骸骨の恋①

 実家を飛び出してこの町にやってきてから、かれこれ三ヶ月が過ぎた。 

 思い返してみると、実に目まぐるしく慌ただしい日々だったと思う。慣れない土地、慣れない仕事、慣れない人々。生活を構成する全ての要素が、これまでとはまるで異なる。

 だけど思い切って飛びこんでみると、案外なんとかなるものだ。今まで自分がたくましいだなんて一度も思ったことがなかったけれど、いざ追いこまれれば体の底から力が湧いてくるものらしい。

「ライラ、二番テーブルの注文取ってきてくれるかい?」

 ライラの半分ほどの背丈の、針鼠のような風貌の女将が厨房から声をかける。

「はい。こっちを片づけたらすぐ行きます」

 テーブルを手際よく拭きながら、酒場の仕事も板についてきたなあ、としみじみ思う。半年前には自分がこういう店で働くことになるなんて夢にも思っていなかったし、客として酒場を訪れた経験すらなかった。

 いざ働いてみると、この喧噪はそんなに嫌いではない。賑やかで、ときに耳を塞ぎたくなるほどの騒々しさにもなるが、ここには陽気な活力が満ちている。それは、これまでの自分の生活には決してなかったものだ。

「ライラさん、今日のおすすめは?」

「そうですね、ナッツと凍色イモの和え物なんてどうでしょう?」

 獣人の客の質問に、ライラはにこやかに答える。最初の頃は獣人と話す際は常にびくびくしていたが、彼らが話に伝え聞いていたような凶暴な性質の持ち主ではないと気づいてからは、こちらから積極的に話しかけることもできるようになった。

 ……獣人は帝国人の子どもを攫って喉笛を食いちぎるなんて、誰が言いだしたのかしら?

 きっとそんな話を広めた人は獣人に会ったことがなかったのだろう。あるいは、遠い昔の戦争の頃ならば、そういう残酷な出来事も起こりえたのだろうか。

「ライラ、次は四番テーブルだけど……あの客には気をつけな」 

「え、どういうことですか?」

「魔族だよ」

 女将が声を潜めつつ指差す先には、数人の若者たちがたむろしていた。一見するとライラと同じ帝国人のような風貌だが、彼らの前髪の辺りには一本の角が生えている。

「魔族……」

 王都の住民といえば、魔族。ライラはてっきりそう思いこんでいたのだが、実際には王都の民の大半は獣人で、魔族はほんの一握りなのだという。彼らは貴族階級に属していることが多く、ゆえにライラが働くこの店のような大衆的な酒場に魔族が訪れることは滅多にないという。

「あいつらはラフニッド一家といってね、この辺りじゃ有名なごろつきなのさ。没落した貴族の家の息子と、その取り巻きだよ」

「おい、ババア! さっさと酒、持ってこいよ!」

 件のテーブルから飛んできた罵声に、ライラは思わず顔を顰める。

「注文だけ取ったら、さっさと離れちまいな」

「……そうします」

 ライラはしずしずとテーブルに近づき、ご注文を承ります、とできる限りの笑顔を浮かべて言う。

 若者たちは、じろじろとライラを見る。帝国人の少ない町なので物珍しげな目で見られるのは慣れているつもりだが、彼らの視線にはなんとも言えぬ嫌な感じがあった。

 視線に耐えながら注文を取り終えたとき、新たな客が店に入ってきた。

「あ、いらっしゃいませ―」

 その客と目が合った瞬間、ライラは全身が針のように鋭く強ばるのを感じた。

「……へえ、ほんとに帝国人だ」

 青白い肌に、酷薄そうな暗い朱色の瞳。じっとりとした嫌な気配を、全身から漂わせる魔族の青年。

「帝国人の女の子がここで働いてるって聞いたんだけど、まさか本当にいるとは思わなかったよ。なんではるばる帝国からこんな北の果てまで来たのかな?」

「それは……」

「ライラ、早くこっちも運んどくれ! 冷めちまうよ!」

「あ、はい! ……申し訳ありません、呼ばれてますので」

 ライラは軽く頭を下げて、その場を離れる。

「……すみません、ありがとうございます」

「今入ってきたやつがあいつらの頭、ラフニッドの馬鹿息子だよ。なに、あいつらも人目のあるところで騒ぎは起こしたくないだろうから、毅然としてればいいさ」

「……はい」

 青年はそれきりライラに対する興味を失ったのか、酒場の喧騒の底に身を沈めるように、静かに酒を啜っていた。

 しかし夜が更けてしだいに店から客の姿が消えていった頃、テーブルを片づけるライラの背後で再び暗い声が響いた。

「さっきの話だけどさ、まだ答え、教えてもらってないよね」

 勇気を振り絞り、ライラは青年をにこりと見据える。

「申し訳ありませんけど、そのことについてはあまり人に話したくないんです」

「ふうん。ま、そうだよね」

 青年は手にした杯を軽く傾けるが、その視線はライラから一瞬たりとも離れない。

「こんなとこまで逃げてくるくらいだし、ろくな理由じゃないよね。盗みか殺しか、それとも痴情のもつれかな?」

 ライラはもう一度、話したくないことなので、とだけ言うと青年に背を向ける。

「君、可愛いから、きっと三つ目だね。帝都で貴族の愛人をしてたんだろう。どう、正解?」

 意識を深い闇の底に押しこめて、黙々とテーブルを磨く。大丈夫、女将さんの言う通り、彼らだって騒ぎは起こしたくないはず。じっと耐えていれば、やがて過ぎ去っていく。

「せっかく会えたんだし、俺ともちょっと付き合ってよ。こう見えて俺も貴族なんだ」

 青年の発言に、周囲で下卑た笑い声が上がる。

「兄貴も物好きっすね。帝国人の女なんて、すぐババアになるって言うじゃないですか」

「儚い美を愛でるのもいいだろ? そういうわけだからさ、もう客もほとんどいないし、君が抜けたって構わないだろ? こんなしけた店よりもっと良いところに俺と……」

「そのくらいにしておけ」

 突然耳を打った涼やかな声に、ライラは顔を上げる。

「彼女が困っているのがわからないのか。お前に貴族としての誇りがまだ残っているなら、おとなしく引き退ることだ」

「あんだと⁉︎」

「化け物無勢が兄貴に説教たあ、いい度胸してんじゃねえか!」

 怒声とともに、がたりと椅子を跳ね飛ばす音が響く。ライラが青ざめた顔で振り返ったときには、ふたりの魔族の若者が店の隅の席まで迫っていた。

「お望みなら、骨屑にしてやらあ!」

「やめて!」

 ライラが叫んだ瞬間、若者たちは軽くよろめいたと思うと、どさりと床に倒れ伏した。

 何が起こったのかわからず、ライラは目を白黒とさせる。そして倒れた若者たちの向こうに、すらりと背の高い人影があることに気づく。

「次はお前たちか?」

 涼やかな声が青年とその取り巻きたちに向けられる。

 青年はしばらくの間、黙って声の主を見ていたが、やがて薄笑いを浮かべる。

「そうか。あんたが、噂の騎士様か。先代の忘れ形見だけあって良い腕してるね。だけどその安い義侠心みたいなやつは当代に植え付けられたものなのかい? 君の面構えには、どうにも似合わないと思うけどな。―ああ、そのふたりは好きにしていいよ。陛下の騎士様に手を上げたんだ。煮るなり焼くなり、ご自由に」

 そう言い捨てて、青年は夜の闇へと姿を消した。取り巻きたちも慌ててその後を追う。

 危機が去るやいなや、ライラはへたりとその場に座りこんでしまった。安堵のあまり、体が思うように動かない。

「大丈夫ですか?」

 涼やかな声が頭上から聞こえたと思うと、黒い手袋を嵌めた手が眼前に差し出される。

「あ、ありがとうございます」

 おずおずとその手を取ると、声の主は優しく彼女の身体を引き上げてくれた。

「どこか痛んだりはしませんか?」

「あ……いえ、全然平気です」

「それは良かった」

 ライラは視線を上げ、手袋越しでもわかる骨張った手の持ち主をじっと見上げる。

「どうかされましたか?」

「あ……申し訳ありません、じろじろと見てしまって」

「いえ、お気になさらず。無理もありません。私のような者は、貴方の母国にはいないでしょうから」

 しかし、ライラは物珍しさから彼をじっと見つめていたわけではなかった。

 ……白銀の騎士様。

 彼女は、子どもの頃に憧れた騎士物語の主人公を思い出していた。強さと優しさを兼ね備えた、騎士の中の騎士。

 ……あんな人、物語の中にしかいないと思ってた。

 彼女は星を散りばめたように輝く瞳で、彼の瞳を穴が開くほど見つめた。もっとも、そんなことをするまでもなく、彼の瞳には最初から虚な穴が空いていたのだが。

「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

「私の名ですか? ……サイラスと申します。骸骨騎士のサイラスといえば、多少は名も通っているかもしれません」

 骸骨騎士の、サイラス様。彼女はその名を刻みこむように、幾度も胸の内で繰り返した。


 サイラスは週に一度か二度くらいの頻度で、店にやってくる。

 彼は食事はしないし、酒も飲まない。大抵は隅の席に座り、他の常連との会話を楽しんだり、芸人の奏でる音楽に耳を傾けたりしている。店を出る際には律儀に席料を置いていく。

 彼は以前からこの店の常連だったのだが、ライラは彼の存在をほとんど気に留めていなかった。彼はいつも目立たない場所に座っていたし、彼の静かな声は酒場の喧騒の中で完全に搔き消されてしまっていた。気がつくと店におり、いつのまにか席料を残して消えているお客様。それが、ライラがサイラスに対して抱いていた印象の全てだった。

 なのに、ここ数日は彼のことばかりを考えている。店内に彼の姿を探し、彼が店に来ていればその姿をつい目で追ってしまう。ちゃんと仕事に集中しなければと自分に言い聞かせてもみるのだが、気がつくと思考は彼に舞い戻ってしまっている。……こんな気持ちは初めてだ。今まで出会った、というより出会わされた男性たちに対しては決して抱くことのなかった感情。

 ……もっと、あの人と話してみたいな。

 その気持ちは日に日に強まっていったが、強く想えば想うほど、一歩踏みだすのが怖く感じられて、結局あの出来事以来ライラは一言もサイラスと話せずにいた。

 転機が訪れたのは、五月のある夜更けのことだった。

 彼は大抵夜が深まる前に店から去ってしまうのだが、その日は珍しく閉店間際まで留まっていた。

 酔い潰れた客たちに囲まれて、彼はひとり静かに窓の外の月を眺めていた。

「今日は随分遅くまでいらっしゃるんですね」

 おずおずと口を開いてから、もっと気の利いた声のかけ方があっただろう、と自分を詰る。

 サイラスは少し間を置いた後、ああ、と応える。

「明日は非番なので、少し長居させて頂くのもいいかなと思いまして」

「魔王陛下にお仕えされているんですよね」

「おや、ご存じでしたか」

「女将さんから教えてもらいました。王都一の剣士なのだとか」

 サイラスは照れるように白い頬を掻く。

「それは買い被りというものです。私は私以上の使い手を、少なくとも三人は知っています。彼らと比べれば私の剣など児戯に過ぎない」

「ですけどその剣があの夜、私を救ってくれました」

 ライラが言うと、サイラスはまた頬を掻く。どうやらこれが彼の癖らしい。

「あれぐらい、たいしたことではありません。ああいったことはこれまでにもあったのですか?」

「いえ、あの夜が初めてです」

 サイラスは頷き、それから少し潜めた声で言う。

「今夜この近くの店で、城で働く兵士たちの宴が開かれていました」

「え?」

「民に無礼を働く兵士などいないと言いたいところですが……中には酔いが回ると少々礼節を見失う者もおります。幸い、そういった輩はこの店には来なかったようですが」

「そ、そうだったんですね」

 ライラはそう言ったきり口ごもり、サイラスも物言わぬ屍のように黙りこんでしまった。

「ひょっとして、私を心配してくださってこの時間まで……?」

 サイラスは無言でこくりと頷く。

「あ、ありがとうございます」

「いえ、いらぬ気を回してしまいました」

 再び会話が途切れ、奇妙に張りつめた沈黙がふたりの間に流れる。

「あの」

 ライラは己を鼓舞するように、ぐっと両のこぶしを握りしめる。

「実は私も明日、休みなんです。それで、その、もし良ければ一緒にどこかへ出かけませんか」

 そう口にした途端、サイラスの眼窩が当惑で満たされる。少なくともライラの目にはそのように映った。

「ええとつまりですね、まだこの前の御礼もできていないので、それも兼ねてどこかへ行けたらなと思ったりしたのですけど……」

「ええ、喜んで」

 しどろもどろになるあまり、ライラはその静かな一言を聞き洩らした。

「もちろん無理にというわけではなくて、他に予定があればそちらを優先して頂いて全然構わないのですけど……」

「いえ、何も予定は入っておりません。待ち合わせ場所はこの店でよろしいですか? 何時くらいに伺えば良いでしょう?」

「え? はい、私はここに住ませてもらってるので……時間は、正午でどうでしょう」

「わかりました。その時刻に伺います。それではまた明日、よろしくお願いします」

 そう言うや否やサイラスは立ち上がり、風のように颯爽と店を後にした。

 黒い外套を羽織った細身の後姿を、ライラは夢と現の狭間を漂うような心地で見送った。

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