雪の草①

「ニナ様、おはようございます。―おはようございますってば」

 天から降り注ぐ声に導かれて、ニナは瞼を開ける。

 ぼやけた視界の端で、白っぽくてもこもこした、メイドの制服を身に纏った、二足歩行する犬が朝食のお盆をテーブルに載せている。大きな耳は垂れていて、犬のくせに鼻はあまり高くない。背丈はニナと同じくらいで、薄目で見ると巨大な毛玉がころころ動き回っているように見える。

 その姿を確認して、ニナは再び瞼を閉じる。

「ちょっと、ニナ様ってば」

「……まだ寝る。朝、苦手」

「それは存じ上げておりますけど、今日は十時から古語の授業があるでしょう? そろそろ支度しないと間に合いませんよ」

 すっぽかす、とニナは呟いたが、もこもこしたもの―彼女の身辺の世話を任されているメイドのシシーである―は垂れた耳をひょこひょこ上下させながら、てきぱきと準備を進めていく。

 ニナは諦めて、よたよたとベッドから這い出る。ニナは普段から気力の満ち溢れているほうではないが、朝は一段と無気力だ。もとより白い肌はさらに白く、鮮やかな緋色の瞳は眠気でどんよりと曇っている。唯一、銀糸のごとき髪のみが、いつもと変わらず艶やかである。

 ニナは差し出された水瓶で顔を洗うと、窓際の瀟洒な白い椅子に腰かけた。ここから外の景色を眺めながら朝食を食べるのが彼女のお気に入りだった。

「……あ」

「どうかされましたか?」

 シシーはニナの髪を三つ編みでふたつにまとめながら尋ねる。ニナは魔族には珍しく角がないので、彼女のメイドは主の朝食中、角磨きをする必要がない。

「またいる」

 ニナの指差した先には、三つの人影が並んでいる。距離があるのではっきりとは見えないが、雪の中に並んで立っているのは狼の顔と熊の体躯を併せ持ったような獣人と、彼に付き従うように歩くふたりの帝国人の青年だった。淡い金髪の青年と、その前を歩く赤銅色の髪の青年。

「ああ、エイブラム様。今日も山に入られるんですね」

「毎日山に行って、なんか面白いことでもあるのかしら」

「面白いからではなく、調査のためでしょう。学者様なんですから」

「ふーん、調査ねえ……」

 ニナは興味なさげに顔を背けたが、その目は無意識のうちに、次第に小さくなっていく赤銅色の後姿を追っていた。 


 帝国人の学者が来ると聞いてニナが想像したのは、眼鏡をかけてひょろ長い体をした若者だった。

 実際のエイブラムは、想像とはだいぶ違っていた。赤銅色の短く切り揃えられた髪と顎髭。長身で引き締まった、精悍な立ち姿。濃紺を基調とし、要所に銀糸をあしらった衣服もなかなか決まっている。若いメイドたちが騒ぎ立てるのも無理はない。

「でもあいつ、なんかいつもにやついてない?」

 ニナは家庭教師に渡された書物に、形ばかりは目を通しつつ言う。全編古語で書かれているので、集中しても一時間で五ページくらいしか進まない。今は集中してないので、一時間で一ページも進んでいない。

「ニナ様、ああいうのは不敵な笑みって言うんですよ」

 どこか浮ついた声で言うシシーを、ニナは面白くなさそうな目で見やる。彼女もメイド仲間たちと同じくエイブラムを気に入っているらしい。

「それにエイブラム様って、あたしたちにもとっても優しいんですよ。貴族の方なのに全然気取ったところがないんです」

 自身の主も貴族だということを忘れていそうなシシーに、ニナは冷や水を浴びせかけるように言う。

「あいつの父親、子爵でしょ。全然たいしたことないじゃん。平民みたいなもんよ」

「あら、そうなんですか? でもたしかに、あちらの流行小説に出てくる貴族の殿方はだいたい公爵か伯爵ですよね。こっちだと子爵って聞かないから、どれくらい偉いのかよくわかりませんけど」

「子爵家なんてぱっとしないわよ。おこぼれで貴族にさせてもらってるようなものだもの」

 帝国の爵位制度のことなどろくに知らぬまま、ニナは傲然と言う。

「でも、帝国一の剣士と名高いランダルト様もエイブラム様の家の出身らしいですよ。ニナ様もご存じでしょう? 黒刃の聖騎士ランダルト様」

「何よ、その流行小説の登場人物みたいな人……」

 きらきらと目を輝かせているシシーを適当にあしらうと、ニナは椅子から勢いよく立ち上がる。

「あ、ちょっとニナ様。さぼるならせめて、部屋から出ないでくださいな」

「違うわよ、本を取りに行くの。こんな調子じゃ丸一日かけても終わらないもの」

「古語辞典なら、ここにあるじゃないですか」

「そうじゃなくて―この本、たしか図書室に現代語訳が置いてあったと思うのよね」

 シシーの丸い瞳がなんとも言えない表情を帯びる。

「……それを、そのまま書き写すので?」

「そのままじゃ完璧すぎて怪しいから、ところどころ間違えとく」

 そう言い放つと、ニナは意気揚々と部屋を飛び出す。シシーは処置なしという風に首を振り、主が散らかした部屋の掃除を始める。


 優美な円を描く螺旋階段を駆け降り、途中、厨房でチーズをもらったり、大広間に飾られた肖像画の前で―翼の生えた、美しい婦人が穏やかに微笑んでいる―少し時間を潰したりした末に、ニナは図書室に辿りつく。

 ガルプ伯の図書室と言えば、王国の貴族の間でもその名が知れ渡っている。愛書家の伯が収集した何千という蔵書が収められた図書室は質、量ともに、魔王の城のそれにも劣らないと謳われる。―ニナの個人的見解では、近年刊行された本の質については我が家の図書室のほうが優っているという確信がある。なにせ、当代の魔王は流行小説ぐらいしか読まないだろうし。

 重たい木の扉を押し開けると、古びた本の匂いがふわりと漂い始める。ニナは古いものより新しいものが好きな娘だったが、この部屋の匂いはそんなに嫌いでもなかった。幼い頃に入り浸っていた父の執務室を思い出させるからかもしれない。

「えーと薬学、薬学と……」

 ニナは目当ての本を探して、部屋の奥へと向かう。

 すると、棚と棚に挟まれた通路で本に目を通していた長身の男とばったり鉢合わせることになった。

 長身の男、すなわち赤銅色の髪の学者で帝国の子爵の息子の青年は瞬いてから、柔らかく会釈する。ニナは口を引き結んだまま、軽く頷いてみせる。

 ……この笑顔が、なんか気に食わないのよね。

 落ち着いた大人の笑みと言えば聞こえはいいが、なんとなく侮られている感じがする。お前のことなど全部お見通しだぞ、と言われているような。

 ……それにしても、なんでいるのかしら。山に行ってたんじゃなかったの?

 そう考えてから、窓の外の雪が次第に勢いを増していたことを思い出す。ガルプの地では、夏場でも当たり前のように雪が降る。たしかにあの天気では調査をしている余裕などないだろうし、下手に山に入れば遭難だってしかねない。先週も七日のうち三日は激しい雪が降っていたし、せっかく北の果てまで調査に来たというのに、この男も不憫ではある。

 だが、いけすかない学者の調査など―そもそも彼が何の調査をしているのかも知らないが―自分には関係ないことだ。気を取り直して、ニナは目当ての本を探し始める。

「たしか、この辺りに……ああ、あれね」

 ニナは棚の最上段に、見覚えのある背表紙を見つける。

 ……あんな高いところにあったかな?

 ニナは手を伸ばすが、目一杯背伸びをしても上から二段目までしか届かない。飛び跳ねれば届くかもしれないが、本を取るためにわざわざそんなことをするのもなんだか恥ずかしいし、もし失敗して周囲の本を落としたりしたらさらに恥ずかしい。

 と思っていると背後から大きな手がすっと伸びてきて、目当ての本を棚から抜き取り、ニナの眼前に差し出した。

「こちらの本でよろしかったですか」

 落ち着いた、相手に安心感を与える声。

 ニナはどういたしまして、と澄ました顔で言ってから本を受け取った。そのままさっさと立ち去ろうとしたのだが。

「ダールの薬草論ですか。いいですね」

「……」

 無視するのも感じが悪いので、とりあえず立ち止まる。

「お嬢様は薬草に興味がおありで?」

「別に、自分で読みたいわけじゃないわよ。古語の授業でこれ、訳してるの」

「ああ、なるほど。たしかにダールの薬草論は文章が平易ですから、教材にはもってこいかもしれませんね」

 ……あれが平易だと? あの一文読むだけで気力を根こそぎ奪われるような文章が?

「元々民衆向けに書かれたものですから背景知識も要りませんし、何より、今の目で見ても驚くほど誤った記述が少ない。先人の知恵というのはたいしたものだと、つくづく思います」

 淀みなく話すエイブラムに少々面食らいつつ、ニナはふと、そういえばこの男の専門は薬学だったなと思い出す。

「あんた、ここに何しに来たの?」 

 エイブラムはきょとんとニナを見返す。

「この図書室に、ということですか?」

「こんな北の果ての果てまで何しに、ってこと」

 ああ、とエイブラムは得心した顔で呟く。

「慈幽草の調査ですよ」

 ……慈幽草?

 その言葉を聞いた瞬間、ニナの脳裏には青く晴れ渡った空と、それと対照をなす雪原が浮かび上がる。大吹雪の止んだ翌日、白雪の絨毯に覆われた山の頂で、ニナはそのまっすぐと天に向かって伸びる草を見つけた。―はて。一体なんだったっけ、この記憶は。

「半月探して、今のところ収穫はありませんがね。季節の問題もあるとは思いますが」

「いつ頃が多いんだっけ?」

「冬から春の初めにかけてですね」

「じゃあ、それまで待ったら」

「そうですね。そうできれば良いのですが、生憎時間がないもので」

 エイブラムはそう言うと、再び会釈をして図書室から姿を消した。

 ……時間がないって、どういうことかしら。

 ニナは疑問に思ったが、厨房から漂ってくる黄金鳥のスープの匂いを嗅ぐと、そんなことはすぐに忘れてしまった。


 翌日、ニナは完璧に仕上げた訳文を準備して教師の到来を待った。

「ニナ様……ばれても、あたしは何もしてあげられませんからね?」

「大丈夫。我ながら芸術的な出来だもの。いかにもわたしが間違えそうな部分でちゃんと間違えてあるし」

「堂々と情けないことを言わないでくださいな」

 十時を告げる鐘が鳴ると同時に、扉を叩く音がした。

 ニナはどうぞ、と返しながら少し不思議に思う。あの教師、毎日きっちり遅刻してくるのに、なんで今日は時間ぴったりなんだろう?

 扉を開いて入ってきた人物を一目見るや、ニナは絶句する。

「失礼いたします」

「エイブラム様⁉︎」

 シシーが黄色い声を上げる横で、ニナの顔はみるみる青ざめていく。

「あ、あんたなんで……」

「急遽代役を頼まれまして。些か力不足かもしれませんが、よろしくお願いします」

 エイブラムは、目線をふらふらと彷徨わせているニナの手元に置かれた紙束に目を落とす。

「これが宿題ですね?」

 ニナは生気の抜けた人形のような顔で、こくりと頷く。

 エイブラムは紙束を手に取り、ぱらぱらとめくり始める。ニナは判決を待つ罪人の気持ちで、ぎゅっと拳を膝の上で握りしめる。

 やがてエイブラムはふむ、と呟いてから軽く頷く。

「大変良くできています」

 予想外の言葉にニナは拍子抜けする。

「ただ、ひとつ忠言させて頂くと、あの訳書は原書を忠実に訳しているわけではないのですよ」

「え」

「明らかに誤った記述は省いていたり、逆に少し言葉足らずな部分は補筆したりしています。そういう訳し方の是非には諸論あるかと思いますが、それはさておき今はニナ様の訳文です。たとえば、こちらに訳して頂いた一文が原書のどの箇所に当たるのかと言うと……」

「……もうわかったわよ。原書にこんな文章、ないんでしょ」

「左様です」

 不貞腐れて頬杖を突くニナに、エイブラムは朗らかな笑みを向ける。……やっぱりこいつ、いけすかない。人の恥をこんなに良い笑顔で笑ってんじゃないわよ。

「すごいです、エイブラム様。ニナ様にこんなにあっさりと負けを認めさせちゃうなんて。普段は全然自分の非を認めようとしないんですよ」

「実を言うと昨日、図書室で偶然ご一緒させて頂きまして」

「なーんだ。じゃあ最初からニナ様の浅はかな企みなんて全部お見通しだったわけですね」

「……あんたもにこにこ笑いながら主人を貶してるんじゃないわよ」

「だって事実じゃないですか」

 反論が思いつかず、ニナはただただ恨めしそうな目でシシーを睨む。

「ですが、最初に褒めさせて頂いたのは決して嘘ではありませんよ」

 そう言って、エイブラムは再びニナの訳文に目を落とす。

「自力で考えられたと思しき箇所も、少々間違いはありますがしっかりと訳されています。前評判よりも遥かに出来がいい」

「前評判……?」

 エイブラムははぐらかすような笑みを返すと、ニナの横の椅子に優雅に腰かける。

「さて。お喋りはここまでにして、今日の授業を始めましょう」

 

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