香りの記憶~記憶喪失の侍女、無愛想な騎士のもとで長居しております~
三木さくら
プロローグ 灰の夜
とりとめのないおしゃべり、良いにおいのする食卓、暖かなベッド。
そんな当たり前だと思っていたの生活は、決して当たり前のものではなかった。
暖かくお日様の香りがするふかふかの毛布にくるまれたような居心地のよい世界に、突然、赤い閃光が走り、世界が反転した。
世界を守らなければいけない。
娘は反射的に、大事なものに駆け寄って守ろうとした。
でも、体は水の中でもがいているだけのようで、思うように前に進まない。そう思ううちに、何かにはじかれたように、体が空中に投げ飛ばされたことを、娘は感じた。
娘は、ただ宙に浮かぶ感覚に身を任せていた。
一瞬の時間か、永遠の時間か。
時間の感覚すら失わせる無音の世界、娘自身からも、重力や風の感触が失われていた。ただ、周りは奇妙な静けさに包まれている。
体の置き所をどうすればよいのかわからない中、熱でも冷たさでもない何かが背中を押した。逃げなさい、どこか遠くへ!
「いやだ」
誰が言ったのか、自分だったのかさえ定かではない。
その瞬間、世界が砕けた。
周囲の空気が、突然ぐにゃり、とたわんだ。
突然戻ってきた視界に、眼前に迫る森の木々が、時間を巻き戻すように逆さに広がった。風の音が聞こえ、土の匂いが迫ってくる。しかし、痛みや触感だけが断絶された世界で、「ここではないどこか」へ投げ出されていくのを、娘はただ見つめていた。
誰にも知られず、名もなく消えるのだろうか?
そんな思いが胸に広がった刹那、娘の世界は再び、暗闇と沈黙のなかへと落ちていった。
灰の匂いに包まれた夜。
すべてが失われたと思ったその時、遠くで誰かが自分を呼ぶ声がした。
目を開ければ、そこは見知らぬ町はずれの森。
名前も居場所も失った娘の物語が、静かに始まろうとしていた。
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