裏門の番人たち③
ティフォードは欠伸を噛み殺しながら、夕食の給仕の列に並んでいた。
今晩は夜勤である。夜通しで見張りをするために日中に睡眠を取るのだが、やはりどうにも慣れない。なにせ地元にいた頃は、日の出より前に起きる生活をしていたのだ。
しかし十分な睡眠が取れていなかろうと、食事はしっかり摂らなければならない。基本的に門の前で立っているだけとはいえ、ずっと立ちっぱなしというのは存外体力を食う。
とりあえず軽めのものから、とスープに口をつけようとしたティフォードの前方で、小さな物音がした。
「……ここ、座ってもいい?」
見上げると、夕食のお盆を手にしたディアが目の前にいた。
「あ、うん。構わないけど」
一見何気ない風に返しながら、ティフォードは驚愕する。まさかディアのほうからこんなことを言ってくるとは。少し前までは考えられなかったことだ。
「ありがとう」
ディアは席に着くと、豚肉と豆の炒めものを黙々と食べ始める。なんとなくディアに対して草食動物のような印象を抱いていたティフォードは少し意外に思う。だが、耳の形は犬や狼に似ているし、肉食動物に近い性質を持った種族なのかもしれない。こんなどんくさい感じで狩りができるのだろうかとは思うが。ひょっとしてこの前言っていた「他にできることがない」というのは、狩りができないから町に働きに出てきているということなのだろうか。
失礼な想像を広げるティフォードの背中をばすん、と衝撃が襲う。
スープにむせつつ振り返ると、にやついた表情のニコラが見下ろしていた。背後にはシファとサジャもいる。
「なんだよ」
「いやあ、知らぬ間に随分と急接近したものだなあと思ってさ。一体どんな手を使ったんだか」
「そうね、ちょっとびっくりしちゃった。やっぱりレンティス一の女たらしっていう噂は本当だったのかしら」
「いや、だからそれはダナモス様が言ってるだけで……っていうか、これから夜勤だからさっさと食べさせてくれないか」
「とかいって、ふたりの時間を邪魔されたくないだけなんじゃ?」
「仕事中もずっとふたりきりなのに、欲張りな人」
「いや、お前ら本当に……」
「あ、あの」
ふいに口を開いたディアに、その場の全員の視線が集中する。
「み、皆を仲間外れにしたいとかじゃなくて、本当にもうすぐ夜勤の時間だから」
刹那の静寂の後「そうね」とサジャの冷静な声が響く。
「わたしたちと違ってこれから仕事なんだから、邪魔しちゃ悪いでしょ」
「ま、それもそうか」
「ちょっとからかいすぎちゃったかしら。ごめんなさいね、ディア」
「う、ううん。全然」
身振りで意思を表示しようとしたのか、ディアは軽く手を上げる。そのはずみに手にした木のスプーンを取り落とす。
床に落ちたスプーンを、近くにいたサジャがすかさず拾い上げる。―その瞬間ディアが浮かべた表情を、ティフォードは以前にも見たことがあった。
「これ、返却しておくね」
「う、うん。……ごめん」
ディアは表情を隠すように、いつもより深く俯く。
「いいのよ。それじゃあ、お仕事頑張ってね。ごめんね、びっくりさせちゃって」
ディアは俯いたまま首を横に振り「ごめん」ともう一度呟いた。
三人が去った後、ディアは夕飯にろくに手をつけぬまま立ち上がった。
「……先に行ってるね」
「ああ、気をつけてな。俺もすぐ行く」
足早に去っていく後姿を見ながら、ティフォードは先ほど目にした光景を思い返す。サジャがディアのすぐ傍で屈みこみ、互いの腕が触れそうなほど接近した瞬間、ディアの瞳に浮かんでいたのは恐怖だった。彼女と最初に会った日に向けられたのと同じ、明確な拒絶の色。
「……あいつ」
サジャは何か知っているようだった。捕まえて、話を聞いてみるか。あるいは、いい加減ダナモスに口を割ってもらうべきだろうか。だが、なんにせよまずは今夜の仕事をこなさなければならない。
ティフォードが裏門に到着してもディアは振り向かなかった。門の脇の篝火に照らされた横顔からは、何の表情も読み取れない。
「悪い、遅くなった」
「ううん、気にしないで」
表面的には、普段のディアよりもよほど落ち着いた声だった。まるで最初から心を通わせることを放棄したような冷たい響き。
ティフォードは黒々とした空に浮かぶ、柔らかな星の光を見上げる。彼は昔から夜の空が好きだった。星について特段詳しいわけではないし、占星術の類にも興味はなかったが、夜の空を見上げるといつも心が落ち着いた。故郷から遠く離れたこの町でも、それは変わらない。不吉な印象などひとつもない、ただただ優しい光の連なり。
ティフォードは視線を下ろし、普段より幾分静かな声で尋ねる。
「おまえ、帝国人が怖いのか?」
ディアは答えない。頑なに俯き、ティフォードと目を合わせようとしない。
「帝国人になんか嫌なことでもされたのか」
ディアは身じろぎすらしない。ティフォードの声など初めから聞こえていないかのようだ。
「話したくないなら、無理に聞こうとは思わないけどさ」
だが、自分で良ければ話してほしい。なぜ帝国人に近づかれるのが、そこまで怖いのか。そのくせどうして、帝国人の自分と並んで門番などやっているのか。そんなに怖いならダナモス様に頼んで仕事を変えてもらえば良いだろう。
ティフォードが次の一言を発する前に、ディアの口元がわずかに動いた。言葉にならない、掠れ声のようなもの。だがティフォードの耳は、その音をたしかに捉えた。
だが、調子外れで耳障りな音が、そのかすかな声を掻き消していった。
「……酔っ払いめ」
ティフォードは不快そうに眉をひそめたが、やがてその瞳に訝しむような色が表れる。
徐々に近づいてくる、陽気というよりはひたすら騒々しい歌声。音程も言葉もすっかり崩れてしまっているが、ティフォードはその歌を知っていた。
それは帝国の古い歌だった。戦場で兵士たちがよく歌っていたそうで、その歌詞はよく言えば勇ましい、はっきり言えば暴力的な内容だった。
「槍を突き刺し獣を屠り……おっ、見えてきたぜ」
不揃いな合唱の主は、ティフォードの想像通り帝国人だった。赤らんだ顔は、どれもあまり人相が良くない。傭兵か、あるいは傭兵崩れのごろつきというところだろうか。
「なんだ、随分貧相な作りじゃねえか。帝都の馬小屋だって、これよりマシな門がついてらあ」
一団の先頭に立つ大柄な男が、門のすぐ傍まで歩み寄ってくる。ティフォードはそれを手にした槍で制する。
「お引き取りください。魔王陛下のお許しなく、この門を通ることはできません」
「……はっ」
男は口元を歪め、酒臭い息をティフォードに浴びせる。
「なんでてめえの薄汚ねえご主人様のお願いなんぞを、俺が聞かなきゃならない?」
「決まりですので」
ティフォードは淡々と言いながら、招かれざる客たちを検分する。人数は五人。見たところ武器は、腰から吊るした短剣ぐらいか。おおかた大通りの酒場から、ふらふらと迷いこんできたのだろう。こういう手合いはちょくちょくやってくるが、少し相手をしてやれば帰っていく。彼らも酔いの底に沈んだ本能では、魔王の住まいに踏み入るのはまずいと理解しているのだろう。
仕方ない、たまにはこういう日もある。できれば、もう少し日を選んで欲しかったところではあるが。
嘆息しかけたティフォードの顔を、男がじろりと睨む。
「なんだてめえ、帝国人か?」
「そうですが」
「帝国人がどうして魔物の城なんぞを守ってる?」
男はティフォードの答えを待たず、にやりと口元を歪める。
「向こうでなんかやらかして逃げてきたわけか。だからってこんな化け物の巣まで逃げてくるたあ、情けないやつだ」
「逃げてきたわけじゃありません。俺は自分の意思でこの町までやってきたんです」
冷たい声で答えると、酔漢たちの嘲笑が飛ぶ。
「好き好んでこんなとこまでやってくるたあ、酔狂なこった!」
酔ってんのはそっちだろ、と言いたくなるのを、ティフォードはぐっと堪える。向こうはたいした武器も持っていないとはいえ流石に多勢に無勢だし、下手に刺激するのは避けたい。だが、あまり長居をされたくないのも事実だ。なにせ、今ここにいるのは自分だけではない。―彼女に危害が及ぶような事態は、何としても避けなければ。
ティフォードは首にかけた小笛を男たちに示してみせる。
「そろそろお引き取り願えますか。なんならこいつで、城内の兵士を呼んでやってもいいんですが」
「ああ?」
男は威嚇するように凄んでみせたが、やがて舌打ちをひとつすると背後の仲間たちを振り返る。
「行こうや。この兄ちゃんと喋ってると、こっちまで頭がおかしくなってくらあ」
「なんだ、もう帰んのかい? 化け物の町なんぞに行かにゃならんなら、せめて美女と名高い魔王を一目見たるって息巻いてたじゃねえか」
「化け物の美女なんざ、帝都一の醜女以下に決まってらあ」
……お前らが今まで見たこともないくらい綺麗なお方だよ、少なくとも見た目はな。
酔漢たちは白けた顔をしつつも、先頭の男に従って門前から踵を返す。ティフォードは内心、ほっと胸を撫で下ろす。
その直後、最後尾の男が振り返り、再びこちらへ歩み寄ってくる。
男は門の脇で身を隠すように縮こまる、小柄な影の前で足を止める。
「なんだこいつ、物乞いのガキか?」
ディアは一瞬、びくりと体を震わせる。
「やめろ、そいつは―」
「おい、行くぞ。物乞いなんざ珍しくもねえだろ」
「いや、そいつ本当に物乞いか?」
「知らねえけど……見ろよ、こいつ犬っころみたいな耳してるぜ。獣混じりのガキだ」
「へえ」
男たちの目に、うってつけの玩具を見つけたような暗い光が宿る。
「お嬢ちゃん、何してんだこんなとこで。帰る家がないのかい?」
「なんなら俺たちと一緒に来るかい?」
ディアは身を震わせながら、いっそう体を小さくする。それに追い打ちをかけるように、男のひとりが酒気を帯びた顔をディアのすぐ傍まで寄せる。
「そいつに触れるな!」
気がつくと、ティフォードは男を思いきり殴りつけていた。
男は吹き飛び、仲間たちの間に倒れこむ。
刹那の自失の後、ティフォードは我に帰る。槍を構えるか、笛を吹くか。わずかな迷いの後に首元の笛に手を伸ばすが、
「させねえよ」
突如鳩尾を襲った衝撃に、大きくよろける。
「正義の騎士様気取りか、ああ? 化け物相手にご苦労なこった」
衝撃が、今度は顎に飛んでくる。ティフォードは手にした槍を取り落とし、そのまま地面に倒れこむ。よろよろと地面に手をつくやいなや、背中からかけられる重圧で胃の中身が逆流しそうになる。
「こんな弱っちぃのが門番たあ、魔王の部下ってえのは余程の雑魚揃いだな。なんでご先祖様はそんなのと何百年も戦ってたんだか……」
ティフォードの眼前で笛が踏み潰される。
「どうする? 身ぐるみ剥いで、路地裏にでも捨てとくか?」
「あん? なまっちょろいこと言ってんじゃねえ。化け物とつるんでるようなやつには、自分がどれほど大馬鹿か、しっかり教えこんでやらねえとな」
「あー、教会の説教にもあるよな。化け物と仲良くする馬鹿には天罰が下るみたいなの」
……ディア、早く笛を。
ティフォードはそう叫ぼうとしたが、出てきたのは掠れた呻き声だった。視線を可能な限り持ち上げて、ディアの様子を探ろうとすると、眼前に青白い輝きを放つ刃が突きつけられた。
「お前のかわい子ちゃんは俺たちに任せとけ。何、悪いようにゃしねえよ」
男は笑いながら、ティフォードの頭上高くに短剣を掲げる。その鋭利な切先が、夜空の細い月と重なる。
「あばよ、獣好きのにいちゃん。次に生まれてくるときは、もう少しマシな趣味になってることを願ってるぜ」
……逃げ……。
ティフォードは目を閉じ、ただ祈る。俺はもう無理だとしても、あいつだけはどうか―。
ひゅっと、風がティフォードの頭上を駆け抜けていった。
「……あ?」
男の間の抜けた声に、ティフォードは目を開ける。その瞬間、カタリと音を立てて短剣が地面に転がる。それとほとんど時を同じくして何か細長いものが二本、短剣に重なるように落ちてくる。
ティフォードはそれを凝視し、それから視線を上に向ける。先ほどまで短剣を握っていた男の指先は―。
再び、風が吹いた。直後、ティフォードの頬に何かが飛んでくる。雨粒のような、しかしもっと温かく、鉄の匂いがするもの。
ティフォードは顔を上げ、周囲の様子を窺う。
男たちもまだ何が起きたのか理解できていないようだった。茫然とした顔で、千切れた指や血の流れる肌をじっと見ている。
ひとりが辺りを見回し、酔いの醒めきった声で呟く。
「……あのガキは?」
それが合図だったかのように、三度風が吹く。風に舞い上げられて、鮮血が散る。血の糸を辿るようにティフォードは目を走らせ、ついにその姿を捉える。
月の光を浴びて煌めく爪。血に濡れた口元から覗く牙。そして怯えも躊躇もなく、獲物を静かに見つめる薄緑の瞳。
気がつくとまた風が起こり、それはすでに姿を消している。
「あのガキ、どこに消えやが……」
言いかけた男の首筋から血の雨が噴きだす。それを茫然と見ていた男たちも、いつのまにか新たな傷を負っている。
闇の底の何処からか、フッという抑えた息遣いが聞こえてくる。獲物を威嚇するような、あるいは迂闊に巣に足を踏み入れた愚か者を警告するような。
絶叫とともに男たちが駆け出す。自分が捕食される側だと理解した彼らの逃げ足は速い。
「おいっ! 畜生、置いてくんじゃねえ!」
悲痛な声で叫んだのは、ティフォードを殴り、短剣で突き刺そうとした男だった。足をやられているらしく、地面を這ってその場を逃れようとしている。
彼の背後に、小さな影が音もなく現れる。喉の奥を鳴らすような唸り声に、男は目と口を大きく開いたまま動きを止める。
「あ……。ち、ちげえんだよ」
「何が違うの」
ざらついた、まるで獣が無理やり言葉を発しているかのような声だった。
「ちょっとからかってやろうと思っただけなんだ。本気で殺そうなんて気はさらさら……」
男の耳元で血飛沫が上がる。悲鳴を上げる男の正面に回り、ディアは赤く染まった指先を空中に伸ばす。
「こんな風に短剣を構えてたよね。それでも、ティフォードを殺す気はなかったの?」
「ちげえんだ、俺はただ……」
男の言葉は、ディアの顔を見上げた瞬間に途切れる。会話が通じる相手ではない。自分は獣に向けて命乞いをしているに過ぎない。そう悟ったかのようだった。
ティフォードの耳の奥で、ひとつの声が鳴り始める。
逃げなくては。今すぐあれから離れなくては。
一欠片の理性でその声を否定するが、声はますます大きくなっていくばかりで止む気配がない。
落ち着け。あれは―ディアはそもそも俺を助けるために、立ち向かってくれたんじゃないか。だが、あれは立ち向かうというよりもっと一方的な、今すぐ殺せる獲物をゆっくりといたぶっているような―。
男の絶叫でティフォードは我に帰る。
男は指の欠けた手で、血がどくどくと流れ出る耳元を押さえながら、声にならない叫びを上げている。
「もう十分かな。これでティフォードと同じくらい、痛い思いをしたよね」
ディアは右手を持ち上げ、断頭台に立つ処刑人のように、男の首筋にぴたりと押し当てる。
やめろ。それ以上は、駄目だ。やめるんだ。
「この―化け物!」
ティフォードは無我夢中で地面に落ちた槍を手に取り、そして―。
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