三日目の日暮れ時。聖祭の終幕を飾る儀式のため、魔王が大聖堂に向かうところを襲撃する。
「いやーっ、本当に美しい方だったよ! ランダルト、きみも絶対一緒に来るべきだったな!」
「私ごときが同席するわけにはいかないでしょう」
「いやいや、魔王様は帝国の高慢ちきな貴族と違って身分の違いに囚われるような方ではないよ」
魔王は年若い女性の姿をしてはいるが、その正体は強大な力を秘めた魔族の長である。いくらランダルトが凄腕の剣士といえども、単独で立ち向かえる相手ではない。
そこで外務卿は、特別な武器をランダルトに与えた。
「その短剣は一度しか使えない。鞘から抜いて、一振りすればそれで終わりだ」
ランダルトは差し出された短剣を、しげしげと眺めた。
「たしかに異様な力を秘めた代物のように見えますが、一体何なのですか、これは」
「聖なる力が込められているのだよ。一度振れば、刃そのものが朽ち果ててしまうほどの強大な力がね」
ランダルトの目には、その短剣はただただ禍々しく、聖というより邪の気が込められたもののように見えたが、彼は何も言わずにそれを受け取った。
ランダルトはその短剣を、旅の荷の底に沈めた。王都が近づくにつれ、短剣はランダルトの中で存在感を増していき、今では鉛の塊のようにランダルトの心にずしりと圧しかかっていた。
その重みはランダルトにとってつらいものではなかった。それは彼にとって義務にすぎなかった。命令を授かった以上、疑問を挟む余地はどこにもなかった。
三日目の夕刻、ウィザーヌが公の行事に参加している隙にランダルトは部屋へ戻った。
荷物の底に沈めた小包み。その封を解く瞬間、ソフィの顔が、彼女の言葉が脳裏をよぎった。
しかし、だからといってランダルトの行動が変わることはなかった。彼は自分でも不思議に感じるほどの冷静さで包みの封を解き、緋色の短剣を懐に忍ばせると部屋を出た。
魔王はあらかじめ決められた道を通り、大聖堂に向かう。聖印の形をなぞるこの道を経由しなければ、儀式は完成しないとされる。
魔王はこの道をひとりで歩いていかなければならない。城の外に出てしまえば流石に護衛がつくのだが、城内では古からのしきたり通り、ひとりで聖印をなぞる道を歩いていく。
王都に事前に潜入していた密偵たちにより、城内の警備体制は把握済みだった。一箇所、警備の薄い箇所がある。城内の東端に配置された星見塔の辺り。そこを狙って、魔王を討つ。
外務卿の手の者たちの先導で、ランダルトは容易く星見塔の近くまで辿りついた。―城には非常用の地下道が設けられており、そこを辿れば星見塔まで誰にも見つからずに移動できた。
「この道は、二百年前の帝国軍が命を懸けて発見したものだ」
暗闇に包まれた地下道で、ランダルトを先導する男が言った。
「彼らはこの道を使って魔王の喉元まで迫ったが、力及ばずこの地で命を散らした。彼らの無念を、お前が晴らすんだ」
ランダルトは何も言葉を返さず、ただ頷いた。それをどう受け取ったのか、男は深く頷き返してきた。
「頼んだぞ。お前ならば必ず、悲願を成就させることができる」
ひとりになったランダルトは、星見塔の影に身を隠して目を閉じる。彼は獣のように鋭い感覚を研ぎ澄ませることで、周囲の気配を察知することができた。
……北西の方角に、見張りがいるな。
事前に得ていた情報の通り、この辺りの警備はひとりだけらしい。それも名のある騎士ではなく、低級な魔物の兵士ということだったが。
……おそらく、かなりの手練れだな。
まだこちらに気づいてはいないようだが、迂闊に動けばすぐに察知されかねない。この兵士の目を掻い潜って魔王を仕留めるのは、かなりの難事となるかもしれない。
……だが、いざとなれば魔王もろとも仕留めればいいだけのことだ。
剣士が相手ならば、どうとでもなる。それより問題なのは―。
ランダルトは頭上の塔に、ちらと視線を走らせる。
「やっぱりもう間に合わないって……このままじゃ、魔王様と鉢合わせしちゃうよお!」
「魔王様がいらっしゃるからこそ、しっかり綺麗にしとくの! 大丈夫、まだ間に合う!」
窓から漏れ聞こえてくる声に、ランダルトは頭を抱える。どうやら、ふたり組のメイドがまだ塔の掃除をしているらしい。
……しばらく気を失っていてもらうか。だが下手に動けば、あの剣士に感づかれる。魔王がやってくる前に騒ぎを起こすのは避けたいが―。
あれこれと思案するうちに、近づいてくる足音に気がついた。
……これは。
足音は下から、すなわちランダルトがつい先ほど通ってきた地下道から聞こえてくる。
やがてガコリ、と床の隠し扉の開く音が鳴った。
ランダルトは塔の近くの木陰に身を隠し、塔から出てくる人影を観察した。
人数は六人。夕闇に紛れて顔ははっきり見えないが、おそらく魔族。足取りから、いずれも武芸を修めた者だということがわかる。一番最後に出てきた者には、二本の角が生えている。
……高位の貴族らしき者を含んだ、魔族の集団。あの身のこなしからすると、目的は私と同じか。しかし、なぜ魔族が魔王を狙う?
疑問に思うランダルトの脳裏を、ウィザーヌの言葉がよぎる。
……王国も一枚岩ではないんだ。当代の魔王の方針を快く思わない領主も少なからずいる。
……つまり彼らは、王国内の反対勢力か。下手に騒ぎを起こされたくないが、上手く動いてくれれば魔王に隙を作ってくれる可能性も……。
ランダルトの思考の筋道は、どたどたと塔を駆け降りる足音に掻き消される。
「ほら、間に合ったじゃない! まだぎりぎり日没前!」
「ぎりぎりすぎるよ、もう! 着ていく服、じっくり選びたかったのに!」
焦りと高揚感の入り混じったような声は、塔の入り口に辿りついたところでぴたりと止む。
「……え? あなたたち、誰?」
ふたりの若いメイドは、塔の入り口に立つ魔族の集団を怯えた目で見やる。
「今日は人払いがされてるはずなのに、なんで……」
首領格と思しき二本角の魔族が、部下のひとりに目配せをする。頷いた部下の、ゆらりと持ち上げられた右の手の掌から黒く渦巻く炎が巻き起こる。
それを目にした瞬間、ランダルトは駆け出していた。しかし彼が辿りつく前に、状況はすでに動いていた。
「なっ……」
動揺の声を漏らしたのは、二本角の魔族だった。娘たちに炎を放とうとした彼の部下は、いつのまにか切り落とされた自身の手首を茫然と見下ろしている。
ランダルトもまた、闖入者を茫然と見やった。
目にも止まらぬ速さで剣を振るったのは、黒衣に身を包み、虚な眼窩で不審者たちを見据える骸骨だった。
骸骨の二の太刀で、腕を落とされた魔族が崩れ落ちる。それでランダルトは我に返り、手近にいた魔族を一撃で切り伏せる。
「サ、サイラス様……」
「……と、誰?」
魔族たちも腕利き揃いだったが、骸骨の剣士とランダルトはそれ以上の使い手だった。魔族たちは四人、三人と瞬く間に数を減らし、二本角の首領ひとりを残すのみとなった。
「調子に乗るな!」
黒い火球がランダルトめがけて放たれる。ランダルトは身を翻してそれを交わし、そのまま勢いをつけて男に刃を振るうが、男も剣を抜き応戦する。
「帝国人無勢が……ぐあっ!」
加勢したサイラスの剣撃で、男の腕から血飛沫が上がる。一瞬生まれた隙を逃さず、ランダルトは男の喉元に剣の切先をぴたりと当てる。
男は苦々しい笑みを浮かべる。
「帝国人と魔物ごときに遅れを取るとは、私も落ちぶれたものだ……」
「目的は魔王の暗殺か」
問いかけながらランダルトは、自分は一体何をしているのだろうと自問する。魔王の暗殺。それは自分自身に課された任務ではないか。
「そうだ。あの女を排除することで、この国はあるべき姿を取り戻す。そのためならば、いかなる犠牲も惜しくはない」
骸骨の剣士が一歩前に出る。
「戯言はそこまでにしておけ。お前の計画は、すでに潰えた」
「……それはどうかな?」
男の口元が、獰猛な獣のように歪む。
「魔王がやってくるまで温存したかったが」
男はそう呟くと、奇妙な、ランダルトの聞いたことのない言葉を唱え始める。歌うような独特な節回しは、まるで教会で神に捧げる聖句のようである。
「開封せよ」
その言葉に呼応するように、男の腰にぶら下がった筒の底が開く。
「……!」
筒から眩い光が放たれた瞬間、ランダルトと骸骨の剣士は示し合わせたように、それぞれメイドの少女をひとりづつ抱えて背後に飛び退っていた。
「これは……」
ランダルトは目を大きく見開き、目の前に現れたそれを見やった。
熱された岩のような、赤黒い鱗に覆われた禍々しい体。牛や熊でも一飲みにしてしまいそうほど巨大な口には剣のような牙が並んでいる。
「竜……」
「そう、竜だ。こいつを捕らえるのは骨が折れたぞ。いかなる鎧も容易く貫く牙、いかなる武器も魔術も受けつけぬ鱗、山ひとつを焼き尽くす炎……まさに、地上最強の生物だ」
竜の巨体がゆらりと揺れる。前脚が空を切り、前方に立つ男の体が吹き飛ぶ。男はそのまま気を失ったが、その顔には満足げな笑みが張りついていた。
「……己に制御できぬ力に頼るとは、愚かな」
骸骨の剣士の呟きにランダルトも内心同意しつつ、眼前に聳える怪物を見据える。
……あの男が言う通り、あれは並の武器が通用する相手ではない。
眼を狙えば、動きを止めることは可能かもしれない。しかし竜に炎を吐く力が備わっているとすれば、ふたりのメイド―恐怖のあまり、へなへなとその場にへたりこんでしまっている―を庇いながら戦うのは難しいだろう。
ランダルトは一歩前に出る。同じく前に出ようとしたサイラスを制するように、腕を掲げる。
「私に任せて頂きたい」
サイラスの眼窩に当惑が浮かぶが、ランダルトは構わず進み続ける。竜の金色の双眸が、ぎろりとランダルトを見下ろす。
わずかな身じろぎの後に振り落とされた前脚を躱し、竜の懐に潜りこむと、ランダルトは腰に吊るした緋色の短剣を抜き放ち、鋼のような鱗に覆われた喉元に一撃を叩き込む。
短剣は衝撃に耐えきれず、粉々に砕け散り―砕けた刀身の中から、血の色をした糸のようなものが溢れだした。
……蜘蛛の糸? いや、これは―。
ランダルトは眼を凝らして、その妖しげな紋様を見る。ランダルトの知る帝国語とは異なるが、それはおそらく文字だった。蜘蛛の糸のような形を成す、血の色をした不気味な文字の連なり。
文字は竜の喉元に貼りつき、みるみるうちにその肌に染みこんでいく。すると、竜は白目を剥き、苦悶を湛えた咆哮を上げたと思うと、地響きを立ててその場に崩れ落ちた。
ランダルトは茫然と、舌を突き出して絶命している竜を見た。彼の背後に控える三人もまた、信じられないものを見たという顔で絶句していた。
その沈黙を破り、ぱちぱちと軽快な拍手が響き渡った。
「竜を一撃で沈めるとは、素晴らしい腕前です」
ランダルトが振り返ると、そこには仮面をつけた長身の男が立っていた。彼の背後には王国の騎士や魔術師らしき者が数名。そして彼らに混じってウィザーヌの姿もあった。
「おっと、申し遅れました。私はこの城で執事を務めさせて頂いているダナモスと申します。我が主に代わり、謀叛を企てる逆賊を討ち取って頂いたことに御礼を言わせて頂きます」
仮面の男の言葉に呼応するように、ウィザーヌが手を打ち鳴らす。
「いや、まったくお手柄だったね。流石は帝都一の剣士だ。帝都に帰ったら受勲式を開かないとなあ!」
奇妙な夢の世界に迷いこんでしまったような心地のランダルトの肩を、ウィザーヌはぽんと叩く。
「さて、お疲れのところ悪いが、早いところ退散しようか。もうすぐ魔王陛下がこちらにいらっしゃるからね。ダナモス殿、竜の亡骸とそちらの御一行の処分はお任せいたします」
「はい、全て我々にお任せください」
そう言って仮面の男は、意味深な笑みを浮かべる。
「感謝いたします、殿下」
部屋に戻るまでの間、ウィザーヌはぺちゃくちゃとひとりで話し続けていた。そして部屋に辿りつくと、ランダルトに腰かけるよう勧めた。ランダルトはおとなしくそれに従った。
ウィザーヌの家臣がやってきて、ランダルトの手前のカップに紅茶を注いだ。ウィザーヌに勧められるまま、ランダルトはそれを飲み干した。
「しかし、今日は本当にお手柄だったね。受勲式は聖ハザリアの日にしようか」
「私は、そのような名誉には……」
「その日取りならおそらく、騎士団長殿も出席が叶うだろうからね」
さらりと放たれた言葉に、ランダルトは呼吸を止める。
ウィザーヌはああ、とふと気がついたかのように眉を上げる。
「騎士団長殿は地元に帰られることになったのさ。いくら歴戦の勇士とはいえ、流石に歳だからね」
「そ、そうでしたか」
「なんだい、汗をぐっしょり掻いて。まさか、彼が何か悪いことをして捕まったとでも思ったのかい? そんな、外務卿じゃあるまいし」
ランダルトの思考は一瞬停止する。それから、奇妙に冷静な心地で彼は尋ねる。
「外務卿……たしか、サント伯のことでしたか。彼が何かなさったのですか」
「私も今朝、手紙を読んだばかりだから詳しいことはわからないんだがね。どうやら彼は呪法に手を出していたらしい。それも、市井に伝わるような可愛らしいのじゃなくて、呪い専門の魔術師すら目を背けるようなとびきり忌まわしいやつさ。まったく、そんな代物で誰を呪うつもりだったんだろうね?」
ランダルトは、懐に隠した短剣の柄―今や柄だけとなってしまった残骸―を握りしめる。
「まあ、きみには関係ない話だな。きみは今日、偶然不審者の集団に気がつき、それを追って星見塔の近くにいただけなんだから」
「……はい」
「今日の功績で、きみは昇進するだろう。このまま順調に行けば、ゆくゆくは騎士団長も夢じゃない。きみのご家族もきっと誇らしく思うだろうね」
「……はい」
「しかし、ダナモス殿も人が悪いな。わざわざ警備に隙を作って、良からぬことを考えている輩を炙り出そうだなんてね。おっと」
ウィザーヌは水時計をちらりと見て、ランダルトに目配せを送る。
「そろそろ時間だな。ソフィさんも待ちかねていることだろう」
ランダルトは顔を上げずに、言う。
「私は行けません」
ウィザーヌは呆れたような笑顔を作る。
「行けばいいじゃないか」
「行けません」
「やれやれ。きみは本当に真面目なやつだな。そんなんじゃ、これからも苦労するよ? ……きみは今日、魔王陛下を狙う刺客を退け、陛下に仕える方たちの命を救った。それは紛れもない事実だし、誰にも憚ることなく誇っていいことだと思うけどね」
「たとえそうであれ、私にはもはやソフィ殿と顔を合わせる資格はありません」
「そんなことはないと思うけどね」
ウィザーヌの声の調子が少し変わる。その目にはそれまでと異なる、労わるような色が浮かんでいる。
「少なくともきみは、私の知る限り指折りの騎士だよ。今日のこの状況で、王国の民を守る行動を取れる騎士が帝国にどれくらいいると思う?」
「民を助けるのは、騎士にとって当然のことです」
「たとえ、より大きな使命を授かっているとしても?」
「……」
「どちらが正解、という話ではないのだろうけどね。私ならきっと、より大きな使命を選ぶだろうけど、だからといって今日のきみの選択が間違っているとは思わない。より大きな使命がおかしな方向を向いてる可能性だってあるだろうしね。……そういうわけだから、ほら、行こうぜ? 女性を待ちぼうけさせるのも、騎士としてあってはならない行動だろ?」
「……私は」
……ランダルト様はあたしと違って、罪のない人を傷つけるようなことは決してしないと思います。
「……私には、国や政のことはわかりません。私に下される使命が正しいのかどうかを判断する知恵もありません。ですが」
……魔王様がこの国をお治めになっている限り、戦火が再びこの国を襲うことはないと、あたしは信じています。
「私には、ソフィ殿を信じることができなかった。彼女の声から耳を塞ぎ、彼女を失望させる道を選んだ。それだけはたしかです」
「そうかい。やれやれ」
ウィザーヌはわざとらしく大仰に肩をすくめたが、その目は痛ましげにランダルトを見ていた。
「旅土産に是非とも最終日のダンスには参加しておきたかったんだが、きみと一晩飲み明かす方針に切り替えだ。魔王陛下から、素晴らしい王国のお酒も頂いていることだしね」
ランダルトは帰国後、順調に出世の道を駆け上がっていった。騎士団一と誰もが認める剣技に加え、無骨ながらも実直な彼の人柄を慕う者も多かった。
帝都の誇り。伝統的な騎士道精神の体現者。それが騎士ランダルトについての、何十年も揺らぐことのない評価だった。
公爵家の応接室で、ランダルトは呼び出し人を待っていた。
「申し訳ありません。前の用事が長引いてしまって」
涼やかな声とともに部屋に入ってきたのは、公爵の孫にあたるエリアス卿だった。まだ少年の面影を残す柔和な印象の青年は、若かりし日の祖父―帝国の影の操り手とも称される、エイスター公ウィザーヌ―に驚くほどよく似ていた。
「お構いなく。それで、御用件というのは」
「ああ、あなたにこんなことを頼むのは、些か役不足かもしれませんが―王都への使節団に同行してほしいのです」
エリアスの青い瞳は凪いだ海のように穏やかで、その内面を読み取ることは難しい。
「アンシル皇女が聖祭に使節として向かわれることはお聞きでしょう。あなたには護衛として、彼女の旅に同行してほしいのです」
エリアスの柔らかな笑みを、ランダルトは厳粛な面持ちで受け止める。
「仰せのままに」
屋敷からの帰路、朗らかな空の下に広がる海に目をやると、一隻の船が港を発たんとしているところだった。
丘の草むらに画板を置き、港の景色を描いている青年がいた。ランダルトは彼に、あの船の行先を知っているかと尋ねた。
「おそらく王国の港のどこか……ひょっとしたら、王都まで行くのかもしれませんね」
「そうか。ありがとう」
五十年前には、王都と帝都を繋ぐ海路は拓かれていなかった。海路の整備は、帝国側ではエイスター公、王国側では魔王その人の尽力が大きかったのだという。
……もし、王都で再び彼女に会えたならば。
彼女は今も、あの都で魔王に仕えているのだろうか。
……もし会えたならば、ただ一言でもいい。
何を、どのように伝えればいいのか。それすら、自分には未だはっきりと見えていない。それでも、ただ一言だけでも、彼女ともう一度言葉を交わせたならば。
ランダルトは遠ざかっていく船を見やりながら、遥か遠い都に想いを馳せた。
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