第一章 風に飛ばされた娘
夕暮れの街角は、人波でごった返していた。
火の国国境にほど近い、南方辺境地にある風の民の集落。かつて大陸全土に散らばっていた風の民の集落は、この集落が最後となってしまった。
水の国騎士団・西方辺境隊隊長のファルクは、外交上の火種が勃発しつつあるこの南方辺境の風の民の集落周辺地の警護に、二週間ほど派遣されてきた。
初めて自分の目で見る風の民の集落は、水の民のファルクからすると、思っていた以上に小さく、静かだった。これが、かつて大陸の四分の一を支配した民の今の姿だなんて――。
とはいえ、集落を行き来する民の顔は明るく、今の風の王は善政を敷いているのだろうと想像はできる。
しかし、行きかう民の容姿はもうバラバラで、とてもではないが「風の民」と外見でくくるのは難しい。
風の民は、いつまでこの集落を自分たちの王国として保っていけるのだろうか?
ファルクはそんな不吉な予感を感じながら、集落の外に向かって歩いていく。
と、突然左肩に衝撃を感じた。向こうから歩いてきた少女とぶつかったらしい。
「おっとすまない」
倒れた少女に手を貸し、立ち上がらせ、落としたバッグを拾い手渡す。
少女はバッグを受け取ってほこりを払うと、胸に抱え込む。そして、ぺこり、と小さくお辞儀をする。
「ごめんなさい」
まだ幼さの残る細い体。髪には細やかに編み込まれた銀の糸が揺れていた。
着ている服は、地味ではあるが、素材はよいもので、身分の高いものに仕えている侍女が着るようなものだ。
「おい、落としたぞ」
ファルクは地面に小さく光るものを見つけて拾い上げた。それは小さな銀の耳飾り。風の文様が繊細に彫られている。
少女に向かって銀の耳飾りを差し出そうとしたが、急いでいたのかあっという間に少女は背を向けて雑踏の人波の中に溶け込んでしまっていた。
「おい!お嬢さん!」
声を張ってはみたが、雑踏の中では意味がなかった。
「どうしたらいいんだ、これ」
ファルクは、手の中に取り残されたその耳飾りをじっと見つめた。
「風の民の文証……か」
しかし、あの子は風の民の容貌だったろうか?
確かに色白な肌はしていたと思う。が、髪と瞳の色は暗かった気がする。風の民とは感じなかった。――しかし、今の風の民は典型的な容貌であることの方が少ない。見た目が違うから、風の民ではない、と決めつけるのは早計だろう。
この耳飾り、返せるかな。
あまり大きな集落ではない。南方辺境駐在の間、ちょっと気を付けていれば、見つけることはできるだろう。ある程度の身分のお屋敷勤めの侍女、と目星もついているのだ。
しかし、ファルクが少女の手に耳飾りを返す機会は、永遠に失われてしまった。
**
森に、春の終わりを告げる風が吹いていた。
その森の奥、春の終わりにしか咲かない貴重な花がある。薬草としても貴重なその花を、老婆――サーラ――は、毎年この時期になると採りに来ていた。
森の奥はうっそうと木々が茂っている。日のあたらない地面はしっとりと濡れて冷たく、森の奥特有の土のにおいを発している。
そんな木々の根本に、一人の若い娘が倒れているのが、サーラの目に入った。
薄物しかまとっていない娘の身体は、土の冷気を吸ってひどく冷たい。
サーラは、動かぬ娘の口元に手をかざして息を確かめ、すぐに腰の薬籠から香草を取り出して娘の鼻先にかざした。
娘はぴくりとまぶたを動かしたが、意識は戻らない。
老婆はため息をつくと、自分の肩にかけていたショールを娘の体の下に敷き、冷たい地面にじかに触れないようにすると、森のふもとにある小さな駐屯所へ向かった。そこには顔なじみの騎士がいた。
「ちょいと力を貸しておくれよ。森で娘が倒れててな、命が危うい」
騎士は慌てて仲間を呼び、担架を使って娘を老婆の家へと運んだ。
**
それから一週間、娘は断続的に昏睡状態を続けていた。
老婆、サーラは薬草を煎じ、冷えた体を温めるように毛布でくるみ、声をかけつづけた。
回復の兆しは見せないが、かと言って悪くなっていく兆候もない。若さの体力を信じて、このまま様子を見ていくしかない。と、サーラは様子を見ながら腹をくくった。
サーラは薬草の知識を持ち、自宅で細々と自家製の薬を調合して人々に分け与えていた。医師にかかるほどではない軽い風邪に効く煎じ薬、疲労に効く飲み物、軽い傷に効く
とりわけ怪我が絶えない騎士団員は、
だから、娘を山の奥からサーラの家に運んだ騎士たちは、
「最近は、騎士団での訓練が激しくなったのかねぇ。
若いっていいねぇ、と言いながら、
目を開くとまた違うかもしれないけど、寝顔は相当整っているもの、美女の目覚めがみんな気になるんさね。
在庫が減ってきている薬を調合し、摘んできた薬草の加工をし、といつもの業務をサーラは淡々とこなす。
また店のドアが開いて、騎士の制服を着た人影が入ってきた。
「はいはい、また
老眼鏡を押し上げながらサーラは調合の手を止め、顔を上げる。
「おいおい、娘さんってなんのことだい?」
「おや。ファルク隊長。南の辺境から帰ってきたんだね。予定より早くないかい?」
ここ十日ほど目にしていなかった人物の姿を認め、サーラは笑顔になる。
「そうなんだ。警護するはずの風の民の集落が全滅してしまったから……いったん撤退が決まり、少し早く帰還になったよ」
そういいながら、南方でしか手に入らない珍しい薬草をテーブルに置く。
「いつも騎士団が世話になっているお礼さ。気にせず受け取ってくれ」
「あぁありがたくいただくよ。このところ、みんなこぞって怪我するみたいで、
「あぁ悪いね。そう、お姫様を拾ったんだって?」
「そうなんだ。薬草を摘みに行った森の奥で倒れていてね。見殺しにするわけにもいかないだろう?運ぶの、坊やたちに手伝ってもらってありがたかったよ。お礼を言っておいておくれよ」
「それぐらいなんでもないさ。それより、なんでそんなところに倒れていたかわかるかい?」
ファルクの質問に、サーラは表情を曇らせる。
「それがわからないんだ。行き倒れの割には、数秒前まで部屋の中にいたように、足なんか綺麗だったし。着ている物も部屋着のような薄物。誰かが部屋から抱きかかえて連れ出して、森に捨てたんだろうか、って感じだね」
「そうか……何か話はしてみた?」
「ほとんど寝たままでね。たまに目を開けるんだけど、焦点は合わなくて、話しかけても反応してくれないね。水もあまり取らんし……けど、不思議なことに熱はないんだよ」
「そうか……わかった。念のため、話せるようになったら呼んでもらえる?」
「あぁわかったよ。目が覚めたら呼びに行くさね」
あぁ俺は
ああいう気持ちの良い若者が、女性不信で独身を貫くなんてねぇ、世の中もったいないね。
サーラは軽く頭を振ると、またルーチンの仕事に戻っていった。
**
「わたし……」
弱々しい声が聞こえてきたのは、さらにそれから数日が経ったころだった。
最近、目を開ける回数が増えてきたね、と身構えていたら案の定、声を発するところまで回復したらしい。
「あぁ気がついたかい?かれこれ十日は眠りっぱなしだったんだよ」
声をかけながら、薬の調合から手を離し、水の入ったグラスを持つと、サーラは娘の枕元にやってくる。
体を起こそうとしているので、娘を手助けして体を起こしてやり、背中にクッションを置いて居心地良く座れるようにしてやった。
枕元の小机に置いたグラスを手に取ると、娘の手に握らせる。
「まずは一口、飲むといいよ」
娘は素直に頷くと一口、水を飲み込む。
サーラはその様子を見届けると、娘の手からグラスを取り上げ、もう一度枕元の小机にグラスを置いた。
そして椅子に腰掛ける。
「娘さん。十日ぐらい前に森に倒れていたんだけど、何か覚えているかい?」
「もり……」
始めて聞いた言葉だとでもいうように、娘はサーラの言葉をおうむ返しする。
「わからないか。ではひとまずあんたの名前を教えておくれよ」
「……わたし……わたし……誰でしょう?」
泣きそうな顔でそう言う娘を、サーラは立ち上がり、抱きしめた。
「そうかいそうかい、名前も忘れちまったかい。いいんだよ、そういうことになる人は珍しくないよ。いつかは思い出せるから大丈夫だ」
抱きしめた手を離すと、サーラは娘の顔をのぞき込む。
「あと少しで夕刻だ。そしたらまずはスープを飲ませてやるからね、それまでベッドでおとなしく寝ているんだよ」
娘は不安そうに頷くが、おとなしく目をつぶった。
その様子を見届けて店に戻ったサーラは、簡単に後片付けをすると店を閉じ、騎士団の駐留地へ向かった。
**
「ちょいと、隊長いるかい?」
駐留地の門番の若者も、サーラの薬屋の常連さんだった。顔見知りの気安さで、サーラは隊長の消息を質問する。
「いるよ」
「じゃ、つないでくれないかい?眠り姫が起きたって言ってくれればわかると思うよ」
「お安い御用さ。サーラさん、一緒に行こう。この時間は隊長、来客歓迎さ」
門番の若者は仲間に声をかけ、持ち場を離れる連絡をすると、サーラに声をかけ歩き出す。
いくつか小屋の群れを通り過ぎ、奥まったところに、他よりも少し大きめの小屋があった。
「隊長ー!サーラさんが御用だって」
門番の若者が、奥に声を掛けると、程なくして声が返ってきた。
「おう。入ってもらっていいぞ!」
「ではよろしくお願いします!」
門番の若者は、叫び返すと入り口を示し、入るように促した。
「お入りください。中は見ればわかるんで。どうぞ」
「そうかい?じゃ、失礼するね」
若者はサーラが中に入ったことを見届けると、踵を返し任務へと戻っていった。
サーラが小屋に入るとすぐに広間スペースがあり、その奥に執務室机が置かれ、その前にファルクが座っていた。
確かに見ればわかる作りさね。
そうつぶやくと、サーラは広間を突っ切りファルクの執務机の前に進む。
ファルクは、近くの椅子をサーラに勧め、質問を投げかけた。
「娘が目を覚ました?」
「察しがいいね、その通りさ」
「わざわざ来ていただいた、ってことはそういうことだろう?ついでに言うと、何か問題がある?」
「そう。記憶をなくしたみたいなんだよ。自分の名前もわからないらしい」
さすがの年の功、ファルクの勘の良さにいちいち感心することなく、サーラはさっさと話を進める。
「そうか……では、近隣に行方不明の娘がの届けがないか、調べておくよ」
「助かるよ」
「しかし、あの子はどこの民なんだろう?ここ水の国の子じゃないよな?」
「風と水の混血じゃないかね。ただ、そうだとしたら、この西方辺境地にいるのは不思議だね。そういう子は南方に多いけどね」
「ふーむ」
「名前の響きは……って、名前がわからんのか。うーん。意外と難航するかもなあ」
探すための手がかりをメモしようとペンを取るが、まったく書き留められるような手がかりがなく、ペン先はいたずらに空をきり、また机の上に置かれた。
だが、透き通る白い肌、栗色の髪、中肉中背、年のころは二十歳ぐらいの女性。とだけメモを書き起こし、主計科科長のエリオを呼び出し、このメモの女性の行方不明届が近隣で出てないか確認するよう、依頼した。
いかにも計算に強い、といった風貌のエリオは、メモを受け取ると内容を一瞥し、かしこまりました、と言って退出していった。
「名がないのは不便だ。……では、しばらくの間、フィリアと呼ぶことにしよう。“友”という意味だ」
老婆がふふっと笑った。
「悪くないね。いい響きだよ。本人が気に入るといいけどね」
「断られたらまた来てくれ。
……今さらだが、しばらくサーラさんが面倒を見てくれる、ってことでよいか?」
「もちろんさね。一人ぐらい、何とかなるよ」
サーラはいたずらっぽく笑うと、立ち上がった。
「また、うちの店にも顔を出しておくれよ」
そう言うと、ファルクの小屋を出ていった。
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