裏門の番人たち②

 その夜ティフォードは、どこまでも果てなく続く黒曜貝の皿の海に軽い目眩を覚えていた。食べても食べても貝、貝、貝。黒曜貝は決して安く買える食材ではないし、大変ありがたく、このうえない贅沢だとは思うのだが。

「さーっ、じゃんじゃん食べちゃって! 今夜は無礼講よ!」

 遠くのテーブルでは、この宴の発起人である魔王その人が、すでにだいぶ酔いの回っていると思しき赤ら顔で周囲にくだを巻いて、もとい声をおかけになっている。

 ティフォードはあえて離れたテーブルに座ったが、彼女のすぐ近くには位の低い兵士や使用人の姿もある。こういった景色は帝都の宮城の宴ではなかなか見られないのではないだろうか。そういう宴に縁のある身分でもなかったので、実際のところはよくわからないが。

「やあ、ちゃんと食ってる?」

 突然の声に振り向くと、そこには仮面をつけた大執事の姿があった。顔全体を覆う仮面を付けている日もあるが、今日は食事をするためか、顔の上半分のみを覆う仮面にしている。以前本人から聞いた話では「目元さえ隠れていれば問題ない」らしい。何が問題ないのかは皆目さっぱりだが。

「食ってますよ」

「それにしては皿の中身があまり減っていないようだけど」

「黒曜貝って美味しいですけど、こってりしてて、いくつも食べるのには向かなくないですか」

「老人みたいなこと言うね、きみは。私も概ね同意見だが」

 ダナモスはそう言いつつ、深めの皿に盛られた蒸し貝にひょいとフォークを突き刺す。

「それで、首尾のほうはどうかな?」

「食べるか話すかどっちかにしてください。なんですか、首尾って」

「仕事のことだったり、そのほか諸々のことだったりさ」

「仕事は万事異常なしです。日誌に書いている通りです。そのほか諸々も平穏無事に過ぎています」

「もっと血湧き肉躍るような、もしくは心ときめくような報告はないのかい?」

「衛兵の生活にそんなものを期待されましても」

「別にごく些細な、ちょっとした変化でもいいんだよ。仕事仲間と仲良く話しましたとかね」

 ティフォードはふいと目を逸らし、もうあまり食べる気の起きない焼き貝を皿に運ぶ。

「そっちのほうも変化なしです」

「つまり、相変わらず朝から晩までだんまりってことかい? 随分と体たらくだな、レンティス一の色男と浮名を流していたきみが」

「人の過去を勝手に捏造しないでください。……別にいいでしょう、一日中だんまりでも。仕事に支障が出ているわけでもないし」

「いやいや。普段から仲良くしておかないと、いざというときにうまく連携できないよ。たとえば、魔王様の首を狙う悪漢が城に押し寄せたときとか」

「そんなこと、俺が働き始めてから一度も起こってないですよ。それに」 

 彼女は俺を嫌っているんじゃありませんか。ティフォードはそう言いかけて、言い淀む。その隙を狙ったように、ダナモスはぽんとティフォードの背中を叩く。

「まあ、ともかくだね。もう少しだけ頑張ってみてくれたまえ。どうしても勇気が出ないなら、手を貸してやらないでもないからさ」

「……なんだって、そこまで気にするんですか」

 ダナモスは何かと世話を焼きたがる男だ。それはわかっているのだが、この件に関しては少々うっとうしいほど話を振ってくる。まるで、ディアに何か特別目をかけなければならない理由があるかのように。

「きみは彼女と仲良くなりたくないのかい?」

「そんなことは言ってません。ただ……」

「だったらつべこべ言わず、当たって砕けろの精神さ」

「そんな告白するんじゃあるまいし……」

「勢い余って告白してくれても一向に構わないけどね。傷心の酒には付き合うよ」

 ティフォードは肩を落としながら、息を吐く。

「わかりました。もうちょっと頑張ってみますよ」

「ああ、よろしく頼んだよ」

 そう言って立ち去る瞬間ダナモスが浮かべた笑みは、それまでの表情とは何かが違っているように思えた。信頼している者に仕事を託すときのような、期待を込めた笑み。

「……いや、見間違いだな」

 ティフォードは即座に自分の考えを否定すると、冷めた焼き貝を口に運んだ。


 翌日、快晴の空の下、ティフォードはひとり悩んでいた。今日も横で俯きがちにしているディアにちらりと目をやっては、また正面に向き直るのを何度も繰り返している。

 彼女とともに仕事をし始めてから半年間、ほとんど会話らしい会話を交わしてこなかったとはいえ、これは一体何なのだろう。自分はここまで引っ込み思案な性格だっただろうか。

 思い切って口を開きかけては、また閉じる。それを何度か繰り返した末、ティフォードの口から発せられたのはこんな一言だった。

「……いい天気だなあ」

 しばしの間、辺りには小鳥の囀りだけが長閑に鳴り響く。耐えきれず、ティフォードは咳払いをひとつする。

 ……別にそんな難しいことじゃないだろう。なんでもいいから一言、話しかけてみればいい。最近どうだ? ……なんか昨日のダナモス様みたいな切り出し方だな。その服いいな。……これじゃナンパだ。

 悶々と最初の一言の案を練るうちに、赤紫の空の下、一日の終わりを告げる鐘が鳴り渡っていた。翌日は小雨が降っていた。こういう日は壁の突き出した部分の下に立つようにしているが、それでも若干の雨は当たる。

 ディアも壁の下に避難しているので、普段よりも少し距離が近い。ちらりと横目で窺った顔は、今日も俯いている。

 ……関わりを持ちたくないやつと、無理に関わる必要なんてないよな。

 嫌いな相手はなるべく避けて生きていけばいいし、どうしても関わらなくてはいけない相手ならば、顔を伏せて極力目を合わせないようにすればいい。そうすれば、お互いに傷つけ合わずに済む。

 ……ダナモス様には、言わせるだけ言わせておけばいいか。そのうち向こうから見限ってくれるだろ、きっと。

「……きょ」

 それは静かな雨音にも紛れてしまうくらい、か細く頼りない声だった。物思いに耽っていたティフォードは、その声に気づけなかった。

 再び「……きょ」と、先ほどよりわずかに大きな声がして、ようやくティフォードは顔を上げた。

「今日、いい天気だね……」

 ディアは絞りだすような言葉を発したきり、いつも以上に深く俯いてしまう。

 ティフォードは目を瞬かせ、じっとディアのほうを見ていたが、やがてゆっくりと空を見上げると、至極真面目な声で尋ねた。

「いい天気か?」

 ディアは俯いたまま、消え入るような声で「……ごめん、悪い天気だった」と言うと、さらに深く俯いてしまう。

 ティフォードは空を見上げたまま、ぽりぽりと頬を掻く。

「悪い天気ってほどでもないだろ」

 ディアの視線が、ティフォードへと向けられる。

「少なくとも俺の地元じゃ、三日のうち二日はこんな天気だったよ。雨の都なんて呼ばれてたな。ほとんど皮肉みたいなものだったけど」

「……レンティス、だよね」

 ディアのか細い呟きに、ティフォードは思わず「え」と声を漏らす。

「お前、なんでそんなこと……」

「前に、ダナモス様が教えてくれて」

「ああ……」

 あのお節介な大執事殿は、ディアのほうにも色々根回しをしていたらしい。まったく、忙しい中ご苦労なことだ。

「ご、ごめん」

「うん?」

「勝手にそんなこと、知られてたら嫌だよね……」

「いや。別にそれくらい、いいけど。ちなみに、他にはどんなこと聞いたんだ?」

 あんまり何から何までべらべらと話されていると、それはそれで困るのだが。

「家の仕事のこととか。……お父様が、レンティスの司祭様なんだよね?」

「ああ。代々ずっと、レンティスの港の近くの教会で働いてる。……なんでそんな家に生まれたやつが、王都で門番なんかやってるんだって思うよな」

「え、ええと……うん」

「毎朝、親父が信徒に対してちょっとした説教……教訓話みたいなものをするんだよ。たとえば、こんな内容だな」

 ティフォードは毎朝聞かされていた、父親の深くよく通る声を脳裏に甦らせる。

「北の果てにあるという、昏き闇に閉ざされた城。そこでは異形の怪物たちが、夜な夜な忌まわしき宴を繰り広げているという……」

 ディアはきょとんと目を見開く。それから、おそるおそるといった調子でこう尋ねる。

「その城っていうのは……ここのこと?」

「たぶんな。つっても、親父だって実際に王都に来たことがあるわけじゃなかったんだろうけど」

 父だけでなく、この話を最初に語った遠い昔の誰かも、王都を訪れたことなどなかったのではないだろうか。

「最後は大体、聖者や騎士が怪物を討ち払っておしまい。正しい行いをした帝国人は救われて、万が一怪物どもに味方したようなやつには必ず罰が下る」

 戦争は百年前に終わった。しかし数百年間殺し合いを続けた相手に対する嫌悪や恐怖は、そう簡単に拭い去れるものではない。だから教会でも百年前となんら変わらぬ説教―細かい言葉は多少手直しされているだろうが、せいぜいその程度の変化だ―が日々繰り返されている。

「でも、本当にそんな単純な話なんだろうかと思ってさ」

 百年前の人々には、大陸の反対岸まで渡り、司祭の説教が真実かどうかを確かめる術などなかった。だが、今は違う。陸路と海路の双方で、北と南を繋ぐ路が整備されている。望めば誰でも、南の都から北の都まで旅をすることができる。

「……それで、王都の城で働くことにしたの?」

「いや、そこは完全に成り行きというか」

 実家を飛び出し、下働きとして同行していた傭兵団と王都で別れた後、ティフォードはしばらく目的もなくぶらぶらと過ごしていた。そんなある日、酒場で奇妙な仮面の男に話しかけられた。

「なんとなく話に付き合ってるうちに、城で衛兵をやらないかって誘われたんだよ。武器の扱いなんかわからないって言っても聞かないから、仕方なしに次の日城まで行ってみたら、そのまま採用された」

「……すごい」

「すごいというか無茶苦茶というか……」

「ううん、すごいのはティフォード。自分でちゃんと決めて、自分と同じ人たちが全然いない場所にやってくるなんて、わたしにはとてもできない」

 まっすぐ向けられたディアの声と瞳に、ティフォードは少々たじろぐ。今まで気がつかなかったが、こうして見ると彼女の瞳は綺麗な薄緑の色をしている。……いや、だったら何だというのだ。

 咳払いをした後、ティフォードはディアからわずかに目を逸らして言う。

「お前だって、自分の意思で城で働くことを選んだんだろ」

「……わたしは他にできることがなかったから」

 ディアはぽつりと呟くと、いつもの俯きがちの姿勢に戻ってしまう。先ほどまでの妙に積極的な雰囲気は、もうどこにも見られない。

「衛兵の仕事は自分で選んだのか? 他にも城の仕事はあるだろ」

 鈍色の空を見上げながら、ティフォードは尋ねる。

「ダナモス様から、メイドと厨房の下働きと衛兵の中なら、衛兵が一番向いているだろうって」

「ああ、まあそうかもな」

 メイドは結構な重労働だし、厨房の仕事にしてもそうそう休む暇はないはずだ。衛兵は、本来ならもっとしっかり見張りをすべきなのかもしれないが、こうやってぼんやり突っ立っているだけで良いなら自分にだって務まる。

「まあ、俺たちには衛兵くらいが丁度いいのかもな」

「……そうだね」

 それで会話が途切れるが、特段気づまりな感じはしない。静寂を満たす雨音が耳に心地よい。雨の音など故郷で散々聞いてきたはずなのだが、今までこんな風に感じたことはなかった。

「……今日も、お疲れさまでした」

「ああ、お疲れ」

 それは毎日交わしているお決まりの挨拶だったが、ディアの声もそれに応える自身の声も、昨日までとは異なる色を帯びているように思えた。


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