骸骨の恋②

 翌朝、ライラは普段の仕事着―白い上着に、紅茶色のスカート。首元にはベージュのスカーフを巻いている―に着替えてサイラスの到着を待った。

 本当はできる限りのおしゃれをしたかったのだが、実家を出たときに身に着けていた服や装飾品は王都までの旅の路銀に代えてしまっていた。髪留めをお気に入りの薄緑色のリボンにしたのが、せめてもの抵抗だった。

 正午の鐘が鳴り始めると、北の方角からすらりとした人影が近づいてくるのが見えた。

 サイラスは普段酒場に来るときと同じ装いだった。漆黒の外套を纏い、正面を銀のボタンで留めた紺色の長袖に身を包んだ姿。

「お待たせいたしました」

「い、いえ。それじゃあ行きましょうか。時間も時間ですし、まずはお昼ご飯ですよね」

「そうですね。どこか行ってみたい店はありますか?」

「はい、この前買い出しのときに見つけた、噴水広場の近くにある黄金鳥のパイの店が良さそうな感じで……」

 ライラは言葉の途中で、ふいに口を噤む。

「ライラさん? どうかされましたか?」

「いえ、その……ごめんなさい。考えてみたら、食事の店なんて行ってもしょうがないですよね……」

 なぜ、そんなことにすら思い至らなかったのだろう。サイラスは食事を摂らない。自分ひとりでパイをむしゃむしゃ食べてどうするのだ。

 しかしサイラスは特に気にした様子もなく「ああ」と呟く。

「私に気を回して頂かなくて結構ですよ。ライラさんが食事している姿を観察させて頂きますから」

「か、観察ですか?」

「あ、いえ……観察という言葉は良くなかったですね。ただ、他の方が食事をしている姿というのは、私にとって非常に興味深いものなのです。食事の楽しみというのは、私には決して知りえないものですから」

「はあ、なるほど……」

 サイラスがそう言うのなら、これ以上自分が異を唱えるのも筋違いというものだろう。……食べているところをじっくり見られるのは、正直恥ずかしいけれど。実家で叩きこまれた食事中の礼儀作法をきっちり守るようにしなくては。

 そう意気込んだものの、いざ食べる段になると、そもそも露店のパイを食べるための作法など学んでいないことに気づいた。噴水の縁に座り、薄い布にくるまれた熱々のパイを食べる。それは帝都の実家で暮らしていた頃には決してできなかった体験だった。

「どうです、期待通りの味でしたか?」

 サイラスは空っぽの瞳でライラを見つめながら尋ねる。こんなに緊張する食事は今までで初めてかもしれない。

「そうですね……想像よりもあっさりとした味で、油断してるといくつも食べてしまいそうです」

「それは良かった。帝都のものと比べるとどうですか?」

「私、故郷にいた頃は黄金鳥のパイって食べたことなくて」

「おや、そうなのですか?」

 サイラスの瞳が小さな驚きで満たされる。彼は一見無表情だが、よくよく見れば感情はちゃんと表に出てきている。

「帝都出身の知人が、黄金鳥のパイといえば帝都名物のひとつだと言っていたのですが。もっとも彼が帝都で暮らしていたのは相当昔の話なので、今は事情が異なるのかもしれませんね」

「いえ、今でも黄金鳥のパイは帝都名物なんですけど、うちの食卓では決して出てくることがなかったので」

「いわゆる菜食主義のご家庭だったのですか?」

「いえ、そういうわけではなくて……父は、黄金鳥のパイは庶民が食べるものと考えていたんです」

 黄金鳥は、その名に反して安価で手に入る食材だ。安くて味も良いので庶民の心強い味方と言われている。

「父は庶民的なものを毛嫌いしているんです。だからいつも貴族みたいな服を着て、貴族が食べるようなものを食べていました。そんなことしたって貴族になれるわけじゃないのに、おかしな話ですよね」

 おそらく父自身も、それを自覚していたのだろう。だから彼は帝都の交易商として長年蓄えた富と娘を使い、貴族の血筋を手に入れようとした。

「ごめんなさい、私の家の話なんて聞いても面白くないですよね」

「いえ、そんなことはありませんよ。とても興味深いです」

 サイラスの言葉に、ライラは顔を赤くする。別に深い意味はないのだろうが、興味深いと言われるとどきりとしてしまう。

「ところで、次の行き先はもう決めているのですか?」

「聖水の泉を見に行ってみようかなと思っていたんですけど、他にどこかサイラス様の行きたい場所ってありますか?」

「ええとですね……」

 サイラスは少々躊躇いつつ、二枚の紙切れをライラに差し出す。

「え。これって……」

 ライラは紙に書かれている文字に目を落とす。王国の文字は帝国の文字と少々異なるが、おおよその意味くらいならわかる。

「ひょっとして、歌劇の鑑賞券ですか?」

「はい」

「ええと、その……」

 まさかとは思うが、わざわざ自分と観るために用意してくれたのだろうか。

 サイラスは顔を伏せながら、頬を掻く。

「知人から譲り受けたのですよ。行けなくなったから、良ければと」

「ああ、そういうことですね」

 ライラはほっと息を吐きつつ、ほんの少しだけ落胆する。

「あの、王都の歌劇には私も興味があったのですごく行ってみたいのですけど……この服装じゃ、歌劇場に入れてもらえないんじゃないでしょうか」

 歌劇場といえば、世界で最も華やかな場所のひとつだ。客のほうにも当然それ相応の身だしなみが求められる。ライラも以前父にあてがわれた婚約者候補とともに帝都の歌劇場を訪れた際は、貴族の令嬢が晩餐会で着るような窮屈極まりないドレスに身を包んでいた。 

「いえ、問題ありませんよ。王都の歌劇はそれほど堅苦しい見世物ではありませんから。逆に帝都の歌劇と比べると些か品がないように感じられるかもしれませんが、そこは何卒ご容赦ください」

「品がない、ですか」

「これも帝都出身の知人からの受け売りですが、帝都の歌劇は貴族階級の楽しむもので、対して王都の歌劇は庶民の娯楽として始まったのだそうです。ゆえに、王都の歌劇には帝都のそれのような煌びやかさはありませんが、代わりに瑞々しい躍動に満ち溢れている」

 サイラスの言葉通り、王都の歌劇は帝都のそれとはだいぶ趣が異なった。台詞も全て歌で表現する帝都の歌劇に対して、王都の歌劇は演劇のように普通に話していたかと思うと、突然声を張り上げて歌いだす。帝都の歌劇は咳ひとつできないような雰囲気だが、王都の歌劇の場合、愉快な場面では遠慮のない笑い声が上がり、悲しい場面では客席のあちこちから啜り泣きが聞こえてきた。

 その劇は望まぬ結婚を強いられた娘が、愛する人と結ばれるまでを描いた物語だった。降りかかる数多の苦難を乗り越え、娘は本物の幸せを手に入れる。

「あの劇は以前も一度観たことがあるのですが、その際は娘も恋人も命を落とすという結末になっていましたね」

「そうなんですか? 今日の結末と真逆ですね」

「元々は帝国の劇を翻案したものだそうですよ。当初は原案通りにやっていたのが、段々と王都の民の嗜好に合わせて改変されていったようです」

「王都の人たちは明るい結末が好きだったんですね」

「私は元の結末も捨てがたいと思うのですが……」

「悲しい物語も、ときには良いですよね。でも私は今日の結末のほうが好きかもしれません。せめて物語の中では、幸せな夢に浸りたいので」

 ライラは微笑みながら言ったが、その声には暗い影のようなものが忍ばされていた。それに気づいてか、サイラスは優しく労わるような声音で言った。

「まだ日も高いですし、聖水の泉に行ってみましょうか」


 王都の南西部には柔らかな木漏れ日の差しこむ林がある。聖水の泉は、この林の一隅にぽつんとある。

「あれですか?」

「はい。案外ちっぽけな泉でしょう?」

「そうですね、王都の名所のひとつと聞いていたので、てっきりもっと目立つものなのかと……」

 岩の間からちょろちょろと湧き出ているそれは、泉というよりも水たまりといったほうが良さそうである。

「さ、飲んでみてください」

 サイラスはライラを促すように、ほっそりした腕を泉に翳す。

「え。飲んでも問題ないんでしょうか」

 ライラにとって聖水とは、教会の儀式で司祭様が振りまいている何やら神秘的な液体である。聖水を飲むというのは今までになかった発想だった。

「はい、ライラさんならば問題ないはずです。……念のためお尋ねしますが、魔術の心得はありますか?」

「魔術ですか? 知識として習ったことはありますけど、自分で使ったことは一度もないです」

「それならば心配ないですね」

 何が心配ないのかさっぱりだったが、サイラスは悪だくみをするような人物ではないと思うので、腹をくくって手のひらに掬い取った水に口をつける。

 途端、体の奥底から何か不思議な力が満ちていく。まるで全身に溜まった汚れが洗い清められていくような感覚。

「どうです? 美味しいですか?」

「美味しいというか……なんだかとても清々しい感じです」

「なるほど。やはり帝国の方はそういう感想を抱かれるのですね」

「これってやっぱり体内の邪な気みたいなものが清められたということなんでしょうか」

「いえ。聖水の効果は魔力の活性化です」

「魔力の活性化……」

「聖水がなぜ聖水と呼ばれるのか知っていますか?」

「邪なものを払うからだと思っていましたけど……」

「なるほど、帝国だとそのような考え方が一般的なのかもしれませんね。しかし王国の民、特に魔族は、体に流れる魔力を活性化させてくれるからこそ、この水を神聖なものとして扱い、儀式に用いたりもするのですよ」

「王国の人にとっても聖水は神聖なものなんですね。ちょっと意外です」

「帝国の方がそう思われるのも無理はありません。帝国では聖水が魔除けとして使われるのでしょう? であれば、魔の者である王国の民が聖水をありがたがるのを解せないというのはごく自然な感覚です。ライラさんは先ほど、聖水を飲んで清々しい気持ちになったとおっしゃられましたが、魔族が聖水を飲んだり身に浴びたりした場合どうなると思いますか?」

「え? それは……魔族は魔術に長けているのですし、より強く魔力が活性化されるのでは?」

「そう。魔族というのは、いってみれば常時魔力が活性化しているようなものですから、そこに聖水の効果が加わると……これも私にはわからない感覚ですが、酒に酔って酩酊しているような状態になってしまうのだそうです」

「せ、聖水で酔うんですか」

「ですから、魔族が儀式の際に用いる聖水は水で薄めてあります。ただ、それでも……魔王様が先日の儀式の際、水で薄めた聖水を浴びられていましたが、その日はずっと酔漢のようにげらげらと笑っておられましたね」

「げらげら……」

 魔王と言えば、帝国では今でも魔族の強大なる長として畏れられている存在なのだが。魔王の誕生日とされている日に、通りに聖水を振り撒くという慣習が残っている地域もあるくらいだ。

「幸い、儀式の最中はなんとか堪えられていましたが……」

「なんだか魔王陛下の印象が変わってしまいますね。普段はどういうお方なんですか?」

 サイラスは一瞬、黙りこむ。口ごもったというより、言葉を選ぼうとしているように見えた。

「魔王様は、とてもお優しく、立派な心根をお持ちの方です」

 その短い一言に、彼の魔王に対する深い敬意が込められているように思えた。ライラは迂闊に踏みこめず、サイラスが再び口を開くのを待った。

「私は百年ほど前、先代魔王の魔術で生みだされました。殺戮のための道具だった私は、ほどなくして戦場に身を投じる運命でしたが、それが現実となることはありませんでした」

「終戦ですね」

「はい。魔王様は、私を長い眠りに就かせました。そして、私の身に刻みこまれた殺戮の本能が時を経て薄まった後、再び目覚めさせてくださった。私は魔王様のおかげで、戦場で人を殺めずに済んだのです。のみならず、こうして穏やかな時間を過ごす喜びを、魔王様はこの身に与えてくださりました。だから私はこの身が果てるまで、この剣を彼女に捧げると誓ったのです」

 サイラスの瞳の空洞を、ライラは瞬きすることも忘れ、じっと見つめていた。そのことに気づいてか、サイラスはふいと顔を背ける。

「すみません、少し喋りすぎました」

「いえ……話してくれて、ありがとうございます」

 サイラスは顔を背けたままもう一度、すみませんと呟いた。  

 酒場の面する通りに戻ってきた頃、西の空は紫がかった赤に染まっていた。気候の違いのせいか、王都の夕暮れは帝都のそれと比べて色が暗く、深い。初めの頃はそのことを少し恐ろしく感じていたが、今ではこの赤紫の夕焼けがすっと心に馴染むように感じられる。自分も少しずつ、王都の民になってきているということなのだろうか。

「サイラス様。今日は本当にありがとうございます。王都に来てからで、一番楽しい一日でした」

「いえ、私のほうこそ貴方に感謝しなくてはなりません。今日過ごした時間は、私ひとりでは決して得られないものです」

「あの……」

 もしまだお時間があれば、店に寄っていきませんか。ライラがそう言いかけた瞬間、機先を制するようにサイラスは再び口を開いた。

「王都での暮らしは貴方にとって決して楽なものではないでしょう。しかし貴方ならば困難を乗り越え、真の幸福を掴み取ることができると思います。その日まで、どうかお元気で」

「え……」

 ライラは思わず手を伸ばしたが、その手をすり抜け、サイラスはライラの元から離れていった。

「待ってください!」

 赤紫の色に染まるサイラスの後姿をライラは必死に追うが、その距離は決して縮まらない。

 気がつくと雑踏のどこにもサイラスの姿は見当たらなくなっていた。

その日を境に、サイラスは店に姿を見せなくなった。


 ライラは表面的にはいつも通り仕事をこなしていたが、その心は暗く沈んでいた。

「ライラ。何があったかは知らないけど、少し休みを取ったっていいんだよ。店のことはどうにでもなるからさ」

 ライラがサイラスと出かけたことを知る女将がそう声をかけると、ライラは首を横に振った。

「大丈夫です。別に何があったというわけでもないので」

 そう、何か特別なことがあったわけではない。自分はサイラスと一日を過ごし、その後サイラスは店を訪れなくなった。ただ、それだけのことだ。

 きっと自分の態度や発言にまずいところがあったのだろう。気づかぬうちに失礼なことを言ってしまったのかもしれない。

 非礼があったのならきちんと詫びたかったが、それほど引き摺るような話でもないはずだ。彼と自分の間には、何もなかったのだから。彼は騎士として当然のことをしただけ。休日にわざわざ付き合ってくれたのも、誘いを無碍に断るのは失礼と思ってのことだろう。そんなことは初めからわかっていたはずなのに。

「……そうよ。一番初めから、家を飛び出したときからそれくらいわかってたでしょ」

 深夜の闇に包まれた部屋で、ライラはベッドに蹲り、呟く。

 もとより自分は、逃げることしか考えていなかった。父から、そして父の連れてくる縁談相手たちから逃げたくて、父の手の及ぶことのない遥か北の都にまでやってきたのだ。

「私なんかが、あの人と並んで歩けるはずがない……」

 聖水の泉で聞いた彼の言葉が、耳の奥でこだまする。私はこの身が果てるまで、この剣を彼女に捧げると誓ったのです。そう語った真摯な声。揺らぐことのない意思の宿った瞳。逃げてばかりの自分とは正反対の生き方。

 その晩は結局一睡もできなかったが、心は奇妙に晴れていた。甘い夢を見るのはもう終わり。生きていくために、しっかり働かなくては。

 開店の準備をしていると、女将が小走りに近づいてきた。ライラの足元までやってくると、彼女は潜めた声で言った。

「なあ、あんたを探しているっていうやつがやってきたんだけどさ」

「私を? でも、この町に知り合いなんて……」

「いや、見た感じはあんたと同じ帝国人だよ」

「……帝国人」

 ライラは思わず嘆息する。まさかここまで追ってくるとは。

「髪の白い爺さんで、地味だけど仕立ての良い服を着てたね。どこかのお貴族様かね?」

 白髪ならば父ではないだろう。そもそも冷静に考えてみれば、父がわざわざ自分のために王国まで出向いてくるはずがないのだが。たしか縁談相手の中に、年嵩で白髪混じりの人物がいた。彼はだいぶ借金があったようだし、自分の婚礼金は喉から手が出るほど欲しいことだろう。家柄はとても立派な人だったから、彼のために父が旅費を工面してあげたということも十分ありえるように思える。

「わかりました。ちょっと話してきます」

「大丈夫かい? なんなら、あたしが適当に追っ払っておこうか?」

「いえ、これ以上女将さんに迷惑はかけられませんから」

 表で待っていた人物をひと目見て、ライラは大きく目を見開く。

「……タファン」

「お久しぶりです、お嬢様」

 タファンはライラの父の片腕というべき存在だった。父を仕事においても、家のことにおいてもよく助け、ライラも幼い頃からずっと彼の世話になってきた。

 タファンは皺の目立つ右手をライラに差し出す。

「さあ、帰りましょう」

「帰りません」

「……お嬢様」

「タファンがなんと言おうと、家には二度と戻りません。……たしかにあの家で暮らしていた頃は、食べるものにも着るものにも決して困ることがなかったわ。それでも私は、今の自分の暮らしのほうが、あの頃よりもよほど自由だと言い切れます」

 タファンは複雑な表情で、目を伏せる。

「お父上も、あれから考えを改められました」

「まさか。お父様が貴族になる夢をそう簡単に諦めるとは思えないわ」

「ですが、お嬢様の意にそぐわぬ縁談を無理に進めることはもうなさらないはずです」

「そんなの、口ではどうとでも言えます」

「私もできる限り力を尽くします」

 眉間に深い皺を寄せて言うタファンの姿に、ライラの心は少し揺らぐ。彼は昔から彼女の味方だった。彼女を道具としか見ていなかった父と違い、態度は控えめながら、誠意をもって彼女に接してくれた。

「タファン。あなたの言葉を疑うつもりはありません。だけどあなたがいくら力を尽くしてくれたところで、お父様の気持ちを変えられるとは思えません。それはあの人を間近で見てきた私が、一番よくわかってるもの」

 ライラは静かに澄んだ瞳でタファンを見据えた。タファンもまた、痛ましげな表情でそれを受け止めた。

 やがてタファンは、ひとつ息を吐いた。

「明日、また伺います。雷鴉通りの羽月亭という宿におりますので、もしも気が変わりましたら、いらしてください」

 タファンが去った後、女将はライラのスカートの裾をちょいと摘んで言った。

「ライラ、後でちょっと話せるかい?」


 ライラは窓際の席に腰かけ、闇に浮かぶ月を見ていた。その目元には、はっきりと赤みが差している。やっぱりビールなんて飲むんじゃなかった。お酒を飲めば全部忘れられるなんて嘘っぱちだ。

 閉店後、女将はライラを呼び出すなり「もう家に帰りな」と告げた。

「こんな若い子がひとりで帝都からやってくるなんて、よっぽど事情があるんだろうと思ってたけどさ。まだちゃんと帰れる家があるなら、おとなしく帰っておくことだよ」

「……帰りません。あの家にいても、父の道具としていいように使われるだけです」

「親父さんだってまた家出されたくはないだろうし、少しはマシな相手を見繕ってくれるんじゃないかい。今日来てた爺さんだって力になってくれそうなんだろ?」

「はい、タファンは私の味方だと思います。ですけど……」

「望まぬ相手と結婚したくないっていうのはわかるよ。だけどこの町にいたところで、あんたの望む相手と結ばれるわけじゃないだろう?」

「……」

「サイラス様のことは、忘れな。立派な騎士様なのは間違いないけど、あんたと結ばれるのはあり得ない相手だよ。もう目を覚まして、自分のいるべき場所に帰ったほうがいい。今は辛くても、それがあんた自身のためさ」

 淡い輝きを放つ月を、ライラはただぼんやりと見ていた。彼もよく、ここでこうして空を眺めていた。決して手の届くことのない夜空の光を、彼は一体どんな気持ちで見上げていたのだろうか。

 女将さんは良い人だ。それでも残りたいなら好きにすればいいと言ってくれた。「ただ、よくよく考えてみることだよ。あんたにとって何が一番の幸せなのか」

 ……私にとっての、幸せ。

 ライラの脳裏に、涼やかな声がこだまする。

 ……貴方ならば困難を乗り越え、真の幸福を掴み取ることができると思います。その日までどうか、お元気で。

 ライラはゆっくりと立ち上がり、それから今一度、空に浮かぶ月を見る。

 翌日、ライラはタファンの待つ宿に向かい、帝都に戻ることを決めたと告げた。

「だけどその前にひとりだけ、話しておきたい人がいるの」

「わかりました。その方は一体どちらに?」

「魔王陛下のお城よ」

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