雪の草②

 翌日も、その翌日もエイブラムはやってきた。いつもの教師は腰を痛めてしまい、しばらく休養するらしい。

 だからってなんであの学者が代役なの、とニナは父を問い質した。

 父、すなわちこの地を治めるガルプ伯の答えはこうだった。

「いいかい、ニナ。古語を読み書きできる者はとても少ないんだ。この屋敷でも、私の他は魔術師たちくらいかな。だけど領主の務めを果たすうえで、古語の知識はとても重要なんだよ。古い時代の貴重な書物はどれも古語で書かれているし、この城の記録だって数百年前までは古語で書かれていたんだ」

「だけどわたしが領主になるのなんて、それこそずっと先のことじゃない。それまでに使えるようになってれば、それでいいでしょ」

「ニナ」

 父の声音に、ニナは思わず背筋を伸ばす。父はいつでも優しいが、ごく稀に氷の領主と称される厳格さが顔を覗かせる。

「ずっと先にできればいいと思っていると、いくら時間が経ってもできるようにならないものだよ。何かを成し遂げるためには相応の意思が必要だからね」

「……そうかもだけど」

「その点、エイブラム殿はたいしたものだよ。あの若さで古語を完璧に修得しているし、薬草の知識もうちの薬師たちが舌を巻くほどだ。きっと目標を成し遂げるための強い意志を備えているんだろうね。だから、私から彼にお願いしたんだよ」

「どうか馬鹿娘の面倒を見てやってくださいって?」

 ニナのいじけた言い草に父は苦笑する。

「そういう言い方はしていないよ。ただ、長年勉強してるわりにあまり進捗が芳しくないようだから少し見てやってくれないか、とね」

 父にそう言われては、もう何も言い返せなかった。厳しいところや妙に細かいところもあるが、ニナにとって父はこの地上で最も大切な家族なのだ。

「……というわけで、お父様に免じてあなたの授業を聞いてあげることにしたから」

 ニナがむすりと言い放つと、エイブラムは押し殺した笑い声を立てる。

「何笑ってんのよ」

「いえ、わざわざ報告頂きありがとうございます。そういう頑なに律儀なところは、お父上によく似ていらっしゃいますね」

「それ、褒めてるの?」

「もちろんですとも」

 ニナは訝しむ目をエイブラムに向けつつ、内心はまんざらでもなかった。父に似てると言われたことなど、ひょっとしたら人生で初めてかもしれない。

「まあ、わたしもいつかはこの家を継ぐんだし、古語ぐらい読めるようになっておかないとね。そうしないとお父様にも顔向けできないし」

「その意気です。じゃんじゃん勉強して、お父様のような名君を目指しましょう」

「……やっぱりなんか、馬鹿にされてるような気がするのよね」

 口では色々と文句を言いつつも、ニナは真面目に勉学に励んだ。父にああ言われたから、というのもあったが、単純にエイブラムの教え方が上手いからというのも理由のひとつだった。

「あんたって家庭教師の仕事したことあるの?」

「いえ、特には。ですが、妹の勉強を見てやることはよくありました」

「妹、いるんだ」

「はい。我儘で、何かと文句が多くて……ニナ様と結構似ているところがあるかもしれません」

「その流れで似てるって言う?」

「元気が良くてよろしいという意味ですよ。まあ、妹は最近めっきり大人しくなってしまいましたがね」

「ふうん。結婚でもしたの?」

 束縛の強い家に嫁入りして性格が変わってしまうというのは、貴族階級の女性にありがちな話だ。こいつの家も一応は貴族のはしくれだし、そういうことが起こってもおかしくはないだろう。

 しかしエイブラムは首を横に振る。

「貰い手が現れることを切に願ってはいるんですが、今のところは望み薄です」

「とか言ってると、いきなり駆け落ちでもしちゃったりして」

 ニナがからかうように言うと、エイブラムはふと、妙に力の抜けた笑みを浮かべた。

「そうですね。そんな結末も、存外悪くないかもしれません」

「え……」

 ニナに尋ねる隙を与えず、エイブラムはいつもの不敵な笑みを蘇らせる。

「そういえば先日、陛下から手紙を頂きましたよ」

「え? 陛下って……メルのこと?」

「メル?」

「イシュルメールだから、メル」

「ああ、なるほど。しかし魔王陛下を綽名呼びとは、ニナ様もたいしたお方ですね」

「向こうからそう呼べって言ってきたのよ。でも、なんでメルがあんたに手紙を?」

「私の研究についてご質問を頂いたのですが、末尾でニナ様のことにも触れられていまして」

「本当? なんて?」

 ニナは期待を込めた瞳でエイブラムを見る。かの魔王は、年はだいぶ離れているもののニナにとって大切な友人だった。

「私の怠惰な友人がそちらにいるのでよろしく、と」

 ニナは期待を込めた瞳のまましばし静止していたが、やがてその肩がわなわなと震え始める。

「メルにだけはそんなこと言われたくない!」 

 その吠えるような叫びに、掃除道具を抱えたシシーが扉の隙間から顔を覗かせる。

「ちょっとニナ様、いきなり大声出さないでくださいな。あらエイブラム様、おはようございます」

「あ、シシー。丁度いいところに。ねえ、わたしとメルならどっちのほうが怠け者?」

 シシーは掃除用具を抱えたまま、難しい顔をして考えこむ。

「大変不遜な物言いになってしまいますが……どっちもどっち、というのが正直なところでしょうか」

「ほらー」

 シシーはなぜか得意げな顔のニナと、意外そうな顔のエイブラムを見比べる。

 エイブラムは真面目な議題を検討するかのように、腕を組む。

「シシーさん、あなたの目から見ても陛下は怠惰……もとい、のんびりしたところのあるお方なのでしょうか」

「そうですね……一年前の聖祭のとき、あたしもニナ様のお伴として王都に滞在させて頂いたのですが、そのときは……大変でしたね。公の行事が翌朝に控えてるのに、ふたりして夜中までぺちゃくちゃぺちゃくちゃと……アンナ様とダナモス様がいなければ、どうなっていたことか……」

「そういえばアンナ、引退したらしいわよ。今はまた帝国人の女の子がメルのお付きをやってるんですって」

「へえ、そうなんですか。若い身空で陛下のお世話なんてかわいそうな子……」

「そうね、それは流石に同情するわ。わたしが服にしみをひとつ作る間に三つ作るような女だもの。でもとにかく、これでわかったでしょ?」

 エイブラムは神妙な顔で頷く。

「そうですね、シシーさんがそこまでおっしゃる以上、認めざるを得ません。しかし、それにしても腑に落ちません。手紙を読む限り、陛下は聡明を絵に描いたような方に思えたのですが」

「聡明……」

 当代魔王はニナの知る限り、最も聡明から遠い女だった。

「私の研究に対する質問も的確でしたし、古語の文献も読み込まれているようでした」

 あの怠惰が服着て歩いてるメルが、古語の文献を?

「……ダナモスが代筆したのかしら」

「きっとそうですよ。陛下に古語なんて読めっこありませんもん」

「いや、流石にちょっとは勉強してると思うけど……」

 自国の国民にここまで阿保と思われている友人に若干同情しつつ、ニナは別の可能性を考えてみる。

「ひょっとして、あんたの研究がメルの興味を引くものなんじゃないの? 果物の改良とか、ワインの醸造とか」

 エイブラムはゆっくりと首を横に振る。

「前にも言った通り、私が研究しているのは慈幽草です。そして私の研究目標は慈幽草の栽培です」


 ニナの勉強を見終わると、軽い昼食を摂った後、エイブラムは山に向かう。

 彼に付き添うのはフランという帝国人の従者の青年と、山番のタータである。タータの一族は代々山番としてガルプ伯に仕えており、屋敷近辺の山に関しては誰よりも詳しい。

 ニナは自室でだらだらと昼食を摂りながら、雪に足跡をつけて進んでいく彼らを見下ろす。

「あいつも、毎日よくも飽きずに出かけるわね。なんの成果も出てないのに」

 エイブラムがやってきてからひと月以上が経つが、未だに慈幽草は一本も見つかっていない。そもそも、夏に慈幽草が見つかることは滅多にないのだという。

「なんでほとんど見つかる見込みのないものを、延々と探し続けられるのかしら」

「きっとそれだけ強い意思をお持ちなのでしょう」

「意思ねえ……」

 そんなに慈幽草を栽培したいのだろうか。

「……あんな草、何の役にも立たないのに」

 無意識に呟いてから、ニナは自身の発言に驚く。

「ニナ様、慈幽草は色々な薬の素になるんですよ」

「あ、うん、それは知ってるんだけど……」

 役に立たないはずはない。そんなことは自分だってよくわかっているのだが。

 ニナは再び窓の外を見下ろす。豆粒ほどになった三つの後姿を見やるうちに、ニナは奇妙な既視感に襲われる。

 ……ずっと前にもこんなことがあったような。眺めていたわけじゃなくて、わたし自身が雪の中を歩いていて……。

 夏の朝。山番に連れられて山に入る。いつしかニナは山番を追い越し、ひとりでそれを探し始める。

 ……いや、それって何よ。わけわかんないし。

 靄のかかった頭を休めるべく、ニナはベッドに転がりこむ。

「……寝よっと」

「食後すぐに寝ると太ると言いますよ?」

「別にいい」

「まったく……おやつの時間になっても起こしには来ませんからね?」

 シシーはそう言って窓のカーテンを閉め切る。薄暗い部屋で毛布にくるまり、ニナは次第に眠りへと落ちていく。

 そして彼女は、奇妙な夢を見た。

 ……ほら、また見つけた!

 無邪気な子どもの声。明るい未来を信じて疑わぬ、今のニナには少々疎ましく感じられる声。

 ……たいしたものです。お嬢様には、わしもまったく敵いませんな。

 毛むくじゃらの顔。笑うと牙が剥きだしになって、その顔がニナは好きだった。あれはタータの祖父―いや、曾祖父だ。ファリジャ、ジャヌイ、イウタ、タータ。

 ……これだけあれば、大丈夫かな?

 ……ええ。これだけあればきっと大丈夫です。

 会話を遮るように、雨の音が聞こえ始める。雨の音はどんどん大きくなっていき、やがて洪水のようにニナの夢を押し流していく。……この声はなんだろう。雨音に掻き消されてほとんど聞こえないけど、まるで子どもが泣いているみたいな。

 ニナはぱちりと目を開ける。もぞもぞと毛布の中で体を動かした後、むくりと起き上がる。

「……変な夢」

 窓際に近づきカーテンを開くと、夕陽が部屋に差しこんでくる。

 視線を下ろすと、三つの人影が山の方角から近づいてくるのが見える。

 おおかた、今日も成果はなかったのだろう。しかし、次第にはっきりしてくる三人の表情は決して暗くない。とくに前から二番目を歩く赤銅色の髪の男の、不遜と形容しても良さそうな笑顔ときたらどうだ。

「……何、笑ってんのよ」


 その夜、ニナは図書室の机でダールの薬草論―現代語訳ではなく原書のほうだ―を読んでいた。なぜ自分の部屋で読まないのか、自分でもはっきりとしたところはわからなかった。だがひとつだけはっきりしているのは、自室よりもここのほうが読書が捗るということだ。たしかにこうやって真面目に読んでみると、案外すいすい進むかも。

 そんなことを思っていると、入り口の扉が静かに開かれる音がした。ニナがぱっと顔を上げると、そこにいたのは赤銅色の髪の学者―ではなく、彼の従者のフランだった。

「おや、ニナ様。すみません、邪魔してしまいましたか」

「あ、ううん。全然大丈夫」

「本当ですか? なら、良かったですけど」

 金色の髪の青年は柔和な笑みを浮かべる。彼の主人もこれくらい優しげな雰囲気ならば良いのに。……いや、それはそれで何か違うような気もするが。

「フランは何の本を探しに来たの?」

「エイブラム様に頼まれて、古い薬草学の本を何冊か」

「ふうん。ねえ、今日の調査はどうだったの?」

 フランは苦笑しながら首を振る。

「今日も当たりはなしです。覚悟はしていましたが、ここまで見つからないと途方に暮れてしまいますね」

「そんなに見つからない?」

「季節が季節ですから、仕方ないとは思うのですけどね」

「まあ、そうよね。冬の草だものね」

 口ではそう言いつつ、ニナは内心いまいち釈然としない気持ちを抱えていた。―そんなに見つかりにくい草だった?

「ねえ、フラン」

 ニナは、本を抱えて図書室から立ち去ろうとしていたフランの背中に声をかけた。

「エイブラムはなんのために研究をしてるの?」

 フランは穏やかな笑みを浮かべたまま、こう答える。

「申し訳ありません。僕の口からそれを申し上げることはできません。ですがニナ様が直接お尋ねになれば、エイブラム様はきっとお話してくださると思います」

「そっか……うん、わかった。ありがとう」

 フランが去った後もニナは読書を続け、そうするうちに再び扉が開く音がした。

 顔を上げると、そこには父の姿があった。

「珍しいね、こんな時間まで読書かい?」

「うん、ちょっと宿題をね」

「エイブラム殿の宿題かい? 聞いた話では、真面目に取り組んでいるそうだね」

「だってあいつ、ちゃんとやらないとねちねち言ってくるんだもの。……ねえ、お父様」

「うん? 何だい?」

「わたしがすごく小さい頃、ファリジャと一緒に山にずっと入り浸ってる時期がなかった?」

 父は、少しだけ表情を硬くする。

「ああ、あったよ。最初はファリジャに連れられて、途中からはファリジャを引き連れるようにして、ニナは毎日山に入っていった」

「うん、やっぱりそうだよね」

 ニナは頷きながら、さっぱりした口調で言う。

「あんまりはっきり覚えてなかったから、確証が欲しかったの。ありがとう、ちゃんと覚えてくれてて」

「ニナ。きみがそんなことをしていた理由は覚えているかい?」

「うん。忘れちゃってたけど、思い出した。きっと忘れたかったんだろうね、わたし」

 薄暗い部屋で、女の子が泣きじゃくっている。彼女は胸に細長い草の束を抱えている。

 ……ファリジャの嘘つき! こんな草、何の役にも立たないじゃない……。


 翌朝、エイブラムが部屋にやってくるやいなや、ニナはこう切り出した。

「エイブラム。あんた、こんなことをやってる暇があるならさっさと調査に行きなさい」

 エイブラムは目を瞬かせ、それから面白がるような顔でニナを見る。

「宿題を出してあったと思いますが、あれはどうなりましたか。薬草論の第五章です」

「もう最後まで訳し終わったわよ」

 ニナは分厚い紙束をどさりと机に置く。エイブラムはまた目を瞬かせ、紙束にびっしりと書かれた文字に目を通し始める。

 やがてエイブラムは顔を上げて、言う。

「細かい間違いはありますが、非常によく訳せています。九十点といったところでしょうか」

「景気良く百点にしなさいよ」

「少し直せばそうなりますよ。いや、まったく驚きました。しかし、おそらくこれがニナ様の本来の実力なのでしょうね。元々基礎はできていましたから、後は最後の一押しさえあれば……」

 ニナは気恥しげな顔をしながら、エイブラムを追い払うように手を振る。

「とにかく、これでわかったでしょ。もう家庭教師は必要ないの。あんたはさっさと自分のやるべきことに取りかかりなさい」

「かしこまりました。ありがとうございます、ニナ様」

 礼を述べて退席しようとしたエイブラムの服の袖を、ニナはひょいと掴む。

「あと、わたしも連れていきなさい」

「……ニナ様?」

 珍しく当惑しきった顔のエイブラムを、ニナは燃え盛る緋色の瞳で見上げる。

「聞こえなかったの? わたしも連れてけって言ってるの」


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